中世の演劇は聖史劇とコメディア・デラルテで代表されている。コメディア・デラルテについては後で触れるが、特にイタリア地域で発達した、村々を回る旅回りの劇団で、そこでは、ストックキャラクターなどの、ローマ喜劇の特徴が保たれていた。
こうした民衆文化は別として、中世の文化を支配していたのはキリスト教である。キリスト教は偶像崇拝の禁止とも関連して、また演劇に対しても当初敵対的だった。俳優を表すギリシア語hypokritesを「偽善者」の意味で用いたのは新約聖書(マタイ23.13「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。」が初めである、このことは(おそらく意図的ではないにせよ)演劇に対する教会の態度を象徴するものかも知れない。ギリシア・ローマの文学的伝統は、東ローマ帝国を例外として、殆ど一掃されてしまった。
中世において新たに演劇を生み出したのは、教会の典礼である。グレゴリオ聖歌がその実際の起源と言って良いだろう。そこでは独唱者と合唱者の交唱がなされ、ベネディクト修道会がこの習慣を広めた。そこから、トロペ(交誦)と呼ばれる原始的な演劇形式が生まれた。たとえば復活祭の交誦「汝等は誰を捜しているのか」では、マタイ福音書の28節が、天使役の僧と三人のマリアに扮した三人の聖歌隊の少年の間の次の交誦になった。
僧 この墓場で汝等は誰をさがしているのか、キリストの子等よ。
少年 十字架にかけられたナザレのイエスです、天使様。
僧 キリストはここにはいらっしゃらない。予言のごとく天におのぼりになった。行きなさい。そしてキリストが死から甦られたことを告げなさい。
オリジナルのマタイの記述は次の通りである。
- さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。
- すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。
- その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。
- 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
- 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、
- あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。
- それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」
- 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。
- すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。
- イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
こうした典礼文は当初教会の中で、ラテン語で歌われていた。それらは徐々に、教会の前庭へ、さらには教会の外に出て行くようになる。それを可能にしたのが、1264年に制定された聖体の秘蹟をたたえる祝日である。聖体の秘蹟は、聖書の最後の晩餐の物語に原典を持っている話で、キリストは使徒に対し、パンをあたえ、「これが私の肉である」と語った。つまり信者はパンを食することによって、キリストに与るのである。これは今日でもカトリックのミサでは「聖体拝受」として典礼儀式の最後に執り行われている。信者は前に出て、イーストの入っていないパンを食べるのである。この祭日の設定によって、儀式は教会の前庭に移動した。
すると出し物はいよいよ俗化してゆく。スペイン・イタリア・イギリスでは、この行事を盛大にする目的でページェント(仮設舞台による野外劇を伴う行列)が執り行われ、人々は最初無言で聖書の様々な場面を演じた(これを活人画という)。これが13世紀中に俗語のせりふを持つものになり、聖史劇に発展してゆく。三人のマリアの単純な場面は拡大され、キリストの物語全体に及ぶようになった。中性の祭壇画や浮き彫りの様々な聖書場面には、聖史劇の影響を直接に受けたと考えられるものも多く見いだされる。
さて、われわれがつい忘れがちになるのは、聖書が中世においては決して今日のように民衆に開かれた著作ではなかったという事である。それは二世紀頃のギリシア語で書かれていて、教会が典礼などに用いたのは俗ラテン語訳だった。「俗ラテン」という言葉からもわかるように、それは当時の知識人の間で利用されていた「古典ラテン語」とは一線を画した、民衆の言語によって書かれたものだったが、時代が下るにつれて民衆の言葉は変化していった。人々は徐々にラテン語を読むことができなくなっていったのである。書物を読むことそれ自体は禁止されていなかった(奨励もされなかった)が、勝手に解釈されるのを恐れて、聖書は禁書の目録に入っていた。。普通の人々が神に触れるのは、教会での説教、さまざまな逸話の物語、さらにそれらの図像を通じてであった。聖史劇も各国語を用いることによって、人々と信仰を結びつける一つの素材になったのである。ヨーロッパ各地に見られる教会の壮麗なステンドグラス、あるいは劇的な祭壇画は、人々に聖書の物語を教えるという目的を持っていた。
聖史劇は、聖体の祝日にちなんだものだったため、当初は受難劇が中心であった。キリストの生誕・エルサレム入城・最後の晩餐・裁判・磔刑・地獄めぐりと復活が中心の話題になる(資料絵)。フランスの受難劇の三つの有名な作品は、テキストの56ページに紹介されているが、きわめて大規模のものである。それは三日ないし四日がかりの作品である。ローマで行われていた機械仕掛けや大がかりな見せ物が、ここに復活した。例えば、抗議で紹介した「キリストの地獄めぐり」は、受難劇のサイクルの中ではcomic reliefの役割を果たしていたのだろう。キリストは復活の前に、地獄を訪れる。そしてそこで地獄の門を開きキリストの受難以前に死んだ人々を救い出すのである。われわれの罪は、キリスト教の教義ではキリストの受難によって初めて許されるので、それ以前に死んだ人は罪の大きさにかかわらず地獄に堕ちている。彼らはキリストを認めることによって救われる。ここでは、大言壮語する悪魔達とキリストの対比がこっけいに描かれており、悲劇的なものと喜劇的なものとの組み合わせが認められる。これは、ギリシア悲劇の上演にも認められた(喜劇との組み合わせ)し、また日本の能の上演にも認められたものである。(狂言との組み合わせ)。
この喜劇的なものの担い手についてはよくわからない。ここにはローマ時代の「アテルラナ劇」や「ミームス劇」に源泉を持つ即興のこっけいな旅役者の伝統が認められるのだろうか?彼らは中世初期の演劇弾圧を生き延びたのだろうか?
おそらくは、見せ物に変わることによって生き延びたのではないか。ミームスはもともと見せ物的な要素がとても強かった。中世文化には、役者の需要は後期になるまで存在しなかったとしても、こっけいな見せ物の需要は早くからあった。「カーニヴァル」である。
「カーニヴァル」については、ミハイル・バフチンが『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネサンスの民衆文化』という著作において詳しく分析しているが、ここでは、それが「民衆の笑いの文化」であったこと、価値の総合的な逆転が行われ、社会の下層部分、身体の下層部分がそこでは支配的な地位についていたことの指摘にとどめよう。喜劇的な見せ物は、その重要な構成要素だっただろう。バフチンは、中世とルネサンスの民衆文化において、カーニヴァル的な祭日は一年の三分の一をも占めていたと推定する。
そうした笑いの文化の存在は、見せ物師たちの需要も生み出したのではないか。だからこそ、ルネサンスに入り、彼らの伝統を窺わせる一つの演劇ジャンルが急に記録に現れるようになったのではないか。それが「コメディア・デラルテ」である。