尾道と放浪記のふるさと


尾道は作家、林芙美子や志賀直哉、歌人、正岡子規など多くの文人墨客のゆかりの地、千光寺山の麓に迷路のように続く坂道と細い路地の街は大林宣彦監督の映画にも度々登場した
 山陽道方面の旅行は随分久しぶりである。まだしまなみ海道が海で閉ざされていた頃、芸予諸島巡りをしたことがあった。尾道大橋を渡って向島(むかいじま)へ行く途中、私は橋のたもとを見下ろした。春の陽光が降りそそぐ尾道水道はさざ波がたち、眩しいばかりにきらきら輝いていた。細い水路を船が西に東に行き交い、その向こうに瀬戸のしまなみが幾重にも重なって見えた。玉之浦(尾道水道)の向こうは小高い山があって、その懐に抱きつくように甍(いらか)の美しい町並みも見えた。
そこは放浪記の著者、林芙美子が旅の古里とする尾道の町並みだった。
 私はその美しい風景とともに文学や詩歌、映画の舞台となったこの町をいずれ訪れたいと思っていた。
それから長い年月が流れた。今やっとここにこの町に降り立つことが出来た。
当時抱いた尾道への想いが今現実のものになった。
それではまず彼女の著書「放浪記」の断章をたどってみよう。
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林 芙美子の碑
 海が見えた。海が見える。  五年振りに見る尾道の海はなつかしい。 汽車が尾道の海にさしかかると煤けた小さい町の屋根が提灯のように拡がってくる。 赤い千光寺の塔が見える。山は爽やかな若葉だ。 緑色の海の向こうにドックの赤い船が帆柱を空に突きさしている。 私は涙があふれていた。」
(放浪記より)
 林芙美子(明治36年ー昭和22年)
 彼女は山口県下関市で生まれた。
父は太物の行商人、母は鹿児島県桜島の温泉宿の娘である。 母は他国者と一緒になったことで鹿児島を追放になり、父母の落ち着き先が下関だった。
 父は呉服の競り売りでかなりの財産になると女性関係が派手になり、母は彼女をつれて家を出たのである。その後、母は14歳年下の男性と一緒になり、彼女は母の連れ子として、この父と一緒に北九州一帯を行商して暮らすようになった。彼女が8歳の頃だった。その生活は行商しながら木賃宿に寝泊まりする、いわば住みかを持たない暮らしぶりだった。小学校もたびたび転校し、学校も休みがち、工場で働くことや扇子、あんパンを売って歩く行商の日々もあった。時代も第一次世界大戦のあと、荒(すさ)んだ社会背景だった。この時代に木賃宿の行商人の娘が高等女学校に進学することなど奇跡に値するほどの困難であったと言われている。
 尾道高等女学校を卒業後、学生時代から恋愛関係にあった因島出身の明大、商科専門部の学生を慕って上京するが翌年婚約が破談になり、その傷心を慰めるために日記をつけようとした。それが放浪記の原形になったと言われている。
 一方、自分をながいこと島の事務員として働かせ、大学へ入って行った男は卒業するとそそくさと郷里の因島に帰り、造船所の社員としてすました生活をしていた。
 それからあしかけ6年、昔の男にすがりたい気持ちからか、うらぶれた身体で旅の古里である尾道に帰ってきた。文学碑はそのときの断章を記している。
千光寺公園
   さて私は山陽道尾道ICを降りると国道184号を新尾道駅方面へ向かった。 10分も経たない内に千光寺公園の案内標識が見えた。
尾道の町並みは細い路地と石段や坂道が織りなす迷路のような町である。車で移動することは無理だ。足でゆっくり歩いて小説や映画の断章を味わいながら散策したい町である。
 時間も少し早いが今宵の宿、千光寺山荘へ向かった。
小高い山の麓からつづら折りの細い上り坂を登って行くとその頂上付近一帯が千光寺公園である。  ほぼ登り詰めたあたりで目標物のかおり橋を探した。小高い山に橋があるなんてどんなところだろうと思いを巡ぐらしていると前方に陸橋が見えた。これがかおり橋だった。地図上の目標物としては不適切な橋だと思った。
すぐそばに1回500円の駐車場もある。時間はチェックインの3時間ほど前。少し早いが宿泊先の「千光寺山荘」に車を置いて観光に出ることにした。宿はかおり橋から少し坂道を下った見晴らしの開けたところにあった。
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ロープウェイ(頂上まで約3分) あけぼの像(千光寺公園) 千光寺山荘
千光寺山荘のフロントで「今夜の泊まりでお世話になる○○です。」
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尾道水道と向島
  「夕方まで観光に出ますから車を置かせてください。」と頼み込んだ。 すると宿の女将は文学のこみちの詳細な資料と尾道観光案内図を持たせてくれた。  用意してくれた資料とカメラを手に宿を出ると尾道市立美術館の方向に歩き始めた。
ウィークデイの昼下がり、あたりは案(おもい)の外ひっそりと静かだった。坂道の両側は桜並木になっていて、山全体でおよそ1万本も植えられているという。蕾はまだ堅く、落葉樹も冬木立の装いである。
この時期はオフシーズン。尾道市立美術館は大がかりな改装工事中で休業だし、園内の子供の国の観覧車も休止している。お茶屋も定休日である。時おり地元の人が園内を通って行く時に会釈をしてくれる程度で実に閑散としているのである。桜が満開の頃はぼんぼりが灯り、花の下で酒宴がにぎやかに繰り広げられることだろう。
千光寺付近の地図
 坂道を少し登ったところで後ろを振り返ると尾道水道の向こうに芸予諸島が西の方向に幾重にも浮かんで見える。
海から駆け上がる風は梅の香しい(かぐわしい)匂いを運んでくる。1月下旬だというのに温暖な瀬戸内の気候はもう梅の花をチラホラ咲かすのである。
 やがて千光寺山の頂上に近くなると急峻に迫り上がった石段があった。その石段を上りつつ海を眺め、立ち止まっては眼下の町並みを眺めた。向島のさらに向こうに因島が見える。温暖な気候、ミカンと造船の町。芸予諸島巡りをしたとき、ミカンの丘と海の景色が瀬戸内の旅情を楽しませてくれた。
 石段を50段ほど登りきると円筒形の大展望台があった。 屋上へ上がると視界はどの方向にも開けていた。
眼下を見下ろすと向島の造船所の大型クレーンが空高く伸びている。経済成長著しい時代は、あのクレーンも雷鳴のような轟音をたてて、忙しく動き回っていただろう。鉄を打つ甲高い音も一日中鳴り響いていたに違いない。それを思うと造船所の静かな佇まいは昨今の不景気を知らしめるばかりだ。
町を南北に分断する鉄道、それに平行する尾道水道。その北岸と鉄道の間は近代的な建物が密集する。
 一方、鉄道と山に挟まれ、東西にいびつに伸びる町並みにひときわ大きな寺の大屋根があちらにも、こちらにも点在して見える。鉄道を境に町並みは一変してみごとに対照的な景観を呈している。遠く向こうを眺めれば青い水道をまたぐ尾道大橋は絵画的ともいえる美しい景観である。 ここからは尾道市内のすべてが見渡せた。見通しが良い日は遙か四国連山までも見えるのだそうだ。
展望台とあけぼの像
尾道は戦災に遭うこともなく長い歴史にはぐくまれた文化財も多い。風光明媚な町並みと古い文化の香りに惹かれ、この町を訪れた文人墨客が、その情景を和歌、俳句、小説に残した。
その断章を石碑に刻んだおよそ1kmの散歩道がある。
"文学のこみち"と名付けられ25基の句碑が点在する。
 ロープウェイの頂上駅とほぼ同じ位置に千光寺の裏参道の入り口があった。
文学のこみちはここからだった。入り口は自然石が置かれ、"文学のこみち"と書かれている。樹木のざわめきを聞きながら奇岩巨石の中を降りていくと訪れた文人墨客がその風光明媚な尾道に愛惜を込めて詠んだ和歌、俳句、碑文が自然石に刻まれて次々と現れる。
文学のこみち(碑) 25基の文学碑がここに 正岡子規の句碑
 最初に出てくるのは@徳富蘇峯の碑、続いてA前田曙山、「浜焼きをむしりつヽ春惜しむな里」、明治4年、東京に生まれで本名は前田次郎。
 続いてB正岡子規、愛媛県松山市出身である。以前道後温泉を訪れたとき正岡子規記念館に立ち寄ったことや「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」の句を思い出す。懐かしい想いで句を詠んだ。
 「のどかさや 小山つづきに塔二つ」。
 塔は西国寺の三重塔と天寧寺の海雲塔を眺めたものであろうといわれている。
続いてC物外、「あれは伊予 こちらは備後春の風」

 この句は伊予に生まれ、備後に育った尾道済法寺住職の句である。
拳骨物外(げんこつ もつがい)の別名もある。

 詩情を楽しみつつ、句碑を写真に撮り、巨岩の間を抜けるといつの間にか千光寺裏門に出る。千光寺はそそり立つ巨大な岩の壁を背にして立っていて寺と岩壁の狭い間が文学のこみちになっている。
奇岩 三重岩
裏口からお詣りすることに些かうしろめたい気持ちがしないでもない。 ご免なさいね、という気持ちになって寺の裏をすり抜けるとお守りを売るおばさんが
「どうぞ、どうぞ、お大師様にお参りください。」
と手を差し向けて呼び込まれる。
私はお賽銭を納め、傍(そば)にあるお線香をとって火をつけた。それからお大師様に向かって恭しく(うやうやしく)手を合わせ、自分に都合のいい願いごとばかり二つ三つ念じた。少し欲張った願いごとだったかと思いながらお大師様の前を通り抜けて寺の表側にでると切り立った崖だった
そこから尾道の町がほぼ全域にわたって見えた。傍(そば)に立てられた案内板には眼下に15の古寺仏閣が確認できる旨が書いてある。
試しに覗いてみると民家の屋根の間に寺の大屋根が点在し、あちらにも、こちらにも見えた。こんなに沢山のお寺が隣接して、檀家を分け合うのも大変なことだろう・・・などといらぬ心配をする。
千光寺の裏を歩いて 千光寺御大師様 千光寺境内を歩いて
 一方、千光寺の朱塗りの鐘突堂は驚音楼の鐘と呼ばれ、尾道の街から千光寺山を見上げる方向にひときわ目立つ竜宮造りの赤い塔である。日本の音風景百選に選ばれており、大晦日の除夜の鐘としても有名である。
また、林芙美子が5年ぶりに懐かしい思いで眺めた尾道のシンボルの塔でもある。
驚音楼の鐘
 実はこの驚音楼の鐘は志賀直哉の長編小説「暗夜行路」にも書かれている。その断章をオーバーラップさせて町並みを眺めると尾道の旅情がより一層深く味わえる。
 六時になると上の千光寺で刻の鐘をつく。ごーんとなると直ぐにゴーンと反響が一つ、又一つ、又一つ、それが遠くから帰ってくる。其頃から昼間は向島の山と山の間に一寸顔を見せている百貫島の燈台が光り出す。それはピカリと光って又消える。造船所の銅を熔かしたような火が水に映り出す。
志賀直哉、暗夜行路より
この断章は文学のこみちの自然石に刻まれて、八番目に登場する。
 志賀直哉は父親との不和を嫌って尾道や伯耆大山で一人暮らしを経験した。その経験がなければ尾道や伯耆大山(ほうきだいせん)でのリアリスティックな名場面は書けなかったと言われている。尾道ではおよそ1年あまり自炊生活をした。その寓居は千光寺山南斜面中腹の見晴らしのよい場所に今も現存する。旧居は三軒の棟割長屋の右端にあって、そこから海と山に囲まれ東西にいびつに細長く伸びた尾道の町並みがよく見えた。
 千光寺境内を抜けて緩やかな坂道を上って行くと文学のこみちも終わりである。

 途中R基から文学のこみちを外れて表参道の急な石段を下りていくと中村憲吉終焉の家が、さらに石段を下り、右に進み、さらに右に上っていくと志賀直哉旧居(文学記念館)に出る。 旧居は6畳と3畳と台所、トイレがあるだけで大正元年から翌年にかけて過ごした棟割長屋。(むねわりながや)
暗夜行路の草稿はこの仮住まいで練ったと言われている。
内部は旅行カバンや硯箱が展示されているらしい。
早朝の千光寺
中村憲吉終焉の家(案内の碑)
志賀直哉旧居の棟割長屋
千光寺表参道へ降りる
千光寺は崖の為にこんな通路も
オフシーズンの火曜日は定休日になっていてその内部を見学出来なかったのは不運だった。
その未練だろうか?、玄関の引き戸に手を添えて「志賀さん・・志賀さん」と呼んでみた。二人ずれの女性観光客が私の方を見てニコッと微笑まれた。
 「旅は道づれ世は情け」と言うことわざがある。知らない土地を旅すると心細い思いが募る。それ故、同じ旅をする人々に妙に心を寄せ、親近感を持つのは私だけだろうか。
旅は日常とは違う気持ちが沸き起こる。それも旅の楽しみではあるが・・・・
これは日本人特有の感情なのだろうか。
 志賀直哉の旧居を後にして表参道の細い石段を下りていった。
辺りの家は日当たりの良い南斜面にあって どの家も観光地らしく美しい佇まいだった。
ただ、狭い坂道と石段の坂道は日常生活で車を便利に使うことは無理だし、お年寄りは上り下りが苦になることだろう・・・ それでも瀬戸内の海が見えてその向こうに芸予諸島が、ある時は霧の中に浮かぶように、ある時は墨絵で書いた日本画のように、又あるときは海も島々も真っ赤な夕日に染められて絵画的な情景を演じてくれる。 背後の山を見れば春はおよそ1万本の桜やツツジが咲きみだれ、夏は藤の紫とピンクの花がダラリの帯のような花房を楽しませてくれる。美術館前の斜面は除虫菊の花がジュウタンを敷き詰めたように飾ってくれるのだという。
温暖で風光明媚なこんないい環境に家が持てるなんて幸せな人もあるものだと感心したり、志賀直哉はこんな贅沢な環境の中で暗夜行路の草稿を練っていたのか、など次々と想いを巡らしていた。
 暫くすると石段の坂道を女性一人が登って来られた。片手に買い物袋を、もう片方の手は着物の裾を少し抓み上げて、しずしずと石段を登ってこられる。淡い薄緑の着物姿と、うなじを掻き上げた髪型は一目見て美しいと感じた。
その姿は石段の坂道とまわりの佇まいにとてもよく合っていた。思わずシャッターチャンスと思ったが気の赴(おもむ)くままにレンズを向けることなど失礼だと思うと、結局はシャッターチャンスを逃してしまった。
 私のカメラワークが風景撮影中心になっているのは気の弱さがあったからだ。
十年以上も前のことである。モデル撮影会に参加したことがあった。
モデルの周りに沢山のアマチュアカメラマンが群がっていた。モデルの背景はカメラマンが立つ場所によって綺麗な背景にも雑多な背景にもなる。
綺麗な背景が撮れる位置はカメラマンが押しくら饅頭のような勢いで群がっていた。
自分のレンズの前に立ちはだかる者がいれば、「前に出るな」と罵声を飛ばしているカメラマンもあった。「目線をこっちこっち」と言いながらモデルに手で合図を送っているカメラマンもいた。 私はそうした雰囲気が合わず人の少ない空いたポジションを好んで選び、撮影をしていた。
それも気の弱さがそうさせていると判っていた。だから背景に電線や看板が写っていることも多かった。当然のことながら撮影会でいい写真が撮れた試しがなかった。そんなことだからモデル撮影会はだんだんと疎遠になりとうとう行かなくなった。

千光寺付近の地図
 石段を下りきったところは古寺巡りの散歩道だった。その散歩道を横切ると山陽本線があってそれと平行するように国道2号線が東西に伸びている。
山陽自動車道や尾道バイパスが開通する以前は交通渋滞に悩まされ、尾道、三原を抜けるのに何時間もかかった交通の難所だった。
 時刻はもう2時近くになっているのに私は未だ昼ご飯を食べていなかった。2号線沿いを歩きながら軽い食事ができる喫茶店かレストランを探した。東向きにどんどん歩いて行ったが一向にそれらしきものはなかった。
気がつくとロープウェイ乗り場の延長線上まで来ていた。諦めて2号線を左に折れ、山陽本線の薄暗い地下道をくぐり抜けると正面にロープウェイの乗り場があった。
ロープウェイ乗降場 尾道駅と高台の尾道城 林 芙美子の像
 隣がラーメン屋だった。尾道に来ればその土地ならではの食べ物を食べなくてはという思いが閃いた。
私は尾道ラーメンとか言うものがあった筈だと思うともう暖簾をかき分け、引き戸に手をかけていた。
中に入ると厨房を囲む2辺がカウンタになっていてテーブル席は一つだけだった。長い髪を後頭部で結いつけた宗次郎のような店主が厨房の中にいて、カウンタには女性客が一人座っていた。
女性客は様子からして常連客のようだった。
カウンタ端のレジスタに店主の奥さんが立っていたが私がテーブル席に着くとおしぼりとお冷やを運んで来た。私はラーメンを注文し、暫くは厨房の造りに関心を持ってじろじろ眺めていた。
狭いスペースが無駄なく利用できるように立体空間は巧みに工夫されているし、必要な物が機能的に取り出せるようになっているのが判った。
 漸くラーメンができあがってきた。細かく刻んだネギと、たか菜の漬け物が一緒にテーブルの上に置かれた。奥さんが「これは当店手作りのお漬け物です。どうぞ。」と勧めた。私はネギを少し多めにラーメン鉢に入れ、スープを一口飲んだ。それから麺を箸で抓み抓み、ほぐしながら食べた。豚骨味のラーメンだった。普段食べる塩ラーメンや醤油ラーメンとは違った食感だったせいか取り立てておいしいとは思わなかった。
しかしこれが尾道ラーメンの味なんだ思うととても珍しいものを食べたような気がした。

慈観寺(時宗)
慈観寺(時宗)
大山寺の近くの石段
れんが坂
 店を出ると古寺巡りコースを歩こうと思った。
宿の女将が持たせてくれた尾道市観光案内地図を見ると林芙美子の文学碑は古寺巡りコースにある尾道東高等学校の裏あたりだった。
学校の前身は林芙美子の母校、尾道高等女学校である。
当時の佇まいなど面影もないだろうけど興味があった。
 古寺巡りよりも林 芙美子のいにしえの時代に近づきたいと思う方が勝っていた。
 私はためらうことなくロープウェイの切符売り場に行って尾道東高等学校までの道順と所用時間を尋ねた。古寺巡りのコースは直ぐ裏を通っていて、そこを西におよそ15分ほど歩いたところだと教えられた。
しかし、文学碑はその人自身が不案内らしく私の質問に対し、返ってくる答えはぎこちないものだった。
 ロープウェイ駅から歩き始めるとすぐ近くに慈観寺があった。通称、牡丹寺と呼ばれる寺だけあって境内は牡丹の木があちらこちらに植えられていた。
しかし1月の寒空の下、ボタンは葉っぱを落とし、人の気配もない殺風景な風景だった。春になれば大輪の花が境内を綺麗に彩ってくれるのだろう。
 古寺めぐりは文学の小径めぐりとともに尾道の観光のメインである。西の持光寺から東の浄土寺まで総延長2.8km、時間にしておよそ3時間はかかると言われている。
 慈観寺を出て古寺巡りコースを東へ歩いた。すぐに大通りに出た。
それは長江通りという新尾道駅へ通じる道だった。
その大通りを右折すると大きな寺へ通じる石畳の参道がある。参道の坂道を50mほど進むと福善寺(浄土真宗)だった。
お寺よりも尾道東高に早く行きたいと思っていた私は期せずしてこの寺に来てしまった。
 このころ私は既に古寺巡りのコースを見失っていた。コースを歩いて気がついたが案内標識もない。それは 「道に迷ったら道行く人に尋ねなさい。この町に暮らすすべての人が心やさしいあなたの案内人です」 ということなのだ。宿の女将が持たせてくれた観光案内地図にそんな意味のことが書いてあった。福善寺の境内を通り抜けてお墓を抜けると何とかコースに戻った。近くにタイル小路があった。
それは大林宣彦監督の映画「時をかける少女」の撮影に使われた小路だった。
尾道東高等学校
旧尾道高等女学校
尾道東高(左)、久保小(右)
林芙美子の碑
おねだりする猫
古寺巡りコースで見た猫
 この界隈には福善寺、西国寺、浄土寺、海龍寺などがある。これらの寺を石畳の坂道やれんが坂で結んでいて、尾道の情緒を味わいながら楽しく歩ける。
また寺には国宝、重要文化財を多数所有するので歴史に興味のある人にはお勧めである。
 れんが坂を過ぎると緩やかなアップダウンが暫く続くがやがて尾道東高等学校に突き当たる。
隣り合わせに久保小学校があって、その境界を幅の狭い通路が学校の裏手方向に直線に長く延びていた。
林 芙美子の碑はその通路を通って裏にまわったあたりだと思った。尾道東高の正門の写真を撮り、暫くその場に立ってあたりを見渡したが案内板もない。それらしき碑もない。生徒や児童の姿も声もない。ウイークデイの放課後なのに静かすぎる佇まい。日曜日のような錯覚に陥る。徒(いたずら)に歩くのは時間を浪費するだけだ。誰かに聞こうと来た方向に歩き始めると正門に下校する女生徒ひとりが現れた。
 「林芙美子の碑はこの学校の裏ですか?」 と尋ねた。
女生徒は 「ここから遠いです。」・・・「尾道駅の近くにあって、・・・私は駅まで行きますから一緒に行きますか?」 と言った。
女生徒から緊張した面持ちと困惑の表情が読みとれた。
しかし、応対ぶりは彼女自身の態度や言葉に親切心が読みとれたので、私はそのことに安堵していた。
尾道市民はみんなが ”観光客からこの町のことを聞かれたら優しく教えてあげなさい”・・・日頃からこう教えられているのだろう。それが観光案内図に書いてあった「この町に暮らすすべての人が心やさしいあなたの案内人です」と言うことなのだろう。
しかし、女生徒が答えた意味は碑ではなく、像だったので、そうじゃないと直感した。
親切心に背くようで申し訳ないが、・・・と思いながら 「ああ、そうですか。でもこのあたりの古寺をもう少しまわってから行きます。・・・ありがとう」 と言って別れた。
 学校の裏手にまわると山の麓の斜面に畑があって、さらに民家が数軒あった。畑のあぜ道を歩きながらキョロキョロとあたりを見て探したがそれらしき物は見あたらない。
 やがて途方に暮れ、あぜ道に突っ立ってどうしたものかと考えていた。するとどこから現れたのか、猫が私の足に身をすり寄せミャーミャーとまとわりついて離れなくなった。幼少の頃から猫好きだった私は暫く相手をして遊んでやった。しっぽをピ〜ンと立て、猫なで声でしきりに足下にすり寄ってくる猫はとても可愛いかった。だが暫くすると餌をくれない人だと判ったのか?猫なで声も、身をすり寄せることもしなくなった。港町は何故か猫が多い。尾道を歩いて猫に遭遇したのが5度目だった。石段と坂道の町は車の通りもなく猫の安住の地なのだろう。
 散歩しているお年寄りが私の来た方向から近づいて、「何かをお探しですか?」と尋ねられた。私は「観光地図によると林芙美子の碑はこのあたりになっているのですが・・・・」と訳を話した。
お年寄りは「それだったら学校の校門を入ったところにある林芙美子の記念碑かな?」と言われた。
私はどうやら校訓碑などと一緒に並んでいる物なんだと直感した。
 私は来た道を正門まで引き返したが、お年寄りは「この猫はあなたの猫では?・・・」・・・「いいえ」と応えるとお年寄りは・・・「さあ、ノラさん、私と一緒に帰ろうか」と独り言をつぶやき、その後を猫がついて去っていった。
彼女の文学碑は正門を入った庭園の樹木に飾られるようにして建っていた。
巷に来れば憩ひあり 人間みな吾を慰めて 煩悩滅除を 歌ふなり
 私は一字一句を丁寧に読み、意味を知ろうとしたが判らなかった。そしてこの文学碑はこの学校の校訓碑として位置づけられているのだろうか?・・・・疑問が残った。
巷、・・・比喩として使われるならばこの場合は学校を表すのか?・・煩悩滅除を歌うなり・・・苦しみや悩みを忘れ朗らかになる???・・・林芙美子がこの詩を詠んだときの気持ちが知りたかった。
 時間も4時を少し過ぎていた。浄土寺へ行きたかったし、海岸の近くの町並みも歩きたかった。
尾道は坂の町、寺の町であるとともに港町でもある。海べりを歩けば山の上から見た渡船も間近に見られるだろう。渡船は狭い水道を向島に向け、また向島から尾道へと船尾から白い水泡を散らしながら忙しく行き来している。 向こう岸を離れると5分もしないうちに船着き場に着き、車も、自転車も、人もどっと上がってくる。
そこに行けばその土地ならではの人間模様が見られるような気がしていた。
しかしロープウェイの最終便は5時、乗り遅れると急な石段と坂の道を休み休み帰らなければならない。
しかも残念ながら今回も1泊の小さな旅なのだ。観光する範囲は自ずと限られている。それを思うと私はもう宿の方向に歩いていた。
 
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ロープウェイから写す
驚音楼の鐘
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西に傾く太陽
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尾道の夜景
来た道を15分ほど歩くとロープウェイ山麓駅に着いた。片道280円の切符を買い求め、エレベータで2階へ上がるとそこが乗り場だった。既に最終便が待機していて、キャビンには菜っぱ服を着た7〜8人の若い男と50歳くらいに見えるリーダー格の男がロープウェイの後部に寄り添って乗っていた。
出発までの待機時間中、その男たちの話が耳をついた。
ロープウェイの軌条下には樹齢何百年ものケヤキもあれば松や広葉樹が生えている。太陽の恵みを少しでも多く受けようと梢を空高く伸ばし、軌条に届きそうな勢いの樹木もある。男たちはその樹木の枝や梢を剪定するためにロープウェイ上から切り落とす枝の検討をしているようだった。私は新緑の芽吹く前にこのような公園の手入れもあるのだということを知った。それにしても地上数十メートルの高さまで伸びた梢を剪定するには高い足場やゴンドラも設置しなければならない。観光地の公園管理費もお金がかかり自治体の財政を圧迫しているだろうと老婆心が胸を打つ。
 やがてロープウェイは山頂駅に向かってスルスルと上り始めた。映画、「時をかける少女」のロケ地になった艮(うしとら)神社が直下に見えた。神社のクスノキは青々と茂り樹齢は800余年だという。その梢はロープウェイも突き刺しそうな勢いで迫り、枝々は神社をまるごと抱え込むほどの充実ぶりである。
 妙宣寺も慈観寺も善勝寺も見えた。千光寺の赤い鐘楼もどんどん迫ってくる。およそ3分の空中散歩を楽しみ、絶景かな、絶景かな・・・。十分堪能するまでもなくロープウェイは山頂駅に到着してしまった。
 帰り道、もう一度展望台に上がると陽は尾道水道の遙か西に傾きかけていた。水道を渡る船はおよそ百メートルほどの間隔をおいて3カ所から繰り返し、繰り返し発着している。林芙美子が島の男にすがって5年ぶりに渡った船着き場は眼下に見えるあのあたりだっただろうか?。 そんな取り留めのないことを考え、日常の煩わしい悩みも忘れて暫く時間が過ぎていった。
 その夜、私は久しぶりにお酒を飲みたいだけ呑み、ビールを好きなだけ呑んだ。ほろ酔い機嫌で部屋から見る尾道の夜景は静かな佇まいだった。それでも港町に行けば盛り場もあるだろう。そぞろ歩く酔い客にも出会えるだろう。私はそんな雰囲気の尾道にも出会いたかったのだ。・・・・次は季節を変えて再び訪れてみよう。 その時は桜もツツジも満開となって美しい坂の町、石段の町を楽しませてくれるに違いない。港町の夜も楽しんでみようと思う。
3月下旬、漱石の坊ちゃんの地を旅します。その旅行記もアップしますのでまたこのサイトに来てください。

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