コースマイヤー『美学:ジェンダーの視点から』の翻訳について(1) ディッキーの芸術制度論

コースマイヤーの『美学:ジェンダーの視点から』の翻訳が出版された。最近はフェミニズムの視点からの芸術論も日米共に議論が盛んで、特に美術史の家父長主義的な記述の書き換えや、芸術実践でのジェンダーの前景化は欧米諸国ではかなり進展している。コースマイヤーは、美学という女性を対象化する傾向の強い学問領域にも、この新しい傾向を意識させようと努力している研究者の一人だ。その時に彼女の理論的根拠の一つとなる芸術哲学が、ジョージ・ディッキーの芸術制度論と、アーサー・ダントーのアートワールド論であり、彼女は一定のページを費やしてこれら二人の哲学者を論じている。このページと次のページでは彼女が紹介しているこれら二人の哲学者の議論が、この翻訳では誤って伝えられていることを示す。

ディッキーはアメリカの芸術哲学者で、ほぼ同世代のアーサー・ダントーの論文「アートワールド」に影響を受け、独特の芸術の定義を作り出した人だ。それは、「芸術と芸術でないものを区別するのはアートワールドだ」という見解である。「アートワールド」は耳慣れない言葉かも知れないけれど、ディッキーの場合、元々は、芸術を提示するための制度的枠組みを示していた。芸術家とか、批評家とか、そういった人々で構成される制度である。ディッキーはこれがダントーの「アートワールド」論文の見解だと当初は信じていたのだが、ダントーにおいては、「アートワールド」とは第一には芸術作品の世界であって、芸術作品そのものの相互連関を意味していた。ディッキーではまずそれは「芸術作品を取り巻く制度」であり「枠組み」だ。

で、ディッキーの芸術定義は、その初期の段階では次のように変遷する。(以下引用はGeorge Dickie:Art and Value(2001)より)

(1)「A work of art in the descriptive sense is (1) an artifact (2) upon which society or some sub-group of a society has conferred the status of candidate for appreciation.(記述的な意味での芸術作品とは、(1)人工物で、(2)社会や社会の下位集団が鑑賞候補の地位を授与するものである。)」

ディッキーはすぐにこの定義の欠点に気づく。これじゃまるで社会や社会の下位集団が一丸となって芸術作品を作るみたいだと。

で、彼はその定義を変更する。

(2) 「A work of art in the classifactory sense is (1) an artifact (2) upon which some person or persons acting on behalf of a certain social institution (the artworld) has conferred the status of candidate for appreciation.(分類的な意味での芸術作品とは(1)人工物で、(2)ある社会的制度(アートワールド)を代表して行動する何らかの一人ないし複数の人物が、鑑賞候補の地位をそれに授与したものだ。)」(1971)

あるいは

(3)「 A work of art in the classificatory sense is (1) an artifact (2) a set of the aspects of which has had conferrred upon it the status of candidate for appreciation by some person or persons acting on behalf of a certain social institution (the artworld).(分類的な意味での芸術作品とは、(1)人工物で、(2)その諸側面のある集合が、一定の社会的制度(アートワールド)を代表して行動する何らかの一人ないし複数の人物に、その人工物への鑑賞候補地位を授与させたものである。」(1974)
https://twitter.com/zmzizm/status/530413426615410688 によって訂正(2014/11/30)。以下の文章にはそんなに影響ないか)

(2)と(3)には違いは殆どない。鑑賞候補地位の授与は、いずれの場合も、アートワールドを代表して行動する一人ないし複数の人物によってなされる。(3)は(2)と、その人物による地位授与が作品の何らかの側面と全く無関係であるという可能性を明示的に排除しているという点でのみ異なる。

とりあえず(3)までをディッキーの芸術定義の初期ヴァージョンとして、その特徴は

  1. 「分類的な意味」での芸術作品の定義を行おうとしていること。つまり、ここで言われているのは、「芸術の域に達している」とか言うときに使われる価値評価のニュアンスを全く含まない限りでの芸術概念の定義だということ。
  2. アートワールドを代表して行動する人間が人工物を芸術にすると考えていること。
  3. 鑑賞候補の地位の「授与」行為の存在が人工物を芸術にすると考えていること。

の三点だろう。そのどれにも突っ込みが入ることになる。(1) 芸術って本当に価値自由に定義できるの? (2)アートワールドを代表して行動する人間って誰よ?誰がそいつにそんな権威を与えたんだよ。(3)「授与」行為って何よ。「汝芸術なり」と言って何かを芸術にすることなど出来るの?

最大の問題が(2)だった。ウォルハイムは次のように言う(大意)。「アートワールドってどうやって代議員選ぶん?選挙でもやんの?選ばれたとしてさ、すべての候補検証すんのん?地位の見直しはするの?そもそもそんな権威を持つアートワールドなんてあるの?」「そもそも誰かが地位を授与したとしてもさ、そのためには「理由」が要るやろ。そんなら、その「理由」がものを芸術作品にしていると考えた方がええんちゃう?」

さて、これは誤解だとディッキーは訴える。大体、鑑賞候補をいっこいっこ検証して芸術地位を授与するなんて言っていないし、鑑賞候補地位を「授与」する「アートワールドを代表して行動する一人ないし複数の人物」って元々は作者のことだと。アートワールドに属する他の人間が地位授与をやってはならないわけじゃないけれど、本来は芸術家である作者が「見てね」って差し出したものが芸術作品なんだ。集団制作の場合作者は複数ね(コンサートとか)。で、作者(であれ他の地位授与を行う人間であれ)、「見てね」って差し出す、つまり鑑賞候補の地位を授与するのには、何らかの権威を必要としていない。アートワールドに属していることで十分なんだと。

それで「代表して行動する」ことになるのか?なると思う。だって作者が純粋に何ものをも代表せずに「見てね」って誰かに何かを差し出すなら、それはラブレターだったり呪いだったり以下略する筈で、作者が芸術家として不特定の公衆に「見てね」って差し出している以上、彼女はアートワールドを代表して地位授与(鑑賞候補としての)を行っていることになる。勝手に代表するわけだ。日本人が海外でいろんな意味で「日本を代表する」のと同じ。

「代表して行動する一人ないし複数の人物」「地位授与」「分類的な意味」の三つはこの時期のディッキーの理論にとって決定的に重要な概念だ。「代表して行動する一人ないし複数の人物」は「代理人」ではないし、「鑑賞候補」「地位授与」の概念は省略できない。だから、74年ヴァージョンを次のように訳してはもはや翻訳ではなくなる。

芸術作品に分類されるものは(1)人工物であり、(2)ある種の社会制度(アートワールド)の代理人から評価されるに値する一連の諸相を備えたものである(コースマイヤー『美学:ジェンダーの視点から』191-2)。

ディッキーにとって何かを芸術作品にするのはその対象が備えている何らかの諸相ではなく、それが「鑑賞候補地位を授与されている」という事実なのだ。この訳だと何かアートワールドの代理人(って誰よ)から評価されるに値する(美的・知的・あるいは一般化して芸術的)価値を備えた人工物が芸術作品だと言うことになってしまう。これはディッキーとは正反対の見解で、制度論でも何でもない。『折れた腕の前で』が芸術作品で花火がそうでないのは、別に前者には後者が持っていない「評価されるに値する」諸相があるからではない。単に我々の社会が、花火を芸術作品とするアートワールドを持っていないということに過ぎない。

それにしても、授与とか、代表とかはきつい言い回しで、ディッキーの意図に反して、芸術の制度が非公式のものであるという性質を隠蔽することになってしまう。だからウォルハイムの揶揄が成り立ったので。それゆえ、ディッキーは84年以降、この言い回しを避けて次の五つの循環した定義によって芸術を特徴づけるという戦略に転換する。

芸術家とは理解しつつ芸術創作に参与する人物である。An artist is a person who participates with understanding in the making of a work of art.(芸術家とは、自覚的に芸術作品制作に参加している者である。)

芸術作品とはアートワールドの公衆に示されるように創造された一種の人工物である。A work of art is an artifact of a kind created to be presented to an artworld public.(芸術作品とは、アートワールドの公衆/愛好者に見せることを目的として制作される人工物である。)

公衆とは自らに示されたものをある程度理解する用意がある人々を要素とする集合である。A public is a set of persons the members of which are prepared in some degree to understand an object which is presented to them.(公衆/愛好者とは見せられる作品を何らかの形で理解する準備がある者である)

アートワールドとはすべてのアートワールドシステムの全体である。The artworld is the totality of all artworld systems(アートワールドとは、すべてのアートワールドシステム(すなわち、絵画、彫刻、パフォーマンス、音楽、小説といった芸術ジャンル)の総体である。)

アートワールドシステムとは芸術家が芸術作品をアートワールドの公衆に示すための枠組みである。An artworld system is a framework for the presentation of a work of art by an artist to an artworld public.(アートワールド・システムとは、アーティストがアートワールドの公衆/愛好者に芸術作品を見せるための枠組みである。

こちらの方は、コースマイヤー『美学』の訳は括弧内に示した。まあ、細かい誤訳がいろいろあるし、全部を指摘しないけれど、「一種の」人工物(an artifact of a kind)てのはディッキーの芸術作品に対する「人工物」規定への批判、「ダンスって人工「物」じゃないし、流木芸術って別に作ってないよね」に対応して出てきた限定で、「パフォームされたり、ただ置かれたりってのも入れるよ」って言い訳なので、「一種の」を省略するとまずいと思う。

四つ目の規定の(すなわち……といった芸術ジャンル)はディッキーが直後に付け加えた説明を文章の中に組み込んだもので、ここはディッキーからの直接の引用という形をとっていないのでコースマイヤーの議論も、その訳としても特に間違いではない。

私がここで問題にしたいのは、この誤訳が、表面上とても滑らかなテキストに包まれていて、何の問題もなく理解でき、なおかつ、少なくとも1974ヴァージョンの訳の方は出鱈目だということだ。ものが、「評価されるに値する一連の諸相を備え」ているかどうかは、ディッキーにとって芸術であるかどうかと全く無関係だ。つまり、ものを芸術作品にしているのは、「鑑賞候補地位を授与された」という事実であり、もの自体が「備えている」性質ではない。どんなすぐれた「諸相」を備えていようが、地位授与の事実がなければ、つまり芸術家によって「みてね」と差し出されなければ、それは芸術作品ではない。だから「制度論」なのだ。この箇所は、分からない部分をぶった切って辻褄を合わせるいわゆる超訳になっている。

ダントーの議論の訳にも似たような問題があるのでそちらに続く。.