現代ギリシア語研究入門2-1

ニコラス バフチン

北野研究室へ

前書き
1章
2章
単母音
二重母音
子音(別ファイル)
3章 形態論

注意:ギリシア語を正しく表示するためには、Netscape Navigatorなどの<FONT FACE>タグを解釈できるブラウザを使い、Linguistic Software社のSuperGreekないしGraecaのフォントか、ギリシア文字のコードに関してそれと互換性をもつMounceフォントがシステムにインストールしてある必要があります。なお、例によってInternet Explorer 4.0では<FONT FACE>タグの解釈がおかしいようで、少なくともマック版ではこの文章のギリシア語を正しく表示できませんでした。なお、Mounceフォントへのリンクは。「現代ギリシア語入門1」の「ギリシア文字の表記について」をご覧下さい。ダウンロードしたら(マックの場合)システムにインストールしてこのページをreloadして下さい。ソフトを終了する必要はありません。


 

2章 音韻論

古代ギリシア語から現代ギリシア語をもっとも顕著に隔てているようにまず思われるのが、音声学的側面です。これがどこまであてはまるのか、二つの音声システムの関係は厳密にはどのようであり、その関係がどんな意味を持っているのか、これから見て行きましょう。

手始めに、古典の素養のある旅行者が現代ギリシア語が話されているのを最初に耳にしたときの印象を分析することにしましょう。それが、彼を冷ややかな気持ちにする馴染みなさになるのは避けがたいことです。店の看板や道路標識や新聞に見いだした言葉の中には、彼が良く知っているもの、由緒あるものすらあるかも知れません。しかし、住民の口から出ると、同じ言葉が奇妙で予想しがたい形をとります。実際、それはギリシア劇のようにはぜんぜん聞こえません。冒涜を目にしたかのようにショックを受けます。偏見のある耳には奇妙なレヴァント人の騒音にしか聞こえないこいつの中に、ホメロスやプラトンから恭しく学んだ言語を認めるのを彼は端的に拒むのです。

しかし、この旅行者が現代の言葉のうちに認めるのは、本当に「古代ギリシア語の発音」との違いなのでしょうか?「古代ギリシア語の発音」という言葉がカバーしている主なヴァリエーションを、確かに我々は良く知っています、ただし理論の上ではですが。だが、我々の口と耳にとってはそれは完全に異質なものです。それは、具体的には、我々にとって無意味です。古典テクストを読むときにだれ一人として、テクストが属していた時代と場所の発音を再現しようと試みたりはしません。それが実際にはどんな音だったか、想像しようとする手間も惜しむでしょう。その代わりに、様々な成分が様々な比率で組み込まれ、自分の母語の言葉の習慣や、さらには綴りの慣習によって決定される一般的特徴を持った純人工的な言語(idiom)へと自動的にそれを翻訳するのです。

すべての国がそうした翻訳、それもしばしば競合するシステムを持っています。それは多かれ少なかれ母語、その国での古典教育の歴史を反映しているのですが、実際に語られたものとしての古代ギリシア語とは無関係なのです。どれもみな全く恣意的な代用物であり、普通、現代ギリシア語よりも原典からは隔たっているのです(現代ギリシア語の音声システムは、いかに異なっているとはいえ、少なくとも古代のシステムの自然な結果なのです)。ギリシア語と最初に接触したとき人が耳にするのはこれら慣習的なやり方の一つの発音ですし、そのように発音するべく教え込まれるのです。かくして言葉は奇妙で人工的な音の修飾と絡み合ってしまい、これが感情的な価値を帯びて、そこから少しでも隔たるとまるで神聖を汚されたかのように感じられるのです。

ですから、現代ギリシア語が話されているのを聞いたときに人が実際に気づくのは、古代ギリシア語との違いではなく、今日でもヨーロッパの学校や大学で教えられている疑似ギリシア語混種方言との違いなのです。これらのどれをとっても現代ギリシア語との間には、最も良く訓練された耳でも、どんな結びつきも類似も見いだせないでしょう。類し派存在しないからです。それらは全く異なった発展の道筋をたどってきました。だから、英国人やフランス人の発音する古代ギリシア語が属しているのはそれぞれ英語とフランス語の音声の進化であり、ギリシア語のではありません。しかし、実際にギリシア文明の様々な段階・領域の中で発音されていた古代ギリシア語(今日我々はそうするのが有意義である程度には古代ギリシア語を知っています)を聞き、発音する訓練をした人がいれば、現代のギリシア語を初めて聞いたとき、あらゆる違いにもかかわらず、自分がまだなお同じ言葉を聞いているのに必ずや気づくでしょう。現代のギリシア語との接触は、彼にとっては、関連性を教わる経験、それも最も生きた経験になるでしょう。つまり、ギリシア語の特定の形態や局面がすべて持っている関連性であり、そこに浸透している原理がしっかりと残っているという経験です。

音声は言語の最も具体的な側面です。そこから(形態や語彙の変化以上に)言語をejrgovnではなくejnevrgeiaとして感じることを学びます。ここではまた、伝統的な発音は、イギリスにおける「新発音」のような妥協型の解決を含めて、非常に人を欺くものです。どんな時代であれ地域であれ、古代ギリシア語の一つの発音を採用することで、実際の言語の動く多様性が固定し統一された音声体系に代えられてしまいます。そうして、古代ギリシア語は音声学的に単一である、歴史を通じて静止し不変の単位であるという誤った感覚を生み出します。「感覚」と言うのは、理論的には誰でも、同じ記号の表わす音価が常に変化しており、例えばプルタルコスを読むときには、我々は現代ギリシア語の発音にかなり近づいた発音を採用すべきだということは知っているからです。

ホメロスとプルタルコスを同じように発音することは単に歴史的音韻論に反するだけではありません。音が表現しようとしたものを偽り伝えることになります。言語は、正しい意味を付与しさえすればどんな音価を与えても構わないような文字記号体系ではありません。言語はまず、声音と調音のユニークで生きたシステムであり、意味はそのシステムと分かち難く相関し、融合しているのです。一方を歪曲して、もう一方に影響を与えずにすますなどできません。言語を学ぶときに、心、喉、耳は一緒に働かねばなりません。それは古代ギリシア語も例外ではないのです。自分から遠い、異なった考え方にかかわるように心を鍛錬し、形づくるときには、同時に喉も耳も異なった声音や調音の訓練をせねばなりません。つまり、ギリシア語のテクスト(特に詩のテクスト)を読むときには、それが属していた特定の時代や地域で実際に発音されていたように発音するよう試みなければなりません1。確かに、多くの点でここでの我々の知識はいまだにおおざっぱで不十分です。そして、良く知っていることに関してすら、我々は常に、それを行動で充分に再現できるわけではありません(例えばピッチアクセントと音節の長短がそうですが)。それでも、試みるにたるだけのことは我々は知っており、古代ギリシアの音声面を、いかに不十分とはいえ、我々の知識と能力のすべてを使って再現すべくこころみるのは我々の義務でもあります。我々は古代のテクストに我々近代の思想や感情を読み込もうとはしませんが、同様にそこに我々の馴染みの音を読み込もうとしてはなりません。たしかに、どちらの場合も我々の努力が完全に報われることはないのですが。両者は相関しており、実は同じ一つの努力なのです。

1. この点も、また爾後の話もギリシア研究者にかかわる問題であり、学校でのギリシア語教育に適用する意図はありません。後者ではおそらく何らかの妥協が唯一実際的な解決ですから。

この試みを不可能だとか、あるいは無価値だと判断される人には、困難の合理的で首尾一貫した解決は一つしかありません。古代ギリシア語を、ギリシア語が今日発音されているように発音することです。これは、そもそも解決であり、単なる手抜きではないとしても、貧しい解決であり、それによってどれほど多くが失われるか、強調する必要はありません。しかし、少なくとも、この発音を採用するなら、古代からはるかに隔たっているとはいえ、人工的な代用品ではなく真のギリシア語の発音であり、ギリシア語の本来の傾向に驚くほど忠実な発音だと言うことになるでしょう。この二つの音声体系、ないし同じ体系の二局面の関係について、これからやや詳しく考察することにしましょう。

 

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古代ギリシア語と現代ギリシア語の発音はどこが違うのかと問うことは、勿論、答えることなどできない馬鹿げた問いです。と言うのも、比較の第一項は、時間的にも空間的にも、多様な発音のヴァラエティをカバーする曖昧な集合名詞であり、第二項は、前者ほど不確定ではないにせよ、なおもかなり曖昧だからです。もっと限定された問い、例えば「紀元前五世紀のアテネの発音と今日の発音の違いは何か?」であっても、正確な答えは許さないでしょう。発音は社会階層によってもかなり変化があり、後に見るように、五世紀アテネでは特にそうでした。さらに、ここまで限定すると、この問いはそれ自体で論じるわけには行かなくなりますし、もしそれができたとしても、それはあまり興味深くはなくなるでしょう。

もう一つ、しばしば聞かれるのは、現代ギリシア語の音声的要素のあれこれが最初に由来するのはいつなのか、そしてそれが最終的に固まったのはいつなのかという問いです。これは重要な問いですが、これもまた孤立して論じるわけには行きません。たとえば、ηが最初にi音として登場するのはいつどこでなのか、そしてそれはどのように広がり一般的に使われるようになったのかを知るのはとても興味深いことです。しかしこうした事実を正しく理解するには、それを包括する「イオタ化(iotacism)」という複雑な一群の現象の中に組み入れねばなりません。そしてイオタ化は我々のテクストの伝統がカバーするほぼ全時代を通じて進んでおり、一部地域を別にすればまだ完了していません。またイオタ化そのものも、様々な他の現象と関連づけねばならず(その中には先史時代に遡るものもあります)、最初の起源からギリシア語に内在する非常に一般的な現象によって説明せねばなりません。簡単に言うと、現在の音声体系を提示するには、ギリシア語の音声的進化全体と関係させねばならないと言うことです。

我々はギリシアのアルファベットに示される孤立した音声要素から出発し、それをもともとの音価に遡り、その後、今日に至るまでのその変化をごく簡単にたどって行くことにしましょう。

もともとの音価という言葉で意味しているのは、共通ギリシア語(Common Greek)で所与の要素が持っていた音価です。そしてここで言う共通ギリシア語とは、koinhvではなく、印欧祖語から分かれた後、諸方言に分割される前のギリシア語のことです。この共通ギリシア語は、どんな書かれた記録よりも先行しますが、印欧祖語が様々な印欧語の比較から再構成されたのと同じようにして、歴史時代の諸方言から再構成されます。印欧祖語と同様に、共通ギリシア語は純粋に仮構的なものです(ただしより詳細ですが)が、それでも印欧祖語がその娘言語の比較研究にとって重要であるのに劣らず、ギリシア語の歴史の理解にとって重要です( Meillet op. cit. p.12 および Introduct. pp.35-50参照)。

注意すべきは音声変化の年代記述や地誌記述は近似的なものに留まらざるを得ないことです。変化が現われ、われわれがそれに気づくとき、これは大まかに「それ以前である」ことを表わす点にすぎません。と言うのも変化は、それがたまたま表記されて明らかになった時点よりもずっと前だったかもしれない(し、通常ずっと前である)からです。他方、変化は最初、ギリシア語圏の特定の地域においてたどることができます。われわれは「沈黙に訴えるkata; to; siwpovmenon」ことで、他の場所では変化が起きなかったと仮定することもできませんし、その反対を主張することもできません。その変化は、空間的にも、また、いわば垂直的にも、つまり全社会階層にということですが、伝播するのに時間がかかる孤立現象かもしれないし、そうでないかも知れません。教養ある少数派がある言語学的特徴に影響を与えたかもしれないし、またそれが普通には使われなくなってから何世紀も注意深く保存したかもしれません。

音を転記するときに私はシンプルなラテン文字を使わねばなりません。別記なき場合には母音は「大陸における音価」を、子音は英語における音価を与えてあります。

 

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単母音

α,ο,ω,ι,εで表わされる母音のギリシア語におけるもともとの音は(長短と細かい性質上の陰影を別にすれば)、大まかにa, o, i, eとして記述することができますが、それは現代ギリシア語においても実際上変わっていません。しかしそれらは固定した音の長さを失っています。この変化は重要で、もう一つの重要な変化、つまり高低アクセントから強弱アクセントへの変化と厳密に相関していますが、個々の音の研究の範囲を超えているので、後で考察することにします。声音に関しては、ηとυだけに目立った変化がありました。どちらもi音に変わったのです。

現代ギリシア語のηは、共通ギリシア語(それと印欧祖語)の長い開母音eと、イオニア・アッティカ方言に固有の長い開母音e(多分先史時代の共通ギリシア語の長いaに由来していますが)の両方から帰結する音を表わしています。この開母音のeは、非常に古くから、徐々に閉母音のeへ変化し、紀元前五世紀にはテッサリア・ボイオティア(通常ειと表記されていますが)、イオニア・アッティカの両方で最初にその痕跡をたどることができます。それから、このプロセスは広がって、テラ、メッセニア、アルカディア、デルフォイ、レズボスの碑文にも現われます。(詳細と文献についてはSchwyzer Griech. Gram. pp.184 sq.参照)アッティカではη(どちらの由来のものも)は本来ε(オリジナルの閉母音のe)よりも狭かったことは、以下の考察から分かります。既に、アッティカの民衆語では紀元前五世紀にはηとεの長さの違いは失われていたことが確認されています(Meillet, op. cit. p. 204)。だが両者の発音は同じではあり得ませんでした。そうだとすると両者のその後の展開は異なったものにはならなかったでしょう。実際、εは今日でも本来のe音を維持していますが、ηは紀元前150年頃にはi音になりました(Schwyzerによる音韻変化年表参照。op. cit. pp. 233)。だから、ηはεよりも狭いと推論できます(cf. Pernot, op. cit. pp.129-130)。この推論は、五世紀アテナイの民衆語においてすでにη音は閉母音になっており、現在と同じi音になっていたという事実によって確認できます。これは、boi?bohqei'nの最初の音節が同じ発音であることに依存しているアリストファネスの地口(『平和』925-927)から分かります(語り手が奴隷であることに注意)。それでも、教養あるアテナイ人の発音だとηは一定期間は閉母音にせよe音であり続けたようで、さもないとクラティノス(断片43)もアリストファネス自身(断片642)も羊の鳴き声にbh'の語をあてなかったでしょう(ヘシュキオスの辞書に出てくるbhbhvnという羊ないし山羊を表わす擬声語も参照のこと)。上記の引用から考えると、(Dr. AtkinsonがGr. L. p.30で行なっているように)羊が開母音のe音で鳴くから、ηは五世紀アッティカで開母音のeだったと推論することは勿論できません。二人の詩人は開母音のeを用いることができず、利用可能だった二つの閉母音のeのうち、羊の鳴き声を正確に再現していなかったとしても、当然ながら長い方、つまりηを選んだのです(ルイス・キャロルだって同様に白の女王に"better, be-etter"と言いながら羊に変身させています。英語の音声学者はbetterのeが閉母音のeだと述べているのですが)。五世紀の教養あるアッティカの話し言葉ではηは閉母音のeの長音であり、民衆の話し言葉ではそれは現在の音価であるiに移り始めていたと仮定できるでしょう。この音価はアッティカでは紀元前150年頃には一般的になり、紀元の前後ではηの「近代的」発音はギリシア全体に拡張しています。

ηの音の発達の主流はこのようなものだったのですが、ギリシア語の発達に関しては「主流」とは常に全くの抽象なのです。実際の進歩は常にもっと複雑で連続的です。特定の変化、ないし相関する一連の変化は、ギリシア語では常に生成途上にあり、決して最終的に完成したり確立したりされません。既に、アテナイの奴隷にとって紀元前五世紀にηがiだったのは見ました。しかし、ポントスのギリシア人農夫にとっては、またカッパドキアの一部の農夫にとってもηはいまなおeなのです (Schwyzer pp. 87, 186, Dawkins, M.G. in Asia Minor p.69,  Thumb in Class. Q. 1914, p. 182参照)。外の力の介在−小アジアのギリシア住民を絶滅させたトルコ人−だけが、変化プロセスを突然中断させ、最終的に完了させたのでした。変化のゆっくりとした連続性、最も近いものと最も遠いものの共存と相互作用が、ギリシア語の主要な特徴です。この点の一番印象的な実例は、まさにこれから考察する別の場合によって提供されるでしょう。

υで表わされる母音は共通ギリシア語では(印欧祖語と同様)uでした。そしてこの音価は、ヘレニズム時代の初頭まで多くの方言に保たれていました。しかし、イオニア・アッティカ集団では、ηの場合と同様、かなり以前からυも閉母音に変わり始め、フランス語のuやドイツ語の氓ノ近い音になって行きました。イオニア・アッティカ語でのこの変化は先史時代に遡り (Schwyzer, p. 183)、Meilletが指摘するように(Bull. Soc. Liag. Paris, 1924, p. 75) 、それは、もともとの長いaをηに狭めたのと同じ傾向の現われでした。それはこの方言の基本現象であり、ギリシア語の後の発展にとって重要な結果をもたらしました。アッティカではυの新しい音価はテキストの伝承が始まるときにはすでに確立された事実でした。ここではυは最初期の碑文に登場しますが、常にカッパが先行し、決してコッパに続くことはありませんでした(コッパは後舌母音とだけ結合する記号です)。だから、幾つかの同化の事例を考え合わせますと、υは前舌母音であってもはやuではないと推測できます。長い間この変化は当該の方言だけに限定されており、そこでもきわめて一般的とは言えませんでした。西イオニア地域はもともとの音価を保持していたようで、それは例えば、υがコッパと結合しているのが見いだされるエウボイアの碑文からわかります。それ以外の方言ではυの音価は(幾つかの一時的で、散見される変種を別にすれば)、変わらないままでした。υの新しい発音が初めて一般的になったのはkoinhv(コイネー)によってであり(ここにもアッティカ・イオニアのηと類似の状況が見いだせます)、それもすぐ二ではありません。初期ヘレニズム時代の碑文はこの点では混乱しており、υの二つの音価の併存を示しています。

しかし、υのそれ以上の展開はいつ生じて、現在のような平唇のi音になったのでしょうか。この点について我々の情報は曖昧です。Pernot (p. 140)によると、新しい発音は、紀元後10世紀まではそれほど一般的になりませんでした(この頃に関しては外国の旅行者の証人がいます)。変化が最近であったことを、Pernotはスイダス辞書(11世紀)の単語配列から推論しています。そこでは言葉は最初の文字にしたがって配置され、似たような音の母音は一緒にまとめられていました。さて、υはi音を持つ母音には含められていません。だがこれはそれ自身では決定的な証拠ではありません。スイダスにだけ見いだされる特定の単語配列は、実は、今では残っていないもっと前の文法学者や辞書編集者から受け継がれたものかもしれないからです。他方、Thumb (Cl. Q. 1914, p. I87) は、紀元後5世紀にはギリシア語の発音はすでにυの二つの音価に分割できることを示しました(上述論文では、紀元後五世紀のギリシア語の状態をThumbはその現状から、純粋に文献学的な方法で、つまりテキスト上の伝承とは独立に再構成しています。だが、伝承も、利用できる範囲では、彼の推測を確認しているのです)。ですから我々は、υの音価の最終的な固定の年代を非常に大まかに位置づけることで満足せねばなりません。つまり、紀元後5世紀と10世紀の間なのです。

しかしここでも、ηの場合と同様、実際の進展はこの要約から思われるよりもずっと複雑です。イオニア・アッティカ方言では本来の音は早くも紀元前8世紀には変化したのですが、それは現代のツァコニアでは今なお無傷のままです。この言葉は古代ラコニア方言の末裔なのです(Hatzidakis, Einleilung p.8参照。もともとのu音が生き残っている他の地域の多くの個々の事例−pp. 103.sqqに−関しては注意が必要。それらはそもそも「生き残り」ではなく、別の説明があります。)。

二重母音

二重母音はすべての印欧語で非常に不安定な要素であり、ギリシア語も例外ではありません。時期は異なれ、ギリシア語の二重母音はすべて最後には単純母音になり、Meilletの言葉を借りると、「紀元後の数世紀で、ギリシア語では印欧語の二重母音はもはや残っていなかった」のです。

しかしながら、共通ギリシア語では、二重母音のシステムはその親言語(parent language)のシステムをかなり良く表わしていました。第一要素が長い二重母音だけが、語尾の場合を除いて(第一要素が短いものと合体して)すでに失われていたに過ぎません。それ以外の位置ではそのような二重母音はかなり稀であり、生じたときは常に、ギリシア語内部で形成された最近の結合です。ギリシア語に見いだされる第一母音が長い四つの二重母音のうち、ηυはευやαυに似た発展を示しているので、それらと一緒に後回しにすることにします。残りの三つには全く別の展開がありました。それらの単母音への変化は、(第一要素が短い二重母音のように)二つの要素が一つの母音に融合するという形をとらず、端的に第二の要素が排除されると言う形を取りました。その三つとは「下書きのイオタ」のついたαηωです。しかし古代の人々は「下書きのイオタ」を知らず(この習慣は紀元後七世紀に始まりました)、彼らはただイオタを長母音の後においたのです。それでも、第二の要素が実際の発音から排除されるようになったのは非常に早かったのです。a/に関してはこの変化の痕跡は紀元前五世紀に、レズボスとテッサリアの碑文に現われ、紀元前四世紀にはアッティカにも現われました。h/w/については同じ痕跡は六世紀の小アジアのアイオリスや四世紀のアッティカに見いだせます。紀元前二世紀末には、「下書きのイオタ」は概して発音からも表記からも消えているようです。紀元後一世紀にストラボン(14.1.41)が、人々は与挌をイオタなしで書くと言うとき、彼は明らかにそれを、既に音声上の支えとなる現実を失ってすたれてしまった綴り上の慣習と対比しているのです。だから、古典テクストを読むときには、我々は「下書きのイオタ」を発音せねばなりません。それを無視しても無害なのは紀元後のテクストに限られます。

ει,ου,αι,οι,αυ,ευ,υιの二重母音が残っています。最後のυιはギリシア語の中で形成され、比較的稀にしか出現しないので、かかずらう必要はありません。アッティカでは一時的にιが失われ、それは何の帰結ももたらさなかったのですが、その点を別にすれば、υιはυの発展を後追いしており、この二重母音の音価はどの時代においても程度の違いはあれ、第一要素から決定できます。

eiの音価を持っていたオリジナルな二重母音ειは非常に早くに単母音に変わります。これは以下の事実から明らかです。ギリシア語には、縮約によって新しく生じた別の音があって、それは最初から単母音であり、非常に狭い長いeの音を持っていたことが(BrugmanとG. Meyerによって)証明されています(Schwyzer, p. 193での議論の要約を参照)。最初、この音は長母音だったにもかかわらず、例えば(basilei'"の代わりに)BASILESというように、εで表記されました。ある時期(場所によって違います)から、それはειで示されるようになります。この二種類のει(偽の二重母音と本当の二重母音)はどちらもあらゆる点で全く同じように扱われます。このことが示すのは両者が同じ音、長い閉母音eになったということです。この変化は最初コリントスで(紀元前七世紀に)、それからアルゴス(六世紀)で、またほぼ同時に、ただし最初は散発的に、アッティカで生じました。五世紀のアッティカではこの変化は一般的であり豊かな証拠によって証明されています。それでも、古いアテナイの消えゆく精神に忠実だった詩人アイスキュロスを読むときには、多分二つのειを厳密に区別する、つまり、縮約から生じたειにはeの音を与え、もう一方には古い二重母音の音価を与える方が望ましいでしょう。しかし、ソフォクレスでもこの区別を正当化することはまずできませんし、いわんやエウリピデスではそうです。彼らのειは常に、長い閉母音のeです。

発展のプロセスはここで終わったわけではありません。e音価とならんで、ειは既に、五世紀アッティカで散発的にi音価もとるようになります。他のところではこの段階に既に到達していました。ボイオティアとアルゴリスではこの世紀の初めにはειは既に現在のような音価になっていました。新しい音価がギリシア全体で一般的になった年代については、紀元前三世紀と二世紀の見解が分かれています。

ουの歴史もほぼ同じです。ここでももともとの二重母音のουはouであり、単母音になったのは母音融合の結果です。非常に狭いoは、最初οと書かれ、後にουになりました。二つのουは発音上も同一視されるようになり、uの音価に向かってともに変化が始まりました。このプロセス、つまり異なった起源の二つの音の同一視のプロセスは、ここでもコリントスで(紀元前七世紀に)始まり、それから六世紀末にはアッティカでも生じました。本来のουと同一視されるようになった「間違った二重母音」は、既に見たように、最初長い閉母音のoでした。それらはいつuになったのでしょうか。我々が知っているのは、四世紀にはουはすでにuだったということです。ボイオティア人が、その方言を転記するのにアッティカのアルファベットを採用する際に、自分たちのu音を表わすのにこの記号を用いていたからです(彼らはυを用いることは出来ませんでした。アッティカではこの記号はy(訳注、原文のuウムラウトの代用にyを用いる。以下同様)を表わしていたからです)

ouから閉母音のoへの移行は、英語の"no"におけるoの音に似た(つまり、第二の要素がとても短い二重母音)中間段階をたどることになります。ουの進化はこの段階では、当該の英語の音の進化に平行した、しかし反対のプロセスを表わしています。英語では閉母音のoが"no"に見いだされる二重母音に発展し、ギリシア語では同様の二重母音が閉母音のoに発展したのです。

問題は、アイスキュロスを読むときにουにどんな音価を与えるべきかという点です。(古い二重母音にoの音価を採用することから知られる)二つのουの混同の最初の痕跡はアッティカでは六世紀の最後になってはじめて現われるので、uの音価の採用はほぼ排除されます。ouからoへ、それからさらにuへの移行はとても半世紀ほどで完了し、一般的になったとは思えません。そうすると、二つのουをアイスキュロスでは同等に扱い、両者ともに長い閉母音oの音価を与えるべきでしょうか。そうするのはためらわれます。でもそれが正しい解決ではないかとは思われるのですが。アッティカの碑文で両者の混同が最初に現われる年代は、それ自体では何も示してくれません。古い発音はエリートの間では残っていたのかもしれません。しかし、アイスキュロス自身にも、混同の兆候があります。属挌のbou'は明らかにnou'"群との類推から形成されたのですが、そこではουは常に母音融合の結果でした。もし、主格のbou'"(二重母音は本来のものです)とnou'"などの語群とがアイスキュロスにとってちょうど"bous"と"no:s"(訳注、原文のmacron付き母音の代わりに:を用いる。以下同様)のように異なった音だったら、属挌形のbou'が生まれることはなかったでしょう(Pernot, p. 136参照)。/P>

aiがaeという中間段階を経由してeになるという変化は、印欧諸言語に共通の現象です。ラテン語でもrosai > rosae (前三世紀) > rose:(前二世紀の民衆語)です。これは、共通ギリシア語のaiから現在のeへの二重母音の変化と全く同じです。αιを表わすαεの表記は、五世紀末からしばしばタナグラとプラタイアの碑文に見いだされました。これで示されるのは、ここで既にae段階に移行していたことです。次の段階にボイオティアが移るのは、約一世紀後です。ここでもまた、ボイオティア人によるアッティカアルファベットの採用が証拠を提供してくれます。証拠は、ボイオティア人が自らのαιを表記するのに用いたηの文字です。これは同時に二つのことを示しています。1)ボイオティアではαιはすでにe音の単母音だった。2)アッティカではαιはまだ二重母音を表わしていた(だからこそボイオティア人は自分の目的のためにαιを使うことが出来なかったのです)。アッティカは、普通音声変化の先方にたつのに、αι(それとοιも)の扱いに関しては後方にいたのは興味深い事実です。前300年頃のアッティカの碑文は時にαιとαの混同を示しています。これはαιがすでに単純母音、たとえば英語の"cat"のaのように、eに推移する途上のaだったことを示しているのでしょうか。否。同時代の碑文に見られる異化作用(dissimilation)は、それがまだ本来の音価を維持していたことを示しているからです。実際この改革を採用したのはアッティカが最後であり、エジプトのようにボイオティアからとても離れた地域でも、パピュロスはαιとeの混同の兆候を前四世紀には早くも示しており、150年ころには新しい音価はアッティカを除いて至るところで一般的になっていました。アッティカではαιのe音が最終的に固定したのは後二世紀のことだったのです。

οιがoeを通過してyになった変化はαιがeになった変化と全くパラレルです。ボイオティアでは五世紀にはοι=oeでしたし、ボイオティアとクレタでοιのy音価は前250年頃までたどることが出来ます。前150年頃にはエジプトでもそうでした。ギリシア語地域の中での、これほど離れ、言語学的にも異なった地点でのこの現象の成立は、この変化が全般的になったことを示唆しています。アッティカだけが後三世紀まで二重母音οιを保持しており、これはαιの場合よりも長かったように思われます。それ以降はοιもυも同じ音、yをあらゆる場所で表わすことになります。

このyが非円唇化してiになるのはこの二つの表記で同時だったに違いありません。υを扱うときに、この非円唇化の正確な年代は難しく、後五世紀から十世紀の間のどこかに置かれねばならないことを見ました。

αυとευは独立のグループになります。それらも、それ以外の二重母音と同様、二重母音ではなくなりますが、その第二の要素は最初のものと融合して単母音になるのではなく、有声子音と母音の前では有声の唇摩擦音vに、無声子音の前では無声のfになります。かくしてαυとευは現代ギリシア語ではそれぞれ位置に応じてav, af, ev, efに発音されます。稀少二重母音ηυもこの例に倣い、最初の要素はηの発展に従い(つまり紀元前後にiになり)、第二のυはαυやευの場合と同時にまた同じ位置でvとfに変わります。それは、かくして現在のギリシア語の音価ivないしifになりました。

この変化はいつ起きたのでしょうか。話しにくい問題です。(特にコリントスで)前六世紀から五世紀の碑文にしばしば見られたα(ないしε)+ディガンマは何も語ってくれません。Schwyzerが正しく言及するように(p. 97)、ディガンマはここで単に、シラブルを作らないuとして現われているにすぎないからです。しかし、現代のαυとευの音価は前三世紀前半のボイオティアの碑文(オルコメノスとテスピアイ) には明確に現われており、また、ほぼ同時にスミュルナにも現われています。少し後にはエジプトにも現われ、また、散発的にではありますが、ギリシア語圏の他の地域にも見いだされます。また、EPISTEFSE(=ejpivsteuse)も善に世紀のデルフォイの碑文に見いだされ、この現象との関係で論じられますが、ここでのこの表記はきわめて孤立したものです。ある程度の留保はあるものの、新しい発音が一般的になったのは紀元後数百年でしょう。ともあれ、後五世紀までには、当時のギリシア語の状況についての上述のThumbの再構成から示されるように、新しい発音は一般的でした。

方言上の特徴を脇に置いておけば、現代ギリシア語の母音発音の全体は以上の概要でカバーできます。というのも、ここで取りあげた個別の音は、一つの例外を除きあらゆる位置・組み合わせでその音価を保つからです。例外はιで、アクセントがなく後に母音が続くときには、シラブルを構成するという性質を失い"yonder"のyのような半母音になるのです。

  *   *   *

我々が検討した主な変化は次のように要約できます。

本来の音価

移行期

最終

現在の音価になった時期

1

η =長・開 e:

長・閉 e:

i

後一世紀

2

υ = u

y

i

後五世紀〜十世紀

3

a/, h/, w/

長 a, e, o

a, i, o

後一世紀

4

ει = ei

長・閉 e

i

前三〜二世紀

5

ου = ou

長・閉 o

u

前一世紀

6

αι = ai

ae

e

後二世紀

7

οι = oi

oe, y

i

後五世紀〜十世紀

8

αυ = au

ao?

av, af

後一世紀

9

ευ = eu

eo?

ev, ef

10

ηυ = eu

iu, io?

ov, of

年代に関しては、この表から、現代ギリシア語の母音システムは(υとοιで示される)u:の非円唇化という小さな細部を除いては、紀元の変わり目頃には既に充分に出来上がっていたことが分かります。この非円唇化はビザンティン時代に生じたのでした。

番号2、3、4、7はまとめて、「イオタ化」として知られる重要な現象を形成しています。これは様々な単純母音と二重母音が一つの音価iに還元されるプロセスで、iは現代ギリシア語の母音組織の特徴をなしている音です。この現象が既に前七世紀に、ειがコリント方言で閉母音のeになり、すぐにアッティカでもそれに続いたことによって始まったのは既に見ました。そしてほぼ同時に、ボイオティアではειはその最終状態のiになっていました。他方、ギリシア語世界の様々な地点で、他の変化が既に始まっていました。それらは皆同じ方向に働きかけていたのです。我々は、ηが徐々に新しい音になり閉音化し、最終的に無数のローカルな発展と変化の過程が収斂してその最終的な音価に到達したことを、様々な時代にまた様々な言語媒体と表記のずれを通して見てきました。この場合もその音価はiだったのです。υとοιが中間に共通のyの段階を経て進んでいったのもまたiだったのです。この音が遅ればせにも非円唇化したときいにやっと十五世紀前に始まったプロセスが完了したようです。言語の表面をとればこの方向への運動はずっと前に死に絶えたように見えるのですが、実際にはそれは完了したわけではありません。このプロセスは、−ちょうど始まったときと同様、地方的になのですが−まだ続いており、再び爆発して共通語に新しい変化をもたらすのを待っているのです。「イオタ化」の最終段階を観察するには現代ギリシア語方言に向かわねばなりません。それは大まかに二つの北方と南方の二つのグループに分かれます。(トラキア、マケドニア、テッサリア、北部諸島、エペイロスなどの言語を含む)北方方言では当該の現象は極端な形になっています。ここではアクセントのないeはすべて(つまりεもαιも)iになっています(これに対応する同様の性格の他の変化も観察できます。アクセントのないiとuは、数が減ったり除去されたりし、アクセントのあるoはuになります)。

さて、この興味深い現象に現われているのはどんな傾向でしょうか。それは言語の基本的傾向、25世紀間やむことなく作用してきた傾向に違いありません。生理学的に言えば、それを構成する変化はすべて、母音を前で(前舌音化)、より高く、狭く(閉母音化)発音する運動を明らかにしています。つまり、前方・高方への調音点の移動と、音を形成する舌の上の通路(superglottal passage)を狭めることによる共鳴腔(resonating cavity)の縮小です。生み出される音の品質から考えると、この事実は、常により高く、軽く、鋭く、狭い母音を発しようとする傾向として記述できるでしょう1

1 今日のギリシア人にとって、北方民族の言葉の「豊かさ」は驚きです。「お国ではみんなそんなに沢山の声を持っているのですか?」と一度聞かれたことがあります。だが、彼らの高い、うすい声も我々にとって同じくらい驚きなのです。

このように定義するならば、この現象は「イオタ化」といまや相関させることが出来る他の事実にも現われているより一般的な傾向の特殊な(明らかに最も印象的な)表出として現われてきます。事実、調音点articulation-baseの上方・前方への移動、鋭く狭い音の愛好は、我々が検討した二つの別の変化(ou>uとai>e)にも、テキスト伝承に先立ち、遥か先史時代に遡るためまだ検討しなかった第三の変化にも現われています。それはつまり、印欧祖語の長いaのeへの変化であり、それがイオニア・アッティカ方言と爾余の古代ギリシア方言の分水嶺になっているものです。それはまた、ギリシアに侵入してエーゲ海文明の住民になった最初のギリシア人と、北方の草原・高原地帯に何世紀もの間留まり、後になって初めて地中海への道を見いだした他のギリシア人との分水嶺でもあります。イオニア・アッティカグループがそれ以降のこの種の母音変化のほとんどすべてにおいて指導的な役割を果たしていることもまた、この点に関して重要です。既に、ボイオティア人とコリントス人、特に前者がギリシアの母音発音の再構成に関して果たした役割も見てきました。さて、アイオリス語のボイオティア地域での非常に特殊な発展(なかんずく、母音発音の特に「進んだ」状態によって特徴づけられる)は、言語的にもまた民族的にも強力なイオニアの基層の活動によるものです。コリントスでも、住民の本来の基盤はイオニア人なので、同様の事実が観察できます。ボイオティアとコリントスにおけるイオニア的基層の存在は、豊かで多様な証拠に現われているものの、今日まで気づかれないままでしたが、ここでは全く場違いであり、長い議論に乗り出すことは出来ません1

1 読者に私の博士論文『紀元前13世紀のテッサリア』(近刊)を紹介しても良いでしょう。そこでは「北方イオニア語」とその分配が詳しく論じられています(特に「アイオリダエ」、ミニュアース人、ポセイドン・ヘリコニオスについての章)。

他方、ドリス語は(コリント語という重要な例外を除いて)、音声上の改革の後衛におり、イオニア・アッティカ語とは言語学的な対極を表わしており、新しい環境に長い間影響されなかったギリシアへの最後の移住者の言葉でした。そして、本来のu音が、別の場所では二つの連続的な変容を被ったというのに、何世紀もの間北方の精神・習慣・血を守り、地中海との合金を免れていたスパルタ人の言葉であるラコニアのドリス語の直接の末裔であるタスコニア語の間では今日まで変化していないままなのは偶然ではなりません。

さて、いま原ギリシア語の母音体系を印欧祖語の体系と較べるなら、いま検討しているプロセスを洩らしてくれる現象は一切見いだせません。ギリシアの母音体系をその親言語から隔てる変化のどれ一つをとっても、我々は「前方化・上昇・閉音化」傾向の作用を識別することは出来ません。αのηへの移行はまさに最初の現われであり、これはギリシアへの最初の侵入者がエーゲ海地域との接触する差異に生じたのでした。この傾向はしたがって、数の上では優勢なエーゲ海原住民の言語的影響に違いありません。そしてその増大する行動は、原住民と侵入者との融合に一致しており、侵入者の段階的な「地中海化」を表わしています。最初の段階ではそれは、我々がその完全さにおいて「ギリシア文明」と呼ぶ、北方と地中海的要素の特殊な混合の、音声レベルでの現われなのです。

丸天井の墳墓が築かれ、「海の人々」の間に不安が支配していた時代に初めて生じたのですが、その力はやむことなく働き続け、今日見いだされるようなギリシア語の母音体系の主要な特徴を生み出したのです。

   *   *    *    *

 いままで我々は母音変化を「前方化・上昇・閉音化」のプロセスを表わす限りで考察してきました。しかし同じ変化は別の全く異なった傾向の働きも表わしています。それはたとえ初期においてであるとしても他の言語媒体との接触を通じて獲得されたものではなく、ギリシア語の本質そのものに固有のものであり、ギリシア語の親言語からの区別をある程度決定せねばならなかった傾向なのです。

原ギリシア語の母音体系を印欧祖語から区別するものは厳密にいって何なのでしょうか。

  1. 単母音の幅の縮小。これは、曖昧母音schwaの除去(短いaへの転化)と、シラブルを形成する一連の自鳴音と流音の除去(ギリシア語ではαρ、ρα、αλ、λα、αで代用)から成り立っています。
  2. 二重母音の範囲の縮小。
    a) schwaを最初の要素とする二重母音はαι、αυに変わる。
    b) 長い第一要素を持つ六つの二重母音はすべて消滅する(短い第一要素のものと融合)ただし、語末においてなお生き延びた三つを除く。
  3. 語の内部で、子音によって分けられない(守られない)母音のしばしば見られる蓄積。これはギリシア語での母音間のsとjの完全な消滅による(その後すぐに、イオニア・アッティカ語でのディガンマの消滅が続く)。このことの帰結をこれから見て行きましょう。

1と2から、母音体系の単純化と統一がこの言語のまさしく起源を特徴づけている用に思われます。我々は同じプロセスを、子音の扱いの検証と、ギリシア語に固有の屈折体系の形成にも観察するつもりです。母音体系に関していうと、それが親言語と異なったものになったのは、様々な母音や二重母音を一つの音価のもとに統合したからであるのは明らかです。それ以降の展開はこのプロセスをさらに進めただけです。

でもこれだけでは余りにわずかしか語っていません。すべての印欧言語はこのようにして生じました。つまり、親言語の当初の複雑さを平準化することで生じたのです。ギリシア語に関して、この統合が進んで行く、この言語に固有で独特の方向を示さねばなりません。ある程度は、この方向は後になって初めて、既に検討した「前方化、上昇、閉音化」傾向によって与えられたのです。しかし他の側面では、それは、ギリシア語が最初にギリシア語になったときに既に確立していたのです。例えば、長い第一要素を持つ印欧祖語の二重母音を取りあげましょう。それらの三つが除去され、残り三つの発現が厳しく制約された後、次の段階、つまり後者の完全な亡失はもはや既定のことです(これが先ほどの母音変化の表ではNo.3に位置します)。また我々は、αυ、ευ、ηυの進化のうちに、母音としての発音がそれに対応する子音に移行することで排除されたのも見ました(表の8、9、10)。同じ手続きはある程度、二つの印欧祖語の母音(母音性のrとl)の元々の排除によって予示されています。これらも対応する子音としてギリシア語では現われたのです。

しかし、この点で興味をひき、重要なのは第三のポイントです。ギリシア語は母音間のsとj(英語の語頭のy)を最初から排除し、この点では印欧諸語のなかでユニークです。この二つの子音の消滅は、原ギリシア語の他の特徴よりもさらに、ギリシア語の母音体系のその後の発展を規定しています。そしてこれは並置され「カバーされない」母音の様々な融合(約音)に帰結します。異なったシラブルを形成する音が、一緒に発せられて一つのシラブル、一つの音になったのです。それから、元来母音間のsとjの亡失によって始まったこのプロセスはディガンマ、w音の消滅で完成します(イオニア・アッティカでは歴史時代以前のことです)。かくして、母音間の障壁はさらに一つ倒壊し、母音融合はさらに勢いを強めます。

でも、このプロセスがギリシア語の最初の起源から予め定まっていたとしても、その作用はゆっくりで、この言語の歴史全体を満たしています。母音間の障壁が取り去られたがそこから帰結する約音はまだ平準化を始めたばかりの頃の共通ギリシア語の母音体系がどのようなものだったのか、ある程度推測することは出来ます。その状態をいまなお呼び起こす何かをほのかに伝えてくれるのはホメロスの言語です。ここでは、約音化された形とともに、まだ約音化されていない形も嬉しいほどたくさんあります。これらでは、子音によるダムは流されてしまったのですが、母音はまだ一緒にはなっておらず、流動的で、連続的な母音の流れ、一つの母音から次の母音へのゆっくりとした、自由な滑走があります。これはギリシア語の歴史の中の偉大な、だが一時的な瞬間でした。ホメロスの母音発音の魅力を構成しているまさにそのものが、その将来の崩壊の芽になっているのです。そして崩壊は既に約音化された形のうちに明らかです。

最初期のアッティカのテクストでこのプロセスのずっと進んだ段階に我々が出会います。変化はいたるところで進んでいます。古い二重母音が崩壊しそこから帰結する母音が、元々の二重母音と同様、「前方化・上昇・閉音化」の働きによって閉母音になって行く一方で、母音融合は休みなく、豊かな母音の並置を平準化して行きます。この並置は、二重母音や単母音になることで、自分が最初の傾向に捉えられさらに形づくられることになるのです。その例として既にειとουを見ましたが、そこでは二つのプロセスが出会い結びついています。両者ともギリシア語の母音発音を紀元後一世紀に到達した状態、つまり現在の状態へと導くものでした。