とりあえずChim↑Pomのアレはまっとうな芸術作品だ

アレ、というのは渋谷駅にある岡本太郎の「明日の神話」へ彼らが行った「いたずら」のことだ。新聞から引用すると、「壁画は縦5.5メートル、幅30メートルの大きさで、1日夜、壁画の右下部分に縦80センチ、横2メートルの板が貼り付けられているのを警視庁渋谷署員が発見し、撤去。壁画に損傷はなかった。同署は軽犯罪法違反容疑などで捜査している。板には原子炉建屋とみられる建物が四つ描かれており、グループは福島第1原発事故をイメージしたと説明している。(時事通信05/18)」

その絵は一日後に撤去されたが、彼らは同じ作品を別に作り、今個展で展示中だ。私は美術批評は出来ないので、作品の評価を云々することはしない。でも、この行為が現代の芸術活動としてある意味正統のものであることは確かだ。しかし、この行為を「芸術ではない」とみなす意見があるようで、主要な議論は次の四つに分けられると思う。それらについて簡単に考えを述べておきたい。

(1) これは犯罪であって芸術ではない。
(2) これは彼らの売名行為であって芸術ではない。
(3) 岡本太郎の作品に寄生している。
(4) こんなことが芸術だった時代もあった。でももう古い。

(1) 犯罪であって芸術ではない。
勿論、この行為はおそらく犯罪だろうし、処罰されるかも知れない。グラフィティ・アートは多くの場合非合法であり、人々の気に入られなければ処罰は常にあり得ることだ。ストリートアーティストたちのドキュメンタリーと称する映画Exit Through the Gift ShopでもInvaderだったか別のアーティストだったかが捕まりかけたりした場面があった。犯罪かどうかは行為の芸術性とは独立だ。勿論、芸術と称する犯罪がすべて芸術になるわけでないことも確かだ。

(2)売名行為であって芸術ではない
個展が今開かれていることから、これが彼らの売名行為だという批判もあり、その側面はもちろんあるだろう。でも、歴史上、行為の売名性がその芸術性と相反していたことの方がむしろ稀だ。有能なアーティストもそうでないアーティストも同様に、自分たちの作品を認めさせようと必死で努力するのは良くあることだ。そうでなければ山ほどの芸術のマニフェストが現れる筈がない。

(3)岡本太郎の作品に寄生している。
つ アプロプリエーショニズム。ある作品、作家、潮流への寄生は、意図的になされており、そのことが何らかの形で明言されている限りで現代芸術においてとてもまっとうな行為だ。寄生を隠しちゃダメだけれど。もっと破壊的な寄生作品もあって、その一つはアイウェイウェイの「漢時代の壺を落とす」だし、もう一つはラウシェンバーグの「消されたデ・クーニング」だ

この行為は、一方で原発事故に、他方で岡本太郎の作品およびその提示のされ方と密接に結びついたものであり、「その時そこで」しか成り立たない行為だ。

この点に関して面白かったのは「岡本太郎記念館」館長さんと、「明日の神話保全継承機構」担当者氏のコメントだった。
JCASTニュースの記事から引用「 岡本太郎記念館の平野暁臣館長は朝日新聞に「繰り返されたら困るが、単なるいたずらではなく、芸術としてやろうとしたのではないか」とコメント。一方、 NPO「明日の神話保全継承機構」の担当者は東京新聞に対し「とんでもないいたずらで迷惑している。多くの方が苦しんでいる中で(原発問題と)結びつけら れるのは困る」と否定的だった。」

新聞のコメントは二項対立で構成するものだし、どこまで実際の言葉を反映しているのかは分からないけれど、このコメントが発言者の言葉の正確なまとめだったとすると、アートを研究する人と、ある作品を保全し継承することを目的とした機関の担当者との立場の違いがはっきりしている。ひょっとしたら、Mark City内部空間を装飾的に彩るこの作品の提示のされ方への異議を彼らの行為に認めたのかも知れない。このNPOの名前はとても興味深い。Chim↑Pomの行為は、岡本の作品へは肯定的な関係を、作品の提示のされ方には否定的な関係を示しているように思われる。そう言えば、この作品の渋谷への招致プロジェクト実行委員会の協賛企業には東京電力も入っていた。

(4)こんなことは60年代にもう山ほどされた。芸術と呼ぶには古すぎる。
芸術はもはやこの批判が想定するほどには、「歴史主義」的ではない。現代は適切な理論的文脈が与えられればどのような知覚経験を与えるものであっても「芸術」たり得る時代だ。だから必要なのは新しい知覚経験ではなく適切な文脈だ。ふさわしい状況で、まさにアーティストにしか出来ないという意味でふさわしい表現を行うこと、アーティストに求められるのは端的にそう言う活動である。

以上で、彼らの行為が芸術活動ではないという主要な批判に根拠のないことは示されたと思う。彼らの行為が芸術活動だという積極的な主張のためには、現在開かれている展覧会がいちばん良い根拠になっているだろう。この行為は、適切な時に適切な場所で行われたし、アーティストだけに可能な媒体と方法を用いており、強い、しかし簡単に言語に還元できないメッセージ性を持っていて、それは個展に展示された他の作品群と並べることでさらにはっきりする。

勿論「~は芸術である」は評価的ないし敬称的に用いられる言葉でもあり、あの「いたずら」が芸術でないと言うとき、人はそれはすぐれた作品ではない、という評価を下しているだけなのかも知れない。まあ、その話だとつまらないので(そう言う場合の評価はなかなか好悪以上のものにはならない)、そうでないものとしてここではとらえた。個人的には、震災後のアーティストのやるべきことの一つをやっていると好感を持ったのだけれど。特に、夕刊紙の性風俗中心の広告欄に携帯番号を掲載し、電話がかかってきたら何か電気がついて蒸気?がペットボトルの水から出る仕掛けで、私たちの欲望のあり方と原発を分かりやすく絡めた「エロキテル」と、原発建屋を見下ろすところに出向いて白旗にスプレーで原子力のマークを描くヴィデオ作品「Real Time」が気に入った。中央の円から描き始めるのだけれど、白地に赤い丸がまるでどこかの国旗のようで、おやこんな時間に誰か来たようだ……