現代ギリシア語研究入門1

ニコラス バフチン

北野研究室へ

訳者から
著作権について
ギリシア文字の表記について
前書き
1章
2章
単母音
二重母音
子音
3章 形態論


訳者から

ここに訳出するのは、ロシア出身の古典学者、ニコラス・バフチンの「古典研究者のための現代ギリシア語研究入門Introduction to the Study of Modern Greek (Cambridge, 1935)」です。ニコラス・バフチンは、1894年にモスクワの南、オリョールでうまれ、1918年に始まる内戦では白軍に加わり、後に亡命した。フランスの外人部隊に加わった後、ソルボンヌで古典学の勉強を続け、ケンブリッジで、1章でも触れられている、ケンタウロスとラピュタイ人の戦いの神話の起源についての論文で博士号を取得しました。1939年、バーミンガム大学の古典学科に勤め、46年には言語学科を創設、50年に死去しました。

彼が日本で知られるようになったのは、マイケル・ホルキストとカテリナ・クラークの共著『ミハイール・バフチーンの世界』(川端香男里他訳、1990)で一章をさいて、弟ミハイルに及ぼしたその影響がかなり詳しく紹介されたことがきっかけです。その後、テリー・イーグルトンの『聖人と学者の国』では彼はフィクションの登場人物として、ヴィトゲンシュタインと漫才を繰り広げています。実際、ヴィトゲンシュタインの後期思想の形成にはかなり影響を与えたという主張もあります。

しかし、ニコラスは、まとまった著作をものにするのは苦手だったようで、論文はいくつも見いだされるものの、生前出版された著書はこれが唯一のものです。没後は、彼が最後に勤めたバーミンガム大学から、『講義・論文集』が1963年に出版されています。「前書き」で予告されている、「現代ギリシア語文法」の方は出版されなかったようです。

この『現代ギリシア語入門』は全五章、86ページほどの小冊子ですが、当面、一章づつ、ゆっくりと訳して行きたいと思っています。


著作権について

ニコラス・バフチンは、1950年没ですから、彼の著作はいまだ著作権法の保護下にあります。しかし、彼は亡命後イギリス国籍を取得した筈ですので、ベルヌ条約の規定により、出版後10年間翻訳されなかった著作については、翻訳自由の原則が適用されます。ご承知おき下さりますよう。


ギリシア文字などの表記について

この翻訳では、ギリシア文字の表記に、JISのギリシア文字の他、SuperGreek系のGraecaフォントを用いています。お持ちのパソコンにGraecaないしSuperGreek、SuperGreekと同じギリシア文字コードを採用しているフリー・フォントMounceのどれかがインストールされ、なおかつ、ブラウザがFont Faceタグを解釈できる(NetScape Navigator 3.0以上など)なら、文中のギリシア語は正しく表示されます。この点についてはマックでギリシア語をご参照下さい。

MounceをダウンロードしてインストールしてからこのページをReloadすると、ギリシア語の部分がギリシア文字で表記されているはずです。マックの場合アプリを一旦終了したりハードを再起動する必要はありません。

Mounceのダウンロードはこちらから

また、Latin-1の特殊文字(アクセントつきの文字)も、Font Faceタグをサポートするマック以外では文字化けすると思います。この点はLatinの特殊文字をHTMLの表記法で書けばおそらく解消するのですが、現在ちょっとそれが面倒なのでご容赦下さい。


前書き

この短いエッセイは現在準備中の「古典研究者のための現代ギリシア語文法」の導入部です。本書の調子や題材の扱い方はこの事実から説明できます。つまり本書は、文献学的問題に何の関心も持たない読者や、すでに現代ギリシアの文献学に精通している読者にあてたものではありません。第一の読者にとっては、私は自分の主張を証明するために細部に入り込み過ぎているでしょうし、第二の読者は、私の主張が証明されないままに終ることが多すぎると感じるでしょう。この短いスペースで私にできるのは、古典の研究者に対して、今日のギリシア語へのいくつかのアプローチを簡単に提示し、現代ギリシア語の研究が自分自身の主題にとっても興味深く有意義であることを示そうと試みることだけです。

ですから、読者は、古代ギリシア語に関心が集中しているだけでなく、現代ギリシア語に対して偏見を、それも、−望むらくは−、現実には滅多に見られないほどの偏見を持っていると想定されています。この想定は純粋に方法論上のものだとお考えください。

最後の章が、ギリシアの「言語問題」に幾分偏った扱い方をしていると解釈される危険があることは充分に自覚していますし、その危険をおかす用意はあります。私としては、現代ギリシア語について語るときにこの問題を黙って見過ごしたり、曖昧で中立を装った発言の背後に隠れたりすることは誰にもできないと信じております。

ここでA. Mirambel教授とM. T. Castanakis教授について語る機会を得ることができるのは光栄なことです。お二人の刺激的な導きのおかげで私はパリの東洋語学校で現代ギリシア語の手ほどきを得ることができました。また、学校での私の最初の先生は故J. Psicharis氏でした。

 

1章

「ギリシア人(古代では文武の両面において、また真に価値あるものすべてに秀でているとして有名である)は、その偉大な祖先から完全に堕落してしまい、彼らにおいて輝いていたものすべて、特に知識、思慮、価値のどれ一つとして今の彼らには認められない。むしろその逆、正反対の性質が目立っている。...そう、古代のギリシアの知恵とそのかつての純粋さが失われたのは卑俗な民衆だけではない。それは最も高貴な地位の人々からも失われたのだ。」

十八世紀冒頭に地理学者P. Gordonはこのように述べています。以後ヨーロッパ教養社会の態度はほとんど変わっていません。ギリシアの独立を支援する無条件の熱狂の爆発があり、そこからは、ちょうどその頃フォリエルによってヨーロッパに紹介されたばかりのギリシアの民衆詩の一時的なブームが生まれました。しかしその後に生じたのは全体としては−かなりナイーブな−失望でした。解放された国は、まさに当時期待されていた古典的理念が実現されているようには思われなかったのです。今日ですら、古典古代を熱烈に賞賛する多くの人々にとって近代ギリシアは、自分と自分が良く見る夢とを隔てる障害のように思われているのです。神聖な土地の上の遺憾な存在は−どうしようもないのですから−否定するわけにはいかず、耐えるしかないのです。昔、エルサレムへ旅した敬虔な巡礼が、聖地を不当にも支配する不信心な輩を我慢しなければならなかったように...。有難いことに土地や海の様子はまだ変わっておらず、遺跡や博物館もある。パウサニアスをポケットに入れておけばガイドになる。それで充分じゃないか。

しかしフォリエルの『近代ギリシアの民衆詩』によって呼び起こされた関心は、学者の間では、一般大衆の場合ほど完全に消え去ったわけではありません。十九世紀を通じて、ギリシア圏の生きたフォークロアの研究は、ゆっくりとではありますが確実に進歩して行き、その研究に従事したのは、資料を集めるだけの研究者だけでも、また現代ギリシアを孤立したものとして統計的に考察する研究者だけでもなく、時には古典学者も含まれていました。こうして、古代ギリシアと今日のギリシアとの間にある種の生きた連関があることを明らかにする作業がある程度なされました。少しだけ例を挙げると、R. M. Dawkins教授は現代のトラキアにディオニュソス祭祀の諸要素がなおも残っていることを示しました(J. H. S. 1906)。A. J. B. Wace教授(B.S.A.1909-1910)はギリシア北部のあちこちで行われている他の色々な祭りを調査、記述しましたが、そこにも同じか、類似した特徴が残存しています。ヴィザのカーニバルなどの上演の提供する証拠の重要性について異論を持つにせよ、ギリシア悲劇の起源という重要な問題を真面目に議論するときには、こうした実例は無視できないものですし、事実無視されてはいません。古代と現代のギリシアの他の結び付きは、J.C. Lawsonによる『現代ギリシアのフォークロアと古代ギリシアの宗教』(1910)という刺激的な著作がありますし、A. B. Cook教授による『ゼウス』の多くのページには、古代宗教の研究者が調査を古典期の境界から我々の時代にまで遥かに下らせることで、自分の主題について貴重な光明を得られることが示されています。

ですから、人々の記憶の中に、過去の貴重な遺産が断片的にせよ忠実に保存されているように思われます。また、ギリシアの農夫の精神を二千五百年程前に支配していた動機の多くが、今日のギリシアの農民にもまだ認められ、人や神に対する態度全体に影響を与え続けているように思われるのです。現代ギリシアのフォークロア研究はすでに古代精神への予想外のアプローチを開拓し、曖昧な過去の単なる一点に光を投げかけるに留まらず、全く連続性が失われていると見なされていた地点に確かで微妙な結びつきを見いだしたのです。今後の研究によって得られることも多いでしょう。

しかし、過去が現在に頑固に居残っているのが観察される領域は、民衆の信仰や慣習だけではありません。それ以外の領域でも、ある種の本質的パターンの回帰は同じように注意を引きます。だから、ギリシアの先史時代、初期歴史時代の理解にとって、この国の現在の人々の地理学的分布や生活様式の研究ほど啓発的なものは多分ないでしょう。これまでこの種の証拠はほとんど利用されてこなかったので、それについて二三述べても良いでしょう。

例として取りあげたいのはテッサリアです。ここでは、ギリシアの他のどの地域にもまして、土地の特別な構造が、住民に確たる範囲の可能性と限界を課し、型として働いて、同じ不変のパターンにしたがって彼らの運命を形づくってきました。どんよりとした、だが豊かな低地平野とそびえ立つ高山帯の放牧地との特有の結びつきが、住民の多くを二重生活者にし、年ごとの移住の道のりを永遠にたどらせ、かくしてこの地域の生活リズムを決定したのです。それはまた、耕し、売買し、働く低地の定住者と、他の、春ごとに高地に戻る住民との間の消しがたい反目を生み出しました。

ホメロスには、ペネイオスの耕作地に暮らしていたラピタイ族と、山に棲息するペリオンのケンタウロイたちの戦いが歌われています。山の部族は、二重の家を持つ人々で、平地と高地を行き来し、それが定住している隣人たち、つまり平地のラピタイ人にとってトラブルと永遠の脅威の原因なのです。「かくして、ケンタウロイと彼らの間の争いが始まったのである。」3000年ほどたって、私たちはこの永遠のテッサリアの物語の新しいヴァージョンに出会います。かつて羊飼いであり、戦士であり、泥棒だった粗野な山人はクレフト人という新しい名前で再び登場します。クレフト人の詩には、民族間の争い、独立闘争が、馴染みのパターンにしたがって形を変え、自由で独立の山人たちと「村、つまり平野に住む奴隷」との間の古い争いという形を取っています。そして今日にいたるまで、テッサリアの地方紙は、この争いが終わっていないこと、今なお農民と半遊牧の羊飼いたちの間で争乱が続いていることを思い起こさせてくれます。

テッサリア史のこの主調音は、時代の状況の変化に応じて変わるかも知れません。でもパターンはずっと同じであり、争いは永続し、すべての出来事が永続的な回転軸を形成しています。テッサリアの生活の本質的パターンの持続性、毎年の移住という週間もそのルートも変わっていないことから、神話や文学の伝統に保持されている曖昧で散財しているデータを関連づけて解釈するための貴重な鍵を得ることが出来ます。これについて私は、エニエネス族の例だけを引用できるでしょう。彼らに関してはホメロスの「船団のカタログ」への記載が論議をかもしました。彼らの指揮官グネウスは陣営を率いてトロイアに向かうアカイア人に加わったと言われています。そしてその領地は、「寒風吹き荒ぶドドネの辺り」と「麗しきティタレソスの流れのほとり」を含むものとして記述されています。

かくして、小さな部族の無名の指揮官は、テッサリアの東境からペネイオスの流れ全体をたどりその水源へと、またさらに遡りピンドスを越えドドナへと至る地域−まさに大帝国−を維持していたように見えます。これは言うまでもなく馬鹿げています。ですからエニエネス族の謎に才覚をふるおうとした学者たちはすべて、ティタレソス川とドドナの距離を取り去る説明を試みねばなりませんでした。テッサリアのティタレソス川界わいに第二のドドナを想定するか、ドドナの界わいに第二のティタレソスを想定するかになります。

しかし、(テッサリアを良く知っている者なら誰にとっても明らかな)単純な事実に気づくとき、すべては明確になります。つまり、グネウスの領地は定住民が専有するはっきりと国境を持った王国ではなく、半-遊牧の部族が年ごとの移住をするように定めていた領域だったということです。さらに、彼らの移住がカバーしている領域は、現代のVlach人の羊飼いの特定のグループの移住の領域と正確に対応するように思われます。エニエネス族がかつてたどった年ごとのルート(アラクトスとペネイオス渓谷を遡る)は、現在でもVlach人が冬の住居(ティタレソス川流域のエラッソナ地域と「寒風吹き荒ぶドドネの辺り」にあるヤニナ地域)からペネイオスの源流の先の高原への春ごとの移動を導いている。ここでピンドスの両端から来た一族の人々は出会い、夏の月日をともに過ごすのでです。

「寒風吹き荒ぶドドネの辺りに住みついた剽悍な人々と
麗しきティタレソスの流れのほとりで田畑を耕すものども」
          (『イリアス』II.750-751)

部族が夏に再会する地域はホメロスの言うアイティケスであり、実際にもアイティケスは、プルタルコスの語るところでは(Q. Gr.13)、エニエネス族が暮らしていた土地だった。さらに、プルタルコス(と、他のソース)から、この不穏なエニエネス族は最後にはラピタイ人によってテッサリアを追われ、移住地をアイティケスとエペイロスに制限せねばならなかったことが分かります。そして徐々に、ドティオン平野(ラピタイ人、ケンタウロイ、フレギュア人の共通の発祥地)から、歴史時代の居住地域へと生活の場所を変えて行ったこの小さな部族の歴史全体が明らかになり、ばらばらの証拠が完全に一貫した全体へと収束して行くのです。

しかしこの種の研究は、あれこれの特定の場合には有意義かも知れませんが、応用の幅は比較的狭いものです。そして、近い将来、強い集権的政府と西側の統合的影響が地方の生活パターンを最終的に一掃してしまったときには、こうした研究はその対象を失う運命にあるでしょう。

同じ、あるいは同様の理由で、生きた民俗も急速にギリシアから消えつつあります。さらに、古典学者による現代ギリシアの民俗研究には固有の危険と限界があります。この領域では決定的な変化、決して越えられない溝が存在しました。幾つかの細部では連続性が確立され、あるいは想定されました。だがそれは細部に関してに過ぎません。部分的な類似や、今日まで執拗に生き残ったあれこれの要素があったとしても、全体としては過去と現在の間には本質的な共約不可能性があります。だから、現在の特定の要素に古典古代の特定の要素の残存物や直接の帰結を認めるときには、常に個物から個物への推量が存在しています。それは、それらが属しているそれぞれの全体の中での位置や機能を捨象せねばならないというまさに対象の本質によって強いられる推量です。それらは二つの異なった、独立した全体に属しており、両者をはかる共通の尺度は存在しないのですから。例えば、先に述べたヴィザのカーニヴァルのあれこれの要素のディオニュソス祭の諸要素との同一視は、単なる偶然という仮説を事実上排除するような幾つかの細部の驚くべき一致という事実だけによって確立されています。それ以上進むことは出来ません。紀元前六世紀と紀元二十世紀のそれぞれの宗教のあり方や祭祀の実践の全体との関係で同一視された諸要素を比較し、そうして同一視を強めようとするどんな試みも、問題を曖昧にし、方法の欠如をさらけ出すだけでしょう。この種の研究によって課せられた制約から逸脱するの誘惑がどれほど強いのかは、上述のJ. C. Lawsonの著作の多くの展開によって説明できます。

しかし、ギリシア三千年の歴史を通じて連続性が実際とぎれていない領域が一つあります。ギリシア語です。ここでは、そしてここでだけなのですが、細部の結びつきはすべて全体との関係によって確立され検証されています。まさに全体こそが細部の変化すべてを通して存続してきたものなのですから。生きた統一が常に形成されつつあり、同じ特定の複雑な傾向によって絶えることなく形づくられ特徴づけられているのです。それはかつてギリシア語が印欧祖語から別れるよう決定しし、今日でも作用している傾向なのです。

だからこそ、言語の中の連続と残存の研究はギリシア文明の他のどんな領域におけるよりも比較にならないほど厳密で活動時に重要なのです。過去と現在のギャップが存在しないのはここだけなのです。そして、(A. ThumbがCl. Q. 1914, p. 205で強調するように)過去の残存物のどんな研究においても言語学的証拠が主要な方法論的重要性を持っているのもここに由来する訳です。言語学的証拠は異なった時代に属する二つの減少を結びつける主要な−唯一のと言うべきでしょう−安全なテストを提供してくれます。もう一度、ヴィザカーニヴァルの事例に戻りますと、ここではlivkni (< anc. livknon)という言葉が、「ゆりかご」という特殊な意味で登場し、それがディオニュソス崇拝の残存という考えを指示する最大の論点の一つを提供しています(J. H. S. 1906 pp. 196, sq., 203参照)。もう一つ例をあげますと、現代ギリシアにケンタウロスが居残っているというLawsonの仮説(op. cit., pp. 190-255)は彼が[kalli]kavnzaro"kevntauro"から派生させたことに大きく依存しています(pp. 211-221, 232-236)。そしてもしこの派生が文献学的根拠から拒絶されるべきだとするなら−私はそうすべきだと思うのですが−、うまく構成された構築全体が崩壊せねばなりません。

この派生が成り立つかどうかはここでの我々の関心ではありません。しかしLawsonの著作のケンタウロスの章は、文献学的分析を比較民俗学的研究に適用する場合の独特の性格に関する方法論的観察のための素材として有益に使うことができるかも知れません。その種の主題を扱うためには、二種類の探求方法をつねに行き来する必要があり、両者は明確に規定され適切に結びつけられていなければなりません(Lawsonの場合にはどちらもなされていませんでした)。既に見たように、その一方は、古代と現代の民俗の孤立した特徴の間の類似を強調し、結びつきを確定することからなりたっており、もう一方は事柄に含まれる言語学的証拠の分析です。前者だけにかかずらうなら、それ自体以外には検証の手段もなく、あるいはどんな一般的法則や定式にも関わらないような、単なる類似(それとも一致?)に左右されてしまいます。後者の研究を行なうことで状況は変わります。引用した例では、Kallikantzariが現われる様々な民話、この名前が出てくる様々な形式とそのそれぞれのコンテクスト、時空間の中でのその頻度と配置、それが特にどんな方言、民族媒体に現われるかなど、これらすべての散在したデータが、」非常に新しい意味を持つのです。例えば、文献学的な観点から考えるなら、個々の特徴はどれも、例えば音変化であれ、意味論的移動であれ、言語の法則や傾向の全体の働きを明らかにし、いまやそれはこの全体との関係で定式化でき検証できるのです。所与のどんな地点からも、様々なレベルの一般性と永続性を持った様々な方向へ広がって行けるのです。だから分析は、個別的、偶然的なものとの接触を失わずに一般化が可能になります。それは定性分析(質的分析)でありつづけながらも厳密さを獲得するのです(A. Meilletの言うように、「言語学的事実は質的である」のですから)。

要約すると、文献学的なレベルに研究が上昇したなら、考察されている現象は、たとえ限定されたものであっても、きわめて特殊なものときわめて一般的なものが出会い影響し合う場になるのです。言語においては、全体はその部分すべての一つ一つに完全に現われているのですから。

 

* * *

 

ギリシア語の発展は、他の印欧諸語の歴史には類を見ない統一を背しています。この発展を古代ギリシア語と現代ギリシア語の二つに分けることは、少なくとも言語学的な観点からは、全く恣意的な分割です。実際、H. Pernot教授が述べたように、「どちらも「古代ギリシア語」に属するホメロスの言葉とkoinhvの間の違いは、koinhvと今日のギリシア語との間の違いよりもずっと大きなもの」(D'Homè re nos jours, p.59)なのです。

しかしこの二分割は、文献学的には正当化できなくても他の理由から維持されるべきです。(文化的な溝は含意しても言語学的な溝は含意せずに)古代ギリシア文明につきまとうイディオムを<現代に関しては>拒絶するのは便利ですから。しかし、現代ギリシア「語」について語るのは便利でもなければ正確でもありません。現代ギリシア「語」などという言語は存在しないからです。存在するのはギリシア語の現状だけです。こう言うのは厳密な意味においてであって、フランス語やイタリア語がラテン語の「現状」である、とか現代英語がアングロ・サクソン語の現状であるとかいうような広い意味においてではありません。『ベオウルフ』から『荒地』までの言語学的変化は途方もないもので、発展は決して直線的ではなく、外から介入した幾つかの要素が言語の成長に深く介在し、修正してきました。この二つのテクストを前にして、両者が同じ言語の二つの段階を表わしていると前もっての知識なしに発見できるのは、文献学的訓練を受けた人だけでしょう。では我々のテクストの伝統がカバーしている時期全体を通じてのギリシア語の進化を考えてみましょう。それは、『ベオウルフ』と現代のテクストを隔てる距離の倍以上の長さになります。ここでは、ホメロスの叙事詩の最も初期段階から、我々の同時代人パラマスの詩まで、ゆっくりとした、有機的で、中断のない成長が見いだされます。パラマスの読者で、古代のギリシア語を学んだことのない人にとっても、ホメロスは、現代の英国人にとっての十二世紀の中英語よりずっと馴染みがあり理解できるものに思われるでしょう。

音韻、語形、語彙などの変化すべてを考慮に入れると、十二世紀と二十世紀の英語の隔たりはホメロスの時代と現代のギリシア語のと同じくらい大きいことが示されるでしょう1(「現代の」ギリシア語というとき私は、当然のことながら、不自然ににアルカイックな「カサレブサ」ではなく民衆や詩人の生きた言葉を意味しています)。一方で、音の変化だけを考えるなら、『ベオウルフ』より我々に二百年近いチョーサーですら、ホメロスと現代ギリシア語の違いよりも大きな違いを持っています。さて、もし我々がこの点に関して意見が同意できたとして、それをある種共通の基準とするなら、英語と較べたときのギリシア語の進化の特徴が、大いに際だってきます。

.Cf. Atkinson, Greek Lang., p. 306.

言語学的変化の同じ基準は一方では八世紀、音変化だけを考えるなら六世紀をカバーしており、他方では、およそ三千年をカバーしているのです。言語学的変化の同じ基準は、一方では民族、文化、政治の面で安定し、きちんと確立した単一国家の直線的な発展を伝え、他方では、民族、文化、政治上の変化、それも全面的で決定的な変化と一致しているのです。でも、これらの崩壊と再興、住民の争いと移住、外国の征服、そのすべてを通じて、またそれらすべてを超えて、あらゆる溝を乗りこえ、あらゆる裂け目をまたぎ、ギリシア語は生き残り成長してきました。これこそ、「どんな革命も起きなかった言語」(Meillet, Aperçu, p. 222)なのです。

言語は、ソシュールによると「すべてがかかわっているシステム」です。それは「共時的」に、つまりその進化のある所与の時点において(ソシュールは「共時的」という表現をこの意味で用いているのですが)だけではなく、進化を通じて「通時的」にもそうなのです。それは常に作りなおされる動き行く近郊であり、分割できないプロセスであり、どの段階も隔離して考察できないものなのです。

ギリシア語は、他のどの言語にもまして、その発展の全領域において、生きた全体であり、確たる区画に分けるのは危険です。分けてしまえば、三千年にわたる豊かで中断のないテクストの伝承を通じてある言語の成長を一歩一歩見守るユニークな機会が奪われるだけではありません。そうなろうと知ったことか、と古典研究者なら言うかも知れません。彼が求めているのは古代ギリシア文明の研究であり、ギリシア語が彼にとって問題なのはまさにこの文明の言語だったという限りにおいてなのだと。確かに。しかし、ギリシア語の一セクションにだけ地平を限ることで、そのパースペクティヴは歪んでしまい、そのセクションにおいてすらもその可能性は制限されてしまわざるを得ません。古代ギリシアと現代ギリシアという二つの伝統的セクションは、お互いを通してだけ実り豊かな研究も正しい理解も、そして特に、真の感覚も得られるのです。

「近代語」研究が(母語を含め)その本来の基底から切り取られる傾向がある今日でも、現代のギリシア語をそのルーツから切り取り、時間の中でのその深さを奪うなら、現代ギリシア語が何を失ってしまうか、強調するまでもありますまい。

しかし、古代ギリシア語が現代ギリシア語と絶縁することで失うものはさらに多いのです。それは知識の量と正確さの問題だけではありません(どちらに関しても近代ギリシア語研究から得るべきものが多いのは後に示しますが)。まさに古代ギリシア語の知識の本質が現代ギリシア語への精通によって変化するのです。−「精通」と私が言うのは全面的な精通であり、文献学的な知識と話す能力の両方を含みます。

古フランス語の研究者が二人、両者とも主題の知識はともに申し分ないのですが、『ローランの歌』を呼んでいるとします。一人はフランス人で、もう一人は(古フランス語の場合この想定が馬鹿げているのは勿論承知していますが)現代フランス語の会話の知識が全くなく、この言語の環境の中で暮らしたことがないとしましょう。後者には、彼の学識がいかに深く洞察がいかに正確であろうとも、『ローランの歌』は「死語」で書かれた詩にとどまり、理論的なアクセス以外は禁じられているのです。他方もう一方は、話されるフランス語を通じて、この言語の生きた伝統に参与しており、言語のより古い段階に出会うために遡行して仕事をするときでも、彼はそれに到達しそれと具体的・有機的な接触を持つことが出来ます。それはどんな理論的知識でもそれだけでは提供できないような接触なのです。

現代ギリシア語によって提供される幾つかの利益のうち、主なのは上と同様のものです。今日話されている言葉は、過去の古典期の唯一の生きた残存物なのですが、それを通じて、永遠のギリシアの伝統に自らを結びつけ、実際その一部になることが出来るのです。繰り返しますが、これは単なる知識の問題ではなく具体的経験の問題でもあるのです。知識は、経験がそこに即して形成され組織される主要な道すじを提供するに過ぎません。苦しみながら手探りし、調整し直すことで、我々は、過去と現在を分けないように、全体を見失わず、その感覚をなくさないように、全体のなかでどこにあっても、最も身近なものと最も遠いものを結合することが出来るようにと、ゆっくりと自らを訓練せねばなりません。それを成し遂げるためには、我々は、とりわけ、古典学者にあって自然に形成されるある種の感情的な惰性に打ち勝たねばなりません。

自分自身の現代ギリシア語との最初の出会いを思い起こすと、それは次のようなものでした。私は勿論古代のギリシア語を通じて現代ギリシア語に出会いました。それは古典語への唯一の鍵でした。しかし、希望していた統一を見いだすかわりに、私は自分が二つの世界に引き裂かれるのが分かりました。一方は馴染みだが隔たった世界であり、私の実際の関心の中心でした。もう一方は、私の目の前に広がり、ますます私を虜にしつつあるのだが、第一の世界とは何も共通点がないように思われたのです。これら二つの世界は一つにならず、長い間全く結びつきを欠いたままでした。理屈の上では、そうではありません。理屈の上では、結びつきはすべて私には明らかでしたし、言語の統一性は明白でした。しかし、具体的、直観的には違ったのです。二つの世界を融合するために私は暗がりの中で努力せねばならず、両者が出会うまで、いわば両端からゆっくり掘り進む必要があったのです。しかし、最終的に融合が生じたとき、それは私が予測していたのとは全く異なっていました。私は再発見するまで自分の古代ギリシアを失わねばならず、完全にまた情熱的にもう一方へ没入せねばなりませんでした。そして私が古代ギリシアを再発見したとき、まるで、深い潜水の後で再びそこに浮き上がったかのように、私はそれが完全に変容しているのに気づきました。それはもはや「死語」ではなく、完全に生きた言葉だったのです。

これら二つの世界を結びつけるには一般的な−そして非常に非合理的な−困難があるに違いありません。というのも、ギリシア語の分割不可能な統一は学者たちによって明確に証明され、(理論的には)誰にも明らかであるのに、両者は実際は結びつけられていないからです。現代ギリシア語はどの国においても古典研究のカリキュラムには組み込まれていないのですが、実際はラテン語よりも名誉の席を与えられて叱るべきなのです。仮に現代ギリシア語が教えられるにしても、それは古代ギリシア語とは無関係に教えられています。通常その教育はビザンティン研究の付録になっています。あるいはそれは先祖のない「現代語」として扱われ、講義リストではルーマニア研究とセルビア研究の間のどこかに置かれています。そして、(全く誤って)そこには貴重な文学は皆無であるかのように想定されているので、現代ギリシア語は大抵、ビジネスマンや商用の旅行者にとっては良いにしても、研究者にとってはガイドや宿の主人に言いたいことを伝えるためだけに必要な、実際的な価値しかない言語として学ばれるのです。そして、ヨーロッパの大学のあちこちには既に新しい種類の専門家が登場しはじめています。「ネオ・ヘレニスト」、つまり古代の知識や関心の全くない現代ギリシア語教師です。全く逆の特質と制約を持っている古典学者を彼らが補っているのは自然なことです。この「有益な分業」のもたらす災いを補うにたる利点など主張することもできないでしょう。

実際、中期英語の研究者が、今日話されている英語の知識なしですますなどとは想像することもほとんど出来ないでしょう。あるいは古フランス語の研究者が、生きたフランス語への精通が余計だと考えるということも。しかし、生きたギリシア語について全く知らない古典学者はいまなおありふれた現象、いや、不変法則だと言うべきでしょう。勿論、彼もギリシアへ行けばしばしばある程度学びます。本当にギリシア語に興味を持つかも知れません。しかしその場合でも、彼の新しい関心と古代ギリシアについての古い経験は注意深く分けられています。それらは相互に全く無関係に思われます。

奇妙で逆説的な態度です。自分がおそらくその研究に人生を捧げた世界との具体的で、深い接触を求めて巡礼の旅を始め、遺跡や博物館の遺物ではなく、歴史の変転のユニークな偶然によって奇跡的に生きのび、数千年の香りに満ちなおかつ生きて若く、変化したがなおかつ本質的には同一である、この世界の生きた部分に直面し、しかもそれと認められないとは。しかしギリシア語はなおも我々とともにあり、イオニアの叙事詩人の言葉を形づくり、ディオニュソスの神聖な踊り場で歌われた最初の歌のシラブルを定めた同じ基本的な傾向は、ビザンティンの典礼文、テッサリアの哀歌、エピロティ・クレフティスの戦争歌でもまだ認められ、今日でもギリシアの母親の子守歌や、チップを求めるピレウスの街頭の少年の叫びにも認められるのです。

 

*   *   *   *

これまで述べたこと、そしてこれから述べることの多くはささやかだが典型的な実例で要約でき、それでこの序言を締めくくっても良いでしょう。

古典作家がしばしば言及した sunagriv" という魚がいます。「 sunagriv" は我々の辞書では余計な匿名性を享受してきた」とKrumbacherは自分が出版した中世ギリシアの「魚の本」で述べています(Sitz-Ber.d. Bayer. Akad., 1903, p. 368)。彼はそれを「海の魚の一種」とだけ定義しているドイツの辞書を引用しています。バイイ<希仏辞典>やリデル・スコット<希英辞典>も同じです。 une sorte de poisson de mer"とか、" a kind of sea-fish とかいう定義がならんでいます。この魚に言及した古典作家は確かにだれ一人、それが何なのか分かるような記述を与えていません。だから、我々の辞書の中でもそれは同じく曖昧なままなのです。sunagrivda(この名前はすでにヘシュキオスの辞典に見いだされます)がギリシアで最もありふれた魚の一つであるにもかかわらず、辞書の記述は変わりません。それはフランス語のdenté (dentex vulgaris)<鯛の一種>です。しかし、この魚をこんな風に扱ってきた学識ある学者たちの誰一人、少なくともアテネに行ったことがないはずはないのです。そこで彼らは、かならずやアテネ特産の料理の一つであるジューシーなsunagrivda me; maionevza「鯛のマヨネーズ添え」を一度は必ず食べたでしょう。彼らに必要なのは好奇心を持ってメニューを眺め、そしてそれから、魚屋に歩いて行くことだけでした。それは辞書編集者にとっては楽しくて勉強になる経験だったでしょう。そして我々の辞書の隙間は埋められていたでしょう。でもそうはなりませんでした。曖昧だが馴染みのある古典語の sunagriv" はアリストテレスの『動物誌』などにぼんやりと姿を見せるだけで、もう一つの魚とは結びつかないままだったのです。それは具体的な姿を持ち、おいしい、でも現代の魚で、忙しい辞書編集者たちは博物館を移動する間に大慌てで食べたのでしょうけれど。