「失われた時を求めて」・再読中

鈴木道彦訳が完訳で出ていたのを知らなかった。もう十年以上前から出ていた。

最新の訳は集英社文庫ヘリテージシリーズで、これだって三年以上前だ。前の井上究一郎訳がちくま文庫で出たときに全部買い、半分くらいで挫折したのが15年くらい前だっただろうか。

新しい訳はとても読みやすい。これで読み切れないなら読者の責任かも。これ以上読みやすくするのは無理かも知れない。

……

ちょっと考えてみた。

冒頭

わしはもう長いことはよ寝たもんやった。ろうそくの火ぃ消したとたんに目がふさがってしもて、「ああ、寝んねんなぁ」と考える間ぁさえないこともあった。せやけど、小半時もしたら、もうそろそろ寝なあかんと思て目ぇさめてまうねん。まだ手ぇに持ってる気になってた本をおいて、明かりを息で消そとしてまう。寝ながら、読んだとこのこと考えてたんやな。そいでもちょっとけったいなものに変わってしもてる。わし自身が、本に出てきた、教会やの、四重奏やの、フランソワ一世とカルル五世のいさかいそのものみたいな気ぃがしてまうねん。そんな気分が目ぇさめてから何秒か続いてるんや。そんな非合理なもんやないねんで。そやけど、鱗みたいに目ぇの上にひっついて、ろうそくが消えてることも忘れさせてまうんや。それからなんやわからんもんに変わって、そやな、生まれ変わったら前の人生のことなんか分からへんやろ、そんな感じや。本に書いてあったことは心から消えてって、気ぃつけんでもええようになるんや。そのとたん目が見えてな、まありが真っ暗なんでごっつぅ驚いてまうんや。気持ちええ優しい暗さ、心にとってはもっと気持ちようて優しい暗さやな。なんでかゆうと、暗いのんの原因もないし訳も分からへん、ほんまになんかぼやっとしたもんやて思てしまうからやな。いったい何時やろ、とわしは考えたもんや。汽笛が聞こえてきよる。小鳥の歌声みたいやで。遠なったりちこなったり、森の中で歌てるそんな小鳥。汽車がえらい離れてるんがよう分かるさかい、さみしい原っぱがばぁって広がってる気がすんねん。そいで、原っぱを旅行してる人が駅むこて急いでんねんな。新しい地所、慣れへん振る舞い、ちょいさっき知らん人の家の灯りの下で楽しぅ話してご機嫌さん言うてお別れしたんが、夜しーんとしてんのんでいつまでも心から離れへんし、家帰ったら楽しいやろなぁと思うと興奮してまうんで、いま歩いてる小みちは一生忘れへんやろな、そう思てる旅行者や。

プティット・マドレーヌ(長かった。「ママン」と「おかん」は響きが似てる、というつまらない思いつきの結果としては時間がかかりすぎた。おまけにこの箇所ではmamanではなくmèreだったし、訳語も「おかはん」に変更。)

こんな感じで長いこと、夜目ぇさましてしもてもいっぺんコンブレーのことを考えると、わしの頭ん中には、ごちゃごちゃした暗闇のど真ん中からぽこっと切り取られた光る壁みたいなもんが浮かんでくるだけやった。なんか、暗闇に溶け込んだ建物(たてもん)のちょっとだけが、ゆっくり燃えよるベンガル花火か電球に照らされてよそから浮かび上がってくる、そんな感じやな。その壁は下の方は広がってて、小さな客間、食堂、スワンはんは自分では気ぃつかへんうちにわしがしょんぼりする原因になった人やねんけど、そのスワンはんが来ぃはるぼやっと暗い道の始まりのところ、玄関がそこにはあったんや。わしはその玄関から階段の一段目の方へ歩いてった。心ずたずたで上がった階段がピラミッドのえらい狭い胴体部分やな。そんでてっぺんにわしの寝室があった。おかはんが入ってくるガラス張りのドアがある狭い廊下が続いとる。簡単に言うとやな、いっつもおんなじ時間に、それだけが、まあり全部から引き離されて暗闇から浮き出してきよるねん。それはわしの着替えのときの「悲劇」ののうてはならん大道具やな。昔の芝居やと、どさ回りで公演するときに、これだけははずさんといて、っちゅう大道具の指定するやろ、そういう大道具や。コンブレーって、一階と二階が狭い階段でくっついただけで、夜七時しかあらへんかったみたいやわ。正直、そらちゃきちゃき言わんかいって責められたら、わしかて、いやコンブレーには他のもんもあったし、他の時間もあった、そう答えまっせ。そやけど、わしがコンブレーのこと何か思い出しても、そら頑張って思いだした記憶、あたまでの記憶やし、そんな記憶は昔のことについて何か教えてくれるかもしれへん、そいでもそこには昔のもんは何も残ってへんから、わしはコンブレーの残りを思いだそなんて気にならへんかったやろな。そんなもんはわしにとって死んだもんやわ。
ずっと死んだままなんやろか。そうかもしれへんかった。
こんな話にはなんであれ偶然がぎょうさん入ってる。そのうち二番目の偶然はわしら自身が死ぬことやわな。そいでそのためにいっと始めの偶然をぼけっと待ってることも出来んくなってまう。
わしは、ケルトの宗教はそら尤もやと思てる。ケルト人は、死んでしもて奪われた人間の魂が、動物や植物の、それか命のないもんのなかに捕まってると信じとんねん。その魂はわしらにとってはもうのうなってしもた。ただし、わしらがたまたまその木のねきを通って、その魂を捕まえとるもんを手に入れるまでの話や。そんな日は来えへん人のんが殆どやけど、その日になると、死んだ連中の魂は大喜びで震えてわしらを呼びよる、そいでわしらがそれを「あ、おまえかい」と分かったとたんに呪いは消えてまう。わしらは魂を解放してやったんやな。そんで魂は死を克服して、よみがえってわしらと一緒に生きるねん。
わしらの過去も一緒やで。思い出そうとしてもあかん、無駄や。知性で努力しても意味ない。過去っちゅうんは知性の届く範囲の外の、手ぇがでぇへんとこにおって、思いもせんもんのなかに(それで生まれよる感覚のなかに)身を潜めとる。そういうもんに生きているうちに巡り会うかどうか、そら偶然や。
コンブレーのことは、寝るときのどたばた劇とその舞台しかのうなってからもう何年もたったあと、冬やった。わしが家に帰ってごっつ寒がっとんのをみて、おかはんが、いっつも飲まへん茶ぁでもちょっとしばかしてもろたらどや、って言いよんねん。わしは最初は「いらへん」って言うたんやけど、なんでか気ぃ変わったんや。おかはんは、「プティット・マドレーヌ」っちゅう丸こい菓子、貝柱の貝の貝殻、筋入りの貝殻で型とったみたいなお菓子を持ってこさせたんや。ちょっとたってから、今日も陰気やったなぁ、あしたもまた鬱陶しい日ぃになんねんやろなあと、そう予想するだけでげんなりしながら、わしはあんまり考えんと、茶ぁに浸して柔らこなったマドレーヌのかけらごと、紅茶をスプーンで口に持ってった。するとどや、菓子のかけらが混じった一口分の茶ぁが口の裏っかわに触れたとたん、わしはびびった。なんや自分の中で異常なことが起きてんねん。ごっつう気持ちええ。わけわからん、他となんも関係ない気持ちよさがわしの中に入ってきよる。そのとたん、人生でどんな辛いことにおうてもそんなんどおでもええわ、そんな災難に害なんかあらへん、人生が短いなんて錯覚ちゃうんか、そう思たんや。そやな、誰かに惚れると、なんかごっつ大事なもんでいっぱいになるような気ぃするやろ、そんな感じやな。いや、ちょとちゃうな。その大事なもんはわしの中にあるんやない。それはわしそのものやねん。わしは自分のことを、もう、たまたまこの世に出てきた、どおでもええ、いつか死んでまうもんやとは感じひんかった。どっからこの強力な喜びがでてきたんやろ。茶と菓子の味に関係はあるんやろ、わしはそう思た。でも、そんな程度のもんやないんや。おんなじ種類のはずがない。どっからきたねん?何の意味があるねん?どこでそれが分かんねん?ふたくち目をすすってみたけど、最初のよりましなとこはなかった。みくち目はふたくち目よりちょっと少なめや。もう飲むのは止めた方がええ、茶ぁの利き目は減っとるみたいやさかいに。わしが欲しかった真実、それは茶のなかにあるんやない、わしの中にあるんははっきりしとる。茶でその真実が目ぇさましよってんけど、茶ぁにはそれが何かは分かっとらへん。段々弱なりながらおんなじことを繰り返して言いよるだけや。それが何言うてんのかわしには解釈でけへん。ただ、それが言うてることをもういっぺん茶に言わして、そのまんま見つけ出して、あとで決定的に分かるようにするためにとりあえず手元に置いときたい、そんな証言みたいなもんや。わしはコップを置いて、自分の心を見つめ直した。何がほんまなんかを見つけるのは心やさかいな。そやけどどうやってみっけたらええねん。ごっつ不安になる。心の届かんとこまで心が行ってもた、そう感じるたんびいつも同じ不安が生まれんねんけどな。見つける役のはずの心がそのまんま真っ暗な世界になってもうても、その世界なかでまだ見つけようとあがく、いままで積み立ててきたことなんか何の役にも立たへん、そんな不安。見つけるだけちゃうねん。作りもせなあかんねん。心の前にあるのは、まだ存在せえへんなんかや。それを現実のもんにして、心の出す光を浴びさせることができるんは、心だけなんや。
ほいやから、もういっぺん自問してみる。わしの知らんこの状態は何やってんやろ。幸せな感じ、あんまりほんまもんの感じがして他のもんがすべて消えてしまうようなこの感じ。論理的証明なんかあらへんけど、明白に存在するのは示されとる。その状態をもいっぺん出してみたい。そやし、今度は頭ん中で、紅茶をスプーンですこた一杯目の瞬間に戻ってみる。同じ状態が見つかるけど新しい光が差してくるわけやない。もっと努力せんかい、逃げてく感覚をもいっぺん取り返してこんかい、わしはわしの心にそう叱咤する。心がびくびく動いてして感覚をもいっぺん取り戻そうとすんのが邪魔されんように、わしはすべての邪魔もん、関係ないすべての観念を取り除いて、隣の部屋の音が気ぃをそらさんように耳を塞ぐ。そんでも心は疲れてゆくばっかりで、全然目的に到達せえへん、そない感じたし、今度は逆や、無理しても気ぃ紛らせて、他のこと考えて元気を取り戻してもっぺん最後のトライや。それから、心の前を塞いどるもんをすっかり取り除いて、その前に最初の一口の味を置いてみる。そない昔のことでもないしな。どや、わしの内部で何かがびくっと震えよる。それが別の場所でよじ上ろとしとる。ごっつ深い水底で錨が引き揚げられたみたいななんか。何なんかは分からへんけどゆっくりと上がってきよる。手応えしよる。えらい長い距離を通ってその音が響いて耳まで届いてきよるんや。
わしの腹の底でこんな感じで震えてんのがイメージやっちゅうこと、つまり視覚的な思い出やっちゅうことは確かやろな。それがこの味と結びついて、この味の後に続いて、わしんとこまでやってこよとしとるんや。そやけど思い出がもがいとんのはあんまり遠いし、その姿はあんまりにもぼんやりとしとる。どうにか分かるんはその鈍い写しだけやけど、そこでは色がぎょうさんごたまぜで、渦になって溶けててようわからへん。形の見分けはつかへんし、その写しに頼み込んで、一緒に登場したその連れ合い、味のことやけどな、その証言を翻訳してくれと頼み込むこともでけへん。ほら、通訳が一人しかおれへんときに通訳に頼むことがあるやろ、そんな感じで頼むこともでけへん。どんなけったいな状況の中で、どんな時分にそれが生まれたんか教えてえなって頼むこともでけへんねん。
この昔の思い出、昔の瞬間はちゃんとわしの意識の表面までやってくるんやろか?おんなじ瞬間の引力がごっつ遠くからやってきて、その昔の瞬間を、わしの一番底の底で唆し、かき乱し、かきたてようとしとんや。わからん。いまんとこ何も感じへん。思い出は止まってしもた。また沈んでしもたんやろ。真っ暗な夜からまた浮き上がってきよんのやろか、分かりよもない。わしは十ぺんくらいやん直してそっちへ頭さげならん。そのたんびにだるうなってもて、めんどくさい仕事や大事な作業となったらいつでも出てきてそっぽ向かせるその無気力はこう囁きよんねん。「やめとき、今日は退屈やった、明日は何したいだけ考えたらええやんか。苦労せんでもなんべんでも思い出せんねんから。」
そのとき一遍に思い出がどかっと出て来よった。これはあのちっこいマドレーヌの味や、コンブレーで日曜の朝(わしは日曜はミサの時間まで外に出えへんかったしな)、レオニおばはんの部屋行っておはようさん言うてからに、おばはんが紅茶かしなの花の茶ぁに浸して出してくれたあのマドレーヌの味やてな。プティット・マドレーヌ見ただけで食べへんうちはなんも思い出させるもんはなかったんや。多分な、あのあとで食べへんまでも菓子やの棚で何度も見たんで、そのイメージがコンブレーの日常から離れてもて、もっと新しい別の日ぃとくっついてしもた、そのせいやな。ほいで多分な、あんまり思い出さんまま忘れてしもた思い出なんかは、なんも生き残ったりせんと、ばらばらになってもうたせいでもあるんやろな。形もな、菓子屋にあるちっちゃな貝殻の形、うわべは厳しいて抹香臭いけどその下ではごっつ色っぽい形もそやけどな、消えてまうか寝てもうて、意識のうわべまで上がってまうほど広がってくる力をなくしてしもたんや。人は死ぬし、ものは壊れる。その後で、昔のもんは何一つ残ってへんようになってしもたときに、いっちゃんきゃしゃやけどいっちゃん強い、なんも形は持っとらん、いっちゃん長いこと続く、いっちゃんの忠義もんが、つまり匂いと味だけがいつまでも残っとんのや。霊魂みたいなもんやな。それ以外のもんが全部瓦礫になったあとで、その瓦礫の上で思いだして、待っとる、期待しとんのや。ほとんど感じ取れんほどのしたたりの上で弱ぁもならんと支えとんのやで。何をて、思い出のどでかい建物でんがな。
そんで、おばはんがくれたしなの花のお茶につけたマドレーヌの味やて気づいたとたん(なんでそれを思いだしてそんなに幸せになったんかはまだ分からへん、それが分かんのはずっとさきの話や)、そのとたん、おばはんの部屋のあった通り沿いの古い灰色の家が、芝居のセットみたいに出てきよった。そいで、庭を隔ててその後ろにあったおとはんとおかはんのために作られた離れとくっつきよった(わしはそれまでその端っこを、他と切り離して思いだしてただけやったんや)。そいで、家とくっついて町も出てきよった。昼飯の前にお使いさせられた広場、用事しに行った道が、朝から晩までありとあらゆる天気で現れた。日本人は、せともんの茶碗にちいこい紙切れを漬けて、それが始めは区別がつかへんねんけど、ほとんど水につこてへんのに、伸びて曲がって色ついてそれぞれ別もんになって、花やの家やの見分けのつく登場人物やのになっていくおもちゃで遊びよんねんけど、それとまんま一緒で、いまやうちの庭の花全部、スワンはんの庭の花、ヴィヴォンヌ川の睡蓮、たちのええ村人やそのちっこい家、お寺、コンブレー全体とそのねき、それが全部かたちが出来て固まりよる。跳びだしてきたんやで、町と庭が、わしの一杯の茶ぁから。