コースマイヤー『美学:ジェンダーの視点から』の翻訳について(2)

前のページの続き

ジョージ・ディッキーと共に、アーサー・ダントーのアートワールド論も、コースマイヤーにとって、あるいはフェミニズム美学にとって貴重な理論的根拠になり得るものだ。だから、彼女はダントーのアートワールド論もある程度丁寧に紹介している。ところが、ディッキーの箇所と同様、ダントーの議論についても、この翻訳ではおよそダントーが主張するはずのないことをダントーに主張させてしまっている。

本書は共同訳で、ディッキーやダントーの議論の紹介は第五章「芸術とは何か」に入っている。ここの訳者(石田美紀さん)は映像文化論の専門家で、最近では初音ミク研究なんかもあるみたい。だからやたら概念や用語の厳密さが問題になるいかめしい「美学理論」に慣れていなくても仕方がないのかも知れない。なので、propertyという分析哲学では「性質」と訳さないと…みたいな単語を「固有性」と訳していてもまあそれは仕方がない。

でも例えば次の箇所なんぞ、そういうのとは随分違う問題があるようだ。(文ごとに数字を補う。また、問題にしたい箇所を赤字に変えている)

(1)ダントーの主張では、芸術―あらゆる時代・場所のすべての芸術―は何かについてのものであり、意味を備え、内容を伴っているはずのものである。(2)つまり芸術作品そのものにその意味は具現化されていなければならない。(3)ただし、それがいつの時代も同じ方法でおこなわれるわけではないことは、「芸術と言う概念」(原文傍点)芸術制作の中で果たしている役割示している。(4)たとえば、一九六〇年代の洗練されたニューヨーカーでも、アンディ・ウォーホールの『ブリロ・ボックス』を芸術と見なすことはできなかった。(5)以前は、こうしたコンセプチュアルな離れ業が不可能であるばかりか、無意味なものでしかなかったのである。(6)二〇世紀半ばまでの芸術概念の必要条件は、ポップ・アートを生み出したり、認めたりするようなものではなかった。(7)ダントーが述べるとおり、「何かを芸術と見なすには、芸術理論への親しみと美術史の知識が何よりも必要である。195-96

Kindleで原文を手に入れたので、この箇所の原文と試訳を提示してみる。なお、Kindle for PCはなぜかコピペできない仕様みたいで、キーボード入力なので誤記はご容赦。それとページ数が分からない。Kindle版にあるのは文の数なのかなぁ。引用は第五章のArt as a Mirror: Arthur Dantoの節から。

It is Danto's contention that art - all art at any time or place - must be about something, must bear meaning, have content; and that its meaning must be embodied in the artwork itself. This is not and cannot be done the same way at all periods of history, a fact that indicates the role of concepts of art in the production of art. Sophisticated New Yorkers of the 1960s were just barely able to see Andy Warhol's Brillo Box as art, for example; such conceptual feat would have been not only impossible but nonsensical at an earlier period of history. Requisite conceptions of art were not in place to produce or to recognize Pop Art until the mid-twentieth century. As Danto puts it, "to see something as art at all demands nothing less than this, an atmosphere of artistic theory, a knowledge of the history of art."((1)芸術は、時代や場所を問わず全ての芸術は、何かについてであり、意味を持たねばならず、内容を持たねばならないというのが、(2)また、その意味は芸術作品それ自体のうちに具体化されていなければならないというのがダントーの主張である。(3)これは歴史のすべての時代に同じようになされているわけでもなくそんなことなど出来やしないという事実は、芸術創作において「芸術概念」が果たす役割の大きさを示している。(4)例えば、1960年代の洗練されたニューヨーカーはかろうじてなんとかウォーホールの『ブリロ・ボックス』を芸術として見ることが出来たのだ。(5)こうしたコンセプチュアルな離れ業は歴史のそれより前の時代には不可能だっただけでなくナンセンスでもあった。(6)二十世紀半ばまでは、ポップ・アートを作り出したり認めたりするのに必要な芸術の観念が存在していなかったのだ。(7)ダントーの言い方だと、「そもそも何かを芸術として見るためにはまさに次のことが必要だ。芸術理論の雰囲気と、芸術史の知識である。」)

この段落の文は(5)を除きほぼすべて訳が不適切で、それがダントーの議論を分からないものにしている。

(1)is about somethingを「何かについてのもの」と「もの」を補うのは芸術が何らかの「もの」でなければならないというダントーがコミットしない考え(コンセプチュアル・アートは「もの」じゃないし)を反映しているので良くないし、mustはここでは「はず」ではない。彼はここで何かが芸術であるための「必要条件」について語っているので、「ねばならない」の意味の方だ。

(2)「つまり」じゃない。芸術が「意味を持つ」ことと意味が「作品そのものに具現化されている」のは別のことだ。何かが作品そのものに具現化されていない意味を持つことはいくらでもある。ここでandは連言として訳さねばならない。

(3) 主語と目的語を逆転してしまった。ダントーが言うのは、歴史によって意味の作品への具体化のあり方が違うという事実があって、それが示しているのは、「芸術概念」の役割だってことだ。

(4) ブリロボックスっていつの作品だったっけ?60年代の洗練されたニューヨーカーがそれを芸術と見なせなかったとしたら、誰ができたんだろう?just barelyはここで「漸く何とか〜した」という肯定のニュアンスだ。もちろん、ここを肯定的に訳すか否定的に訳すかは、ブリロ・ボックスの受容の知識が必要だろうけれど、これを単にnotと同じとして訳すのは不誠実だ。著者がそこに込めたニュアンスをぶった切ってしまうことになる。

(6)何かを生み出したり認めたりすることは「芸術概念の必要条件」なのではない。ポップアートを作り出したり認めたりするために必要なrequisite芸術の観念(conception of art)」がまだなかったと言われているのである。

(7)(a) nothing less thanは「何よりも」ではない。Dantoによると、「ブリロ・ボックス」に限らず、すべての芸術作品について、私たちはそれと知覚的には(見た目では)識別不可能だけれど芸術でない対象の存在する世界を想像することが出来る。そのような可能世界において、私たちはその両者を芸術作品が持つ「理論の雰囲気」によってのみ区別出来るのであり、他の仕方では区別出来ないのだ。
(b) see asはここでは「見なす」ではない。私たちはあるものを全く芸術として「見る」ことが出来なくても、それを芸術と「みなし」うる。お金持ちが壁にロスコーを飾るときとか、ウォーホールを競売にかける係員などがそうだ。
(c) ダントーの問題は、デュシャンやブリロのように知覚上識別できないものの一方が芸術作品で一方が芸術作品でないのはなんで?ということだから、知覚上ブリロの箱と識別出来ないウォーホールの作品を芸術「として見る」ために要求されることがらが重要であって、それが「理論の雰囲気と芸術の歴史の知識」なのだ。atmosphere of artistic theoryは確かに面倒な概念で、「芸術理論の雰囲気」では曖昧すぎるような気がする。 ただ、Dantoは決して、鑑賞者が何かを芸術作品と見なすために芸術理論をよく知ってなければならないということを主張しているのではない。鑑賞者は芸術理論を知らなくても、例えばラベルとか値段とか展示場所とかから、それを芸術作品と見なすことが出来る。何かを芸術作品として「見る」ためには、その何かが「理論の雰囲気」に包まれていること、アートワールドの中に置かれていることが根本的に重要だと言っているのだ。
(d) the history of artはこの場合は「美術史」に限定されない。

一段落だけを挙げたが、他の段落もここまで酷くはないが、小さな無理解が重なって、全体としてダントーの主張が歪められてしまう。たとえば次のダントー自身の引用。

チューリップやキリンを認識するように、知覚することで芸術を見分けられる、そんな時代があった。しかし、事情は変わってしまい、芸術は何でもありとなっている。だから見ただけでは、芸術かどうかは判断できない。もはや批評家の鑑識眼といった基準はふさわしくないのである。(194)

もし芸術が「何でもあり」なら、見ただけでなくても、どのような理論的な背景をもってしても芸術かどうかは判断できないだろう。

There used be a time when you could pick out something perceptually the way you can recognize, say, tulips or giraffes. But the way things have evoloved, art can look like anything, so you can't tell by looking. Criteria like the critic's good eye no longar apply. (例えばチューリップやキリンを見分けるように、知覚を通じて何かを芸術として選び出すことが出来た時代があった。しかし、事情は変わってしまい、芸術はどう見えても構わなくなっており、だから見ることによっては区別できない。批評家のすぐれた眼のような基準はもはや通用しないのである。)

知覚的に識別出来ないものの一方が芸術作品で一方がそうではないことがあり得るという事情は、芸術の「見え方」あるいは「知覚的性質」が「何でもあり」になったことを意味し、それは芸術が「何でもあり」になったこととは異なるのである。なお、「知覚を通じて何かを芸術として選び出すことが出来た時代」は現実世界には存在したという歴史認識と、常に、芸術作品と知覚的に識別不可能な非芸術作品が存在する可能世界があるという先ほどの哲学的議論は矛盾しない。

次の文章。

また、これらの作品は既定の芸術に備わるあらゆる価値を断固として認めまいとするにもかかわらず、いまや二十世紀の美術年鑑に記載されている。その理由の一つは、こうした作品が「アートワールドのなか」(原文傍点)で、美的判断と大衆文化について、価値と固有性について、芸術家と公衆/愛好者の役割について、意見を表明しているからである。それらは、芸術それ自体「について」(同上)核心をついた見解を提示するのである。(195)

「二十世紀の美術年鑑」は一見どこかおかしいとして、この文なんか素直に分かる。でも、よく考えると芸術作品が芸術それ自体について「核心をついた見解を提示する」というのはここであげられた(デュシャンやウォーホールなどの)芸術のあり方にもダントーの見解にも合わない。ダントーは決して、これらの芸術の芸術観が「核心を」ついていなければならないとは考えているわけではない。

ダントーにとって、何かを芸術にしているのはアートワールド、つまり芸術そのものにある理論の「雰囲気」だ。芸術は従って常に何かに「ついて」(about something)でなければならない。意味を持たねばならないからだ。肖像画はとりあえずは対象となった人に「ついて」の絵である。それは同時にあるスタイルに「ついて」かもしれず、あるイデオロギーに「ついて」かもしれないのだけれど。

とすれば、デュシャンの『泉』やウォーホールの『ブリロ・ボックス』のような作品は何に「ついて」なのだろうか。それらは知覚可能ないかなる形式的特徴によっても、「何かについて」ではない非芸術作品(ただの実物)と区別出来ないのだ。そうした芸術作品に関して、ダントーはそれが「芸術とは何か」という問いに「ついて」だと考える。何かが芸術であるということにとって重要なのはabout somethingであることつまりaboutness(「ついて性」)なのであり、それが核心をついているかどうかではない。

And yet, despite these efforts to repudiate every value of art establishment, these works are now included in the chronicle of twentieth-artworld. One reason for this is that such works are comments within artworld - about aesthetic judgment and mass culture, about value and property, about the role of the artist and the public. They are profoundly about art itself. しかしそれにもかかわらず、つまり芸術という体制のすべての価値を論駁しようというその努力にもかかわらず、これらの作品は今や20世紀のアートワールドの編年史の中に組み込まれている。その理由の一つは、そうした作品がアートワールド内部でのコメントだということだ。それらは美的判断とマスカルチャーについての、価値と性質についての、芸術家と公衆についてのコメントなのだ。それらは真底から芸術それ自体に「ついて」なのだ。

この文章は当初もう少しふざけたタイトルを付けていたが、ちょっと考え直して、タイトルや表現を変更した。