旧中山道、妻籠宿、馬籠宿、奈良井宿、木曽福島の印象やみどころを写真を織り交ぜて説明する。

「木曾路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曽川の岸であり、あるところは山の尾を巡る谷の入り口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。」(島崎藤村の夜明け前より)
木曾路はこの書き出しにすべて言い尽くされている。馬籠峠では正岡子規が「白雲や青葉若葉の三十里」、木曾の桟では芭蕉が桟やいのちをからむつたかづら」と詠んでいる。 どちらも木曾路をよく表現している。
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山口村地図
山口村は平成17年2月13日より平成の
大合併により岐阜県中津川市になります。 |
私たちが泊まった宿は木曾五木の集散地、上松町の旅館田政。この宿は山の斜面に張り付くようにして建てられた旅館。玄関を入ると仲居が「予約の早いお客様から順に玄関に近いところにお泊まり戴いています。お客様は昨日の予約であったので...3階の奥まったところで」と申し訳なさそうに言いながら複雑に曲がりくねった廊下や階段を通り、3階の部屋まで案内してくれた。
「ここから中山道は遠いんですか?」と聞くと部屋の裏窓を開け、「この下が旧中山道です。部屋は3階ですが裏を見ると2階です。」とのこと。なるほど窓を開けて見ればすぐ下に旧中山道、2階の高さで向かいは山の斜面だ。国道19号線が旅館を境に反対側に出来た為、中山道は目立たない。
そして木曽は平地が少ないから山の斜面を巧みに利用した特徴的な建て方だと思った。
旅館田政、建物は古いがお料理が美味しく、種類、質、量がとてもよかった。木曽路の新しい発見ができて嬉しかった。「木曽路はすべて山の中である。」(「夜明け前」)私の旅はそれを確かめることが目的だった。
馬籠宿 枡形跡 木曾11宿のひとつ馬籠宿は木曾路の南端、美濃路から木曾路に入る最初の宿場である。バス停からほどなく近いところに宿場の入り口がある。
道は突き当たってすぐに左に曲がりその先、20m程進んで直角に右に急な石段となっている。ここが桝形跡らしい。桝形は宿場の道を直角に曲げ、敵に攻められた時の戦術上の要塞である。右の緩やかな道は自動車が入れるように後になって作られたようだ。
桝形を過ぎると右に清水屋の看板がある。「清水屋は島崎藤村の小説「嵐」に出てくる「森さん」の家です。」とか「この清水屋には藤村の書簡、掛け軸、写真をはじめ江戸時代の宿場として栄えた頃の文書、書面、・・・・・ 馬籠の生活文化史ともいえる数々の遺品が二階の資料館に展示してあります。」などと書いてある。
石畳の坂道は清水屋のあたりから幾分緩やかになり、山肌にへばりつくようにして続く。
その両側に茶店、旅籠、民芸品店が軒を連ねている。明治の大火で当時の面影は少なくなったと言われるが宿場の街並みはそれほど失われていない。下から上がると途中の茶店で五平餅か、とろろ蕎麦でも食べて一服しないと息が切れる。
宿場を貫く街道は石畳で整備されているが、これは街道時代からのものではない。平成3年に御影石と木曽石を敷き詰めて完成したものである。街道時代は石はあっても斜面の土が流れ出すのを防ぐ為の石であったようだ。
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| 馬籠宿但馬屋 |
江戸時代には大名、公家は本陣に、武士は脇本陣に、一般の旅人は旅籠と呼ばれる宿泊所に区別された。玄関に大八車や簑笠を飾って昔ながらの佇まいを見せる旅籠、但馬屋。古めかしい行灯が旅籠の雰囲気を醸し出す。玄関前の石畳の道に沿って冷たい水の流れる水路がある。勾配があるから流れは速い。旅人は道中で汚れた足をこの溝に浸して洗っていたのだろうか。
それとも玄関脇の縁台に腰を下ろして差し出された湯桶で足を洗っていたのだろうか。
とりとめのない空想にふけるのも楽しいものだ。この旅籠はホ−ムペ−ジも開設されていて旅籠の内部やお風呂など写真で見ることが出来る。
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| 藤村記念館 |
馬籠宿は文豪「島崎藤村」の生誕地。
石畳の坂道をほぼ半分ほど登った所に藤村の記念館がある。ここは、かつて島崎家の本陣があった所。
写真の右に黒く写っているのは冠木門と黒板塀である。冠木門とは門柱に梁をかけた屋根のない門のこと。塗られたススと柿の渋は防腐剤の役目をするらしい。(入館料500円)
この辺りから遠く南の方向に目を移すと中津川市街や恵那山が見える。昔の旅人も美濃方面を見て行く先に想いを馳せていたことだろう。
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| 藤村初恋の実家大黒屋 |
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| 旧中山道の石畳 |
藤村記念館の隣にあるのが馬籠名物、栗おこわ飯の大黒屋。街道時代は造り酒屋を営んでいた。屋根上のスズメバチの巣のように見えるものは酒林といって杉の葉で毬形にしたもの。造り酒屋のしるしである。大黒屋は藤村の初恋の人「おゆふ」の実家でもある。 右に出ている写真は馬籠峠を越えた峠茶屋から少し入ったところの旧中山道である。石畳は数十メ−トルまで、その先は土が剥き出しの山道になっている。
妻籠(つまご)宿の地図
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| 妻籠(つまご)宿 |
妻籠宿(旧中仙道)は国道19号線や鉄道が離れて作られたことが、昔の旅籠の面影を色濃く残す結果になり、現在は奈良井宿とともに重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。
その佇まいを見ると、時代劇映画の銀幕の中に、飛び込んだ錯覚を起こしそうな驚きである。
どの建造物も2階が、1尺ほど飛び出した出梁造り、泥棒が入れないように、考えられたと言われる鎧庇、それに蔀戸、千本格子や連子格子など、興味を持って見るとなかなか味わい深いものがある。これらは時代劇のセットとして作られたものではなく、江戸幕府によって江戸から42番目の宿場として定められたものが、現代に引き継がれたものである。そこに人々が実生活を営まれていることも関心を引きつける要因である。
宿場の通りを歩くと旅籠や土産物屋、民宿といった形で営業されているのが目につく。土産は木曽5木のねずこで作った、下駄などの民芸品を多く見かける。
ちなみに木曽5木とは江戸時代に尾張藩が木曽の木を管理していたが城下町の
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| 脇本陣奥谷 |
建造に沢山の木が流出したため5木の伐採を禁止した。「ひのき一本首一つ」と恐れられ、ひのき一本盗伐すれば首が飛ぶという厳しいものであった。ことさら役人が吟味のために村にはいるという噂でもあると不用の材木はあわてて焼き捨てるほど厳しいものであったと小説「夜明け前」に記してある。この禁伐の令に指定されたのが、ひのき、さわら、ねずこ、あすなろ(ひば)、こうやまき、の5木である。
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| 桝形跡 |
映画「座頭市シリ−ズ」の撮影にも使われた妻籠宿。江戸時代の旅籠の面影を色濃く残し、まるで時代劇の銀幕に飛び込んだ錯覚さえ感じる。このような町並み保存は一枚の襖からと言われている。昭和30年代に空き地で襖が燃やされていたのを見た人が、「これはもったいない」と保存を呼びかけたのをきっかけに昭和43年「妻籠を愛する会」を設立、現在は歴史的町並み保存事業から国指定重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。写真は光徳寺のすぐ下の桝形の跡になり、妻籠を代表する景観の寺下地区はこの先である。
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| 枡形跡 |
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| 下嵯峨屋 |
写真の左は下嵯峨屋前、右はその内部である。ここは当初、長屋だったものを解体復元し、旅籠として中が見学できるように終日開放されている。その為に表戸は一切ない。端に通り土間があって部屋数は2つ、壁は土塗り、屋根は板葺きである。見学できる旅籠は他に上嵯峨屋がある。こちらは中央に通り土間があって左右に部屋が3つある。中級程度の旅籠と言われている。
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| 松代屋 |
松代屋は創業180余年の永きにわたり当時の旅籠そのままで営業を続ける。軒下には今もまねき講の看板が残る。諸街道の旅籠では旅人の旅愁を慰める接客用の女、いわゆる飯盛り女を置く旅籠と旅人をお泊めするだけの平旅籠があった。まねき講の看板は平旅籠の証として掲げられていたようである。今で言う旅行社指定旅館のようなものであるらしい。
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| 奈良井宿 |
信濃路から木曾路に入ると贄川、奈良井,薮原、宮ノ越、福島へとつづく。奈良井宿は「奈良井千軒」のことばで例えられるように木曽路で一番の繁栄ぶりであった宿場。というのも木曽路の難所、標高1197mの鳥井峠が控えていて、旅人はここを越えるのに奈良井宿で旅の疲れを癒し、道中の身支度を整えたのであろう。馬を連れての道中ともなれば難儀の様子は想像に難くない。
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| 奈良井宿の町並み |
西に御嶽山、東に木曽山脈で挟まれた薄暗い山中。旅は命がけとも言われていた当時、山中を歩いた旅人にとって、宿場の明かりは心細さを忘れ、ほっとする明かりだったに違いない。表通りを歩くと2階が通りに面して1尺ほど突き出た出梁(だしばり)造り、蔀戸(しとみと)、鎧庇(よろいひさし)など特徴的な建物が目立つ。また、通りには横水水場、下城水場など5カ所の水場があり、現代も観光客が冷たい水を飲めるようになっている。
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| 福島関所 |
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| 福島代官屋敷 |
木曽福島は木曾路のほぼ中央に位置し、政治、経済、文化、交通の中心地。江戸時代は四大重要関所の福島関所が置かれた。参勤交代では大名の家族は江戸に残って人質のようになっていた。このため諸藩に大名の家族が帰れないように、また江戸に鉄砲など武器を持ち込めないように入り鉄砲、出女の改めは非常に厳しかった。
福島関所から見下ろす方向に木曽川を挟んで山村代官屋敷がある。木曽福島郷土館の3箇所をセットで600円で見学できるようになっている。