塩の道 千国街道

 山懐を歩き、谷を越え、糸魚川から小谷村を抜け、松本に至る一本の道。この道は塩の道と呼ばれ、命の道であった。作者が歩いて感じたそのままの心情を織り交ぜてガイドする。

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糸魚川から松本に至る塩の道。この道は信州側では千国街道、越後側では松本街道と呼ばれていました。


−−− 序   章 −−−
 別に塩の道を歩きたいと思って信州に来たのではない。八方尾根トレッキングを目的に来たのだけれど、私が毎夏と言っていいほどお世話になっているホテルのすぐ近くに塩の道(千国街道)があって、昔のままの姿を良くとどめて残っていると聞いたからである。しかもホテル側では朝の散策ツアーとしておよそ2kmをガイドしてくれるからだった。
6年生当時の学芸会
 そしてもうひとつの理由がある。私が小学生の頃、今の若い人には耳慣れない学芸会という学校行事があった。そこでは寓話や説話をシナリオにした演劇が講堂のステージいっぱいを使って繰り広げられていた。
 学級担任の作ったシナリオを元に配役を仰せつかり、幾度となく読み合わせをして、台詞(セリフ)を暗記していったものである。
 当時はワイヤレスマイクなどという便利な物は無かったから広い講堂でのリハーサルになるとやけに大きい声で台詞を言わなければならず、指導教師の「声が小さい」と叱責する声が特に大きく聞こえていた。
そして、テレビが世に普及する以前の時代だったから、お芝居や演劇の観賞は新鮮であった。どの子も真剣な眼差し(まなざし)で観ていたし、楽しみな学校行事であった。
 学芸会は合唱やダンス、踊りの他、寓話や説話を中心に演劇に仕立てたものであるから、「舌切り雀」や「ぶんぶく茶釜」といった演劇が記憶に残っているが、舞台背景は信州、中でも「舌切り雀」では小林一茶の俳句や信州信濃の山奥といったイメージが、劇を演じたり、観たりしている中で膨らんでいったように思う。
 だからこそ昔の名残をほどよくとどめている塩の道は、私が小学生の頃楽しみにしていた学芸会を追憶する幻想の庭であり、歩きたいという思いの根源になっているのである。
−−− たかが塩と思うなかれ −−−
牛方宿入館の
パンフレットから転載
人間生活にとって塩は無くてはならない物のひとつである。チベットに限りなく近い北ネパールのドルポ地方では塩が、「ヤク」という家畜を引き連れたキャラバン隊によって、あるところは荒涼と赤茶け、あるところは雪に覆われた道なき道を歩み、ヒマラヤ山脈を越えて運ばれている。
 平均高度数千mという寒風の吹きすさぶ高地で野宿をしながら、わずかについた道をたどって塩を運ぶキャラバン隊の旅は、それこそ生死をかけた想像を絶する物流の旅なのである。
 それは、森林限界を超える高地、穀物の栽培もままならない荒涼としたこの地方では、わずかに穫れる麦の他に有力な生産活動もない。せいぜい半年分しかない麦を夏にチベット産の塩と交換し、初冬にその塩をキャラバンでヒマラヤの南まで運び、トウモロコシと交換する。この交易によって生きるために必要な穀物はおよそ3倍に膨れ、貧しいながら荒地での生活が支えられているのである。
 お金さえあれば何の苦労もなく、欲しい物が手に入る私たちの身の周りでは考えられないことが現代も行われている。
千国街道の碑
 一方、我が国の塩は古来より海水から採取していた。沿岸部で採取した塩は牛馬と、ぼっか(歩荷)によって内陸部まで運ばれていたのである。千国街道は日本海側の糸魚川と内陸部、塩尻までのおよそ30里を結ぶ命の道、「塩の道」だった。近年になって姫川沿いに国道や鉄道が整備されると内陸部と沿岸部を結ぶ交易の道は幸か不幸か、開発されることもなく昔の姿を色濃く残す結果となり、現在では塩の道として、古え(いにしえ)の時代を偲ぶ古道として親しまれている。
そして戦国時代、上杉謙信は宿敵である甲斐の武将、武田信玄が塩不足で困っていることを知り、義捐の塩を送ったという美談はこの街道にまつわる話として知られている。
 では日常生活で私たちは塩とどう??・・・と考えると実に塩との関わりは深い。私の一日は朝食をしっかり摂ることから始まる。この時、おみそ汁、お漬け物、おにぎり、・・・塩味がついている。食材の加工にも塩が使われることはご存じの通りである。そして神棚に手を合わせれば盛り塩が目に付く。神事にも御塩として塩が供えられる。また、食塩泉として浴用効果が有ることが知られている。塩の殺菌力は切り傷、やけど、慢性皮膚病や慢性婦人病、神経痛に効くと言われる。その他、お清めの塩、呑み屋の玄関にある盛り塩・・これらの塩は平成9年4月の専売制廃止まで専売公社が統括していたのである。
−−− 信州・塩の道(千国街道)を歩く (上) −−−
牛方宿入館のしおり
チェックインの時に「塩の道散策ツアーに参加するお客様は朝6時、ホテル玄関前にお集まりください」ということだった。
私はこのツアーが毎日催されていることは知っていたから、参加することは入館前から決めていた。
しかし何分にも朝が早い。いくら物好きでもこの時間帯ではせいぜい5〜6人程度の参加者だろうと思っていた。
 翌朝、私はウエストバッグをつけ、小さなザックにカメラ、メモ帳、タオルを入れて少し早めにホテル玄関前に出た。
外は山懐に抱かれた高原らしく、視界がほとんど利かないほど濃い霧に覆われていた。
朝が早いせいだろうか?・・・・それとも山国なるが故か?・・・・・道端の雑草は朝露にぬれてみずみずしく精気に満ちている。
なんとも清々しい夏の朝なんだろう。そんなことを思ってしばしもの想いにふけっているとホテル玄関前に栂池高原ホテル専用のバスが横付けされた。大型観光バスと変わらない大きさである。
白馬大雪渓から白馬岳登山に向かう団体客でもお泊まりになっていたんだろう。 およそ登山口猿倉まで送迎する為か?などと思っていた。
 ホテル前に出てから10分くらい経つとトレッキングシューズを履いたおば様と呼んでいいくらいの女性が次々に玄関を出て来た。
塩の道、およそ6km区間の図
時間も出発の5分前に迫っていた。そしてホテル従業員で塩の道をガイドする、千国さんという方が、「塩の道を歩かれるお客様はこのバスにお乗りください。」と案内された。
私は参加料、300円を払いバスに乗り込んだ。
ただバスに乗る理由(わけ)が理解できないで乗ったものだからいろいろと想いを張り巡らした。
塩の道はホテルから5分と歩かない所を通っているのに何故バスに乗るんだろう?・・・観光の要所だけを手っ取り早く移動しながら見てまわるんだろうか?・・・・私は自分の足で丹念に歩いて、道標を見て、道祖神に語りかけて、道端の畦草には「往時はどうだったか?」と聞いて、・・・そんな気持ちを込めて参加を決めたのだから・・・・・
そんなことを考えながら私はバスの中程まで進み、窓側の席に座った。 妻は朝が早いのが苦手だと言って、この散策ツアーには参加してこなかった。
バスに乗り込む参加者もどんどん増えて、私の隣には中年の女性が相席で座ってこられた。予想外に多い参加者と、なぜバスに乗るんだ?!という拘り(こだわり)が私の頭を掻き回していた。
 バスはゆっくりゆっくり、歩く速さと変わらない速度で動き始めた。 ガイド役、千国さんの挨拶が始まった。  「おはようございます。」マイクなどいらないヌケのいい声だった。
千国さんは初老の紳士で、薬草について、たいそう博識な方である。ホテル1階に薬局があるが、その専門的な言い回しや深い知識から推察して、薬剤師を兼ねておられるのであろうと思った。
「今朝の日の出前は霧もなく、良く晴れて北アルプスの山並みが綺麗に見えていました。」
「太陽がのぼり始めるとご覧のような霧でございます。」
そうかア・・陽がのぼり始めると逆に霧が出るんだ・・不思議に思ったがその訳を考える暇もなく、千国さんの話は続いた。
「道中の耕地に踏み込まないでください。」
「道ばたの草花などを採らないでください。」などハイカーとしての基本的な心得なるものも何点か言われた。
 バスは相変わらず、歩く程の早さで移動し、千国さんのガイドも佳境に入った。
話の中で薬草を研究されている大学教授もこの参加者の中にいることが判った。
バスは数百メートルを5分程かけて移動し、松沢口バス停に到着した。
その間の説明には参加者全員が一言も聞き漏らすまいと静かに聞き入っていた。
内容のある話だった。三々五々歩いている状態では聞き漏らすことの方が多かったことだろう?。
そう思うとバスに乗る理由が何となく判る気がした。
−−− 信州・塩の道(千国街道)を歩く (中) −−−
松沢口バス停付近
親の原あたりを歩く
百体観音の一部
説明を聞く参加者
 バスを降りるとそこは栂池高原の集落の懸かりだった。傍らに塩の道の道標(みちしるべ)が立っていて、その向こうに田畑を分け入るようにして土道(つちみち)が伸びている。この道を人々は塩の道と呼んでいる。しかし往時からそう呼ばれていたのではない。牛方、馬子、ぼっかたちが呼んでいたのは千国街道であり、日本海側の人々は糸魚川街道だった。明治の中頃まで日本海の塩を運ぶ命の道だった。塩のほか、海産物、高岡の鋳物、輪島の漆器なども、そして見返りに煙草、麻、大豆などを運ぶ重要な産業道路であった。然し、この道は既に滅んでいて、往時を物語るものは少ない。千国街道と書かれた道標がなければ普段見慣れた農道とそう変わらない。せめて道の跡形の大部分が遺っていることが人々の集まってくる理由だろうか。
 昭和40年代の高度成長期を境にふるさとは開発の波に洗われて昔の姿を今に伝える物などほとんど消えた。私たちが郷愁を感じる日本の原風景は一部に残された史跡と、こうした旧街道だけになってしまったのだろうか。
 集団は千国さんを先頭に糸魚川方面に向かって歩き始めた。今、歩いている2m近い幅の土道は人々に踏みしめれ、雑草もなく、赤茶けた土肌がむき出しになっていて、ところどころオオバコ(大葉子)が生えている。千国さんの説明によると、人がよく通る土道ではこのオオバコだけが生えていることが多い。それはこの草が他の草より、逞しい生命力を持っているからに他ならない。またオオバコは昔から健胃剤、利尿剤、咳止めの薬草として使われていることも教えられた。

 やがて道の右手に松林が見えて、林の中に石仏が見えるようになった。前山百体観音である。西国三十三観音、坂東三十三観音、秩父三十四観音を合わせて百体観音を並べたミニ札所になっており、ここを訪れると百ヶ寺を巡礼したことになる。
 また、このあたりを親の原と言い、親の原百体観音とも言われる。ここから西の方向を眺めれば、晴れた日には白馬三山(白馬槍ヶ岳、杓子岳、白馬)が眺められるそうだ。しかし降雪の時期になると、その白馬三山からの吹き下ろしがボッカさんや旅人を震え上がらせ、深い雪の中、行き倒れになった者もあるという。ところどころ置かれている野仏は行き倒れの旅人を弔うものである。
道祖神
塩を運んだ道
道標(みちしるべ)
 道は沓掛、親坂、千国へと続く。途中、ウバユリ(姥ゆり)やママコノシリヌグイ(継子の尻ぬぐい)など、道端に咲く花を採りあげて、花の名前に由来する意味を説明して貰ったが、知識を授けて戴くことは実に楽しい。その一つ、ウバユリとは花が咲くようになると葉が枯れるところから名付けた花だと(姥に歯が無い)千国さんがウバユリの咲いている方向を指して言った。
 およそ2km歩いて牛方宿のある沓掛という地名の所へ出た。塩の道散策ツアーはここまでだった。バスはここで我々を待って待機していた。
 散策ツアーはおよそ1時間だったけれど、朝霧煙る中、ボーと咲く野の花も幻想的だった。松林の中で赤ずきんを被った野仏の安らぎある表情を見ていると牛の背に塩袋を載せた牛方、ボッカたちが小谷(おたり)の村をのぞかに歩いて行く様子が浮かんだ。
 期待した以上に素晴らしい散策だった。ホテルに帰るバスの中、元気なおばさんがやわら立ち上がると、「皆さんガイド役の千国さんに感謝して拍手を」と呼びかけた。ありがとうございましたと、心いっぱいの拍手が沸き上がった。5月の連休には牛方や馬子に扮装して歩く「塩の道祭り」が開かれるという。この頃に訪れるのもいいだろう。
5月連休に行われる塩の道祭り
栂池高原ホテル、パンフレットから転載

−−− 信州・塩の道(千国街道)を歩く (下) −−−
牛方宿
牛方宿の入館パンフレットから転載

牛方宿
牛方宿
弘法の清水
牛方宿の入館パンフレットから転載
親坂付近
 さて、ツアーは終わったが、私たちは前日の早着で余剰時間を利用して沓掛の牛方宿から弘法の清水を経て、千国諏訪神社あたりを歩いたのだった。
 ツアーの続きを糸魚川方面に歩くとすぐに牛方宿がある。建物は寄せ棟の茅葺き屋根で見るからに古く、築後200年はあろう年代物である。
屋根は苔むし、その一部には夏草まで生えているし、まわりの板壁は牛方達を厳しい風雪から必死に守ってきた歴史を十分すぎるほど語りかけてくる。もう補修することも限界と思われるほどの傷みようで、あと十年もすれば今の姿を見ることはないだろう。
 牛方宿は入館料200円で、中へ入ると牛と人が一つ屋根の下で寝られるように工夫され、人は牛より2、3尺高い所で牛の様子を見ながら寝られるようになっている。塩を入れるカマス(藁で作った塩袋)や牛の背に乗せる鞍、まくさ桶(牛の餌を入れる器)など、当時の道具も展示してあり、畳敷きの部屋に上がると生活用具などもあるから往時の様子が自然と目に浮かんでくる。
尚、内部は撮影をご遠慮願いたいとのことだった。
 牛方宿を出ると道は直角に曲り、また直角に曲がるつづら折りの急な下り坂となる。このあたりは親坂といい、難所の一つで、ここでも行き倒れの旅人を弔う石仏を2体、3体と見かける。坂道は牛が歩きやすいように石を敷き詰め、百メートルほど下ると、穴をくりぬいた大きな石と、湧き清水を貯める苔むした「石舟」二つがある。急坂を登る途中、牛を休ませるための牛つなぎの石と牛と人の水呑み用の石舟である。湧き清水は豊かに流れ、炎天下の夏でも涼しげなこの場所は、一休みするには恰好の場所だったに違いない。この水を集めて流れる谷川がすぐ下を流れているが、夏草に覆われて流れを見ることは出来ない。イワナなど渓流魚が棲み、山葵(わさび)も自生しているという。
斜面を仰ぎ見ると、夏草の茂みから旅人を見守るようにお地蔵様(弘法大師)が立っておられる。ここは弘法伝説のある「弘法の清水」である。
 石畳の急坂を下っていくと両脇に夏草が茂り、背の高い姥ゆり(ウバユリ)の花が目に付きやすい。坂道を更に下っていくと千国番所跡がある。この道は大名行列が通る道でもなく、善光寺への参詣者が通る道でもないが、ここを通る物資には通行税が課せられ、「出女に入り鉄砲」とともに厳重に取り締まられた。
 道をさらに進むと車道に合流する。合流点からわずか数10m進んだところから左へ入っていくと千国諏訪神社にたどり着く。千国諏訪神社は今も鎮守の杜として人々が崇め祀っているのであろう。
 私はここで塩の道と別れた。まだまだ歩きたい気持ちもあったが、信州の山懐とは言っても8月の炎天下だけあってさすがに暑い。それにガイドがいなくては見どころも掴めないで徒(いたずら)に歩くだけである。この続きは時を変えて歩こう。糸魚川から松本までおよそ30里(120km)、その一部分を歩いただけなので往時、ここを歩いた旅人の苦労を伺い知ることは出来ないが、この街道を流れる風、草いきれなどは当時とそう変わっていないのであろう。
親坂で見たウバユリ 道祖神(親坂)
千国諏訪神社
千国諏訪神社
境内入り口のトイレ
千国諏訪神社境内
一部、車道と合流
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