飛騨高山から荘川(しょうかわ)へと入る。御母衣(みぼろ)湖を右手に見て急な断崖、絶壁の白川街道を北上するとまもなく、樹齢450年と謳われる荘川桜が目につく。
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| 春の合掌家屋 |
この桜は湖底に沈んだ六つの集落、数百世帯と同じ運命にあったものだが、昭和35年のダム建設時に移植されて、現在地に根をおろしたものと聞いている。水上勉の小説「櫻守」の主人公「竹部庸太郎」は、この荘川桜の移植に携わった笹部新太郎氏をモデルにしたといわれる。笹部氏は東京帝国大学に在籍当時から桜の研究を始め、「山桜」,「里桜」の保護育成に生涯を捧げた人物である。昭和35年、湖底の寒寺から土もろとも40トンもある巨木を現在地に引き上げた移植事業は世界でも稀有の業績であると讃えられ、その巨木たるや、春になれば絢爛豪華に咲き誇るという。
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| 夏の合掌家屋 |
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| 白川街道(荘川〜平瀬) |
ここを過ぎると暫くは断崖、絶壁のダムとトンネルの連続する街道を、およそ40km北上する。
'98年に、ここを通ったときは、細い道、狭いトンネルだった。工事のダンプカ−がトンネルの入り口に差し掛かると、クラックションを鳴らして、「こちらから進入するから、しばらく待て」と合図を送る。この合図を知らずにトンネル内に入って、対向でもすれば交わすのに難儀したものだ。
2000年に再び訪れると細い道、狭いトンネルは新しく付け替えられ、随分安全に楽に白川郷へ入れるようになっていた。
現在は東海北陸自動車道も荘川ICまで完成している。あと何年かすると「白川郷ICを降りると合掌集落だった。」なんてことになる。現代では何の苦労もなく入れるこの白川郷も、孤立した地形にある秘境の集落だったのである。
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| 庄川 |
岐阜県側から入る白川街道、富山県側から入る煙硝街道、庄川を見下ろすV字形の谷間の奥に開けた集落は江戸時代は加賀藩の流刑の地(五箇山)にもなっていた。
冬の豪雪に加え、耕地面積はきわめて少ない。絶対的な家長権限、次男以下は嫁を迎えず、労働力として、厳しい年貢の重圧を支えた。(実際には次男以下も内縁関係の妻が許されていたといわれる。)大型木造建築はこうした大家族制度にあって特色的な生活、生産活動によるものであったのだろう。
こうした大家族制度は江戸時代中期から明治期まで続いたといわれる。
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| 白川郷イラストマップ |
御母衣湖を過ぎ、下り坂を暫く走ると平瀬地区に入る。左手にとてつもなく大きい合掌造り家屋、遠山家がデンと立っている。昭和43年まで生活していた旧遠山家である。大家族制度の時代には40人もの大家族が生活をともにされていたという。現在は遠山家民俗館として一般公開されている。
そうした中、道路脇の駐車場に大型観光バスが停まる。世界遺産となってからはこうした大型観光バスのツア−客として訪れる人も多い。
遠山家は一般公開された民俗館であるが、合掌集落は観光用に造られたテ−マパ−クではない。世界文化遺産として登録されたが、人々が実際に生活をされている集落である。それだけに住民のとまどいもあるという。自由に立入が許可された観光施設ではないことを念頭において観光したいものである。
私は2000年の夏、再び白川郷を訪れて、御母衣湖周辺の道路が整備されるとともに、白川村も少しづつ、観光地化が進んだように感じている。日本の原風景とも言える、この文化遺産を後世に伝え遺す意味で、行政、観光客が正しく支援していきたいと願うものである。
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| 遠山家民俗館 |
遠山家民俗館から庄川の流れに沿って、およそ14km下ると、荻町合掌集落、白川郷である。国道156号線を外れて右折すると、すぐに大きな合掌造りの家屋ふたつが目に入る。そのひとつ、茶屋「忠兵衛」では合掌家屋のお座敷で山菜料理や岩魚料理を食べられるのがうれしい。太い柱や梁(はり)は、囲炉裏の煙にいぶされて黒光りし、でいの間には黒檀のような趣(おもむき)のある食卓台が据えられて内部によく調和している。合掌屋根のお座敷に座っているだけでも嬉しい気持ちになれる。私たちが食事をしているあいだ、他に3組ほどのお客様があった。
荻町の集落をほぼ突き抜けたあたりに、城跡展望台の入り口がある。高い丘に上がるため、集落全体が一望出来る。どの家も向きを同じにして建っていて、一番手前に写っているのが国指定重要文化財、和田家である。
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| 白川郷合掌集落 |
和田家 |
白川郷 |
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| 和田家 |
和田家 |
白川郷合掌集落 |
和田家(全文、和田家入館のしおりより)
白川村の合掌造り集落で最大規模を誇る和田家住宅は、式台付きの玄関など格式の高い造りをもち、江戸初期と見られる建築文化の粋を今日に偲ばせています。
和田家は天正元年(1573年)以来、代々弥右衛門の名を継ぎながら江戸時代には庄屋や番所役人を務めるとともに、白川郷の重要な現金収入源であった煙硝の取引によって栄えました。
明治21年には市町村制の公布により白川村が誕生。和田弥右衛門は初代の村長に選ばれています。
合掌造りは中に入って見ると改めてその大きさにびっくり、大家族制度から何百年続いた歴史の風格を感じる。
1階は囲炉裏のある大広間、居間、仏間、寝室があり、寝室の上には中2階がある。屋根裏は養蚕など生産活動に使われた。和田家は見学をさせて貰うことができる。
和田家の屋根裏 冬季は豪雪の地、戸外での生産活動ができないこの地方では、屋根裏が養蚕などの作業場所として重要な役目を果たしていたのだろう。両側に明かりとりの障子窓があり、床や屋根裏は囲炉裏のススで黒光りしている。光が吸収されて暗いが実に広い板張りになっていて、囲炉裏の煙が屋根裏まで登るように、床はところどころ"すのこ"になっている。煙にいぶされることによって虫を寄せ付けず、屋根や建物を長持ちさせるのだという。明かりとりの障子窓を開けて外を眺めると、白川郷の美しい集落が眺められるとか。屋根裏まわりは昔の民具が並べられていて山村、雪国、大家族制度の当時の生活を偲ぶことができる。入館料300円
浄土真宗、明善寺は鐘楼門、本殿とも合掌造りの珍しいお寺。民俗館として公開されている。
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| 生活資料館遠景 |
コスモスと合掌造り |
コスモスと合掌造り |
2000年に再び訪れると、白川郷も夏、真っ盛り。緑の田畑、軒先には夏の花が咲き乱れる。生活のにおいと観光くささが入り交じって、白川郷も少しずつ変化がおきているように思う。地元の写真家、池端 滋さんも平成7年頃にテレビで放映されたとき、「いつかは消えゆくかも知れない風景や歳時記を写真におさめて残しておきたい」と言っておられた。ワラで造られた生活用品も観光用に並べられた物であろう。
今夏は長野県の八方尾根をトレッキングしたあと、飛騨高山と白川郷に立ち寄った。白川郷には1時間程度しか滞在できなかったが、美しい風景は十分満足することが出来た。四季折々の表情を見せてくれる白川郷はこころのふるさと、これからも足をはこび続けたいと思っている。