われわれにはローマの喜劇から二人の作家、プラウトゥス(作品は211-184)とテレンティウス(166-159)の作品が残されている。これらの喜劇の多くはギリシアの中喜劇・新喜劇に手本を得ており、多くの場合ギリシアに舞台を設定している。
例えば、プラウトゥスの『幽霊』はアテネの話である。アテネ市民が息子の監視を奴隷に託して、海外に商売に出かける。息子はありとあらゆる愚行を働き、父親の財産の一部を売り払ってしまう。父親が帰ってくると息子の家では宴会の真っ最中。父親を家に入れないように奴隷が考えて、家に幽霊が出るので売らねばならないと思わせるが、隣の家を買うことになってしまう。奴隷は嘘を取り繕おうと躍起になり、たとえば借金取りが現れたりしてピンチになる度に、嘘に嘘を重ねて行く。最後に父親はすべてを知り、許し、息子の方も更生すると約束するというお話で、プラウトゥスが属していた紀元前三世紀末のローマよりもむしろ、紀元前四世紀のギリシアの社会の習慣・風習が色濃く反映していると言われる。
テレンティウスもまたギリシア喜劇の模倣から自らの芝居を作ったが、今日六つの作品が残されている。『ポルミオ』は後にモリエールが自分の『スカパンの悪巧み』にプロットを取り込んだ作品である。『幽霊の悲劇』と同じく父親の留守中に愚行を働き、結婚までしてしまったアテネの若者が、父の帰国を知って、友人のポルミオに助けを求める。ポルミオは奴隷とともに父親を手玉に取る。その中で、息子の嫁が実は父親の兄の妾腹だとわかる認知場面もあり、最後にはハッピーエンドに終わる。
この二人に代表されるローマ喜劇は、習慣的にギリシアの喜劇を模倣し、中にはほとんど翻訳に近いものもあった。一つ、大きな違いはローマ喜劇がコロスを取り入れなかったことである。テレンティウスは作品の種本を求めてギリシアに出かける旅で死んだと言われる。さて、ギリシアの素材をさて、ギリシアの原典を模倣しなければならない作家の直面した困難は、ギリシア喜劇の素材の枯渇である。そのため彼らは、二つの作品をつき混ぜて一つの作品を作る、「混淆contaminatio」という手法を編み出した。テレンティウスは多くの作品でこの「混淆」を行っている。
テレンティウスの作品は、プラウトゥスよりも洗練されており、上品である。彼はギリシア以来の喜劇の伝統である観客への直接の語りかけを省略し、モノローグもより詩的に、粗野な印象を与えるのを避けているといわれる。彼はより多く、貴族集団の代表である。従って、同時代においてはテレンティウスはさして人気のある作家ではなかった。
彼ら以降、ローマ喜劇は衰退に向かう。だが、それに代わって、固有のローマ喜劇とでも呼ぶべきもの、「アテルラナ劇」が人気をのばしてきた。アテルラナ劇は南イタリアのアテルラに起源を持つと言われる笑劇で、もともと旅回りの一座によって演じられ、間抜けな老人パップス、物知りの奴隷ドゥセンヌス、大食で好色なマックスというストック・キャラクターによって演じられた。ここには後のコメディア・デラルテに近い即興的形式が見られる。
しかし、われわれが数多くの遺跡によって知っているローマ劇場で上演された主要演目は、喜劇でもなければアテルラナ劇でもない。それはミームスと呼ばれる、音楽、ダンス、コーラスをたっぷり盛り込んだ劇だった。ミームスもまた、ギリシア起源の演劇形式で、コロスを持たず、不倫、変装しての逃亡、泥棒など、日常生活の卑俗な主題から笑いを引き出した。われわれにはローマのミームス劇は残っていないが、ギリシアのミーモス劇からは、ヘロンダス(ヘロデス)のかなり大きい断片が残されている。そこでは、孤閨をかこつ女に愛人を世話しようとする婆さん、革製のdildoや高価な靴に目を輝かせる女たち、覚えの悪い生徒に鞭を食らわす家庭教師などが描かれている。プロットを持った物語というより一つの情景である。
これがさらに進むと、台詞をほとんど省略し、身振りと踊り、さらに歌によって情景を表現しようとする、「パントミームス」が生まれた。ここでは俳優は声を使わず、歌手の歌に合わせて場面を演じるのである。それと並んで、音楽劇も流行したと言われる。
しかしローマの観客の好みは、より直接的なスペクタクルへ向かっていった。剣闘士の闘い、模擬海戦、狩猟、ライオンと囚人との闘いなど、より直接的な流血スペクタクルが円形闘技場でなされた。
ローマの悲劇についても若干触れておくべきだろう。ローマの本来の悲劇は、紀元前三世紀のナエウィウス、エンニウスに始まり、紀元前二世紀のアッキウスに終わる。これらは多くの場合ギリシアの主題の模倣だったが、ローマのテーマもあった事が知られている。また、合唱隊を保存していた。劇場構造から、彼らはもはやオルケストラには留まらず、一段高い舞台の上に立った。それによって、大がかりな群衆として、舞台を埋めることが出来るようになる。スペクタクルの要素はきわめて豊富だった。
後に、悲劇の上演舞台は劇場からamphitheatrum、つまり円形闘技場へと移ることになる。それによってこうしたスペクタクルの要素はますます発達する。大規模な円形闘技場は、軍隊をまるごとおくことすら出来るものになり、戦闘の場面では、実際に軍隊を用いて模擬合戦を行わせ、後には実際に戦闘を行わせる。また、火事や殺戮も見せ物の対象になる。姦通は舞台で実際に行われ、また殺戮の場面では死刑囚が俳優に変わる。
こうした習慣は紀元後41年のクラウディウスの治世に初めて行われたが、広く続けられていた。例えばネロは、ローマの大火の時に役者の衣装をまとい、『トロイアの陥落』を歌っていた、あるいはそのためにローマに火をつけたと言われているが、ネロのそうした行為の背景にはこのような舞台の習慣があった。
さて、このように舞台芸術が何とも言えない代物に転化していた一方で、文学的な悲劇は、舞台との関連を徐々に失うことになる。代表的な悲劇作家として、今日に作品が伝えられるのはセネカ(Seneca ,Lucius Annaeus 前5/4-後65)だが、彼の作品は、後のフランス古典劇に大きな影響を与えた。悲劇は九作が残されているが、すべてギリシアの素材を扱っている。セネカの悲劇が実際に上演されたかどうかは分からないが、おそらくセネカ自身は上演よりも朗読を考えていたのだろう。そのメデイアでは、メデアは観客の眼前で自分たちの子どもを殺し、『テュエステス』では、弟にその子どもたちの首を見せるアトレウスの姿が表現されるが、こうした場面も特に上演を考えて作られたわけでないことが分かる。
ローマの演劇は徐々に衰退する。悲劇に顕著なグロテスクなスペクタクルへの志向は、徐々に見せ物にとって代わられる。「パンとサーカス」がローマの基本的な政策になった。さらに、サーカスによって痛めつけられたキリスト教が天下を取ることによって、ローマにおける舞台芸術はほぼ息の根を止められることになったのである。国教化した教会はまず俳優とその親族を破門し、事実上ここに演劇は息の根を絶たれた。中世、演劇が復活するまでわれわれは数百年の時を待たねばならない。