肝っ玉おっ母とその子供たち(THEATRE 1010第16回公演)

西川信廣 演出、草笛光子 (肝っ玉) 田中壮太郎(アイリフ) 鍛治直人(スイスチーズ) 鬼頭典子(カトリン) 久世星佳(イヴェット) 高橋長英(従軍牧師) 大森博史(料理人)
美術・朝倉摂

ブレヒトの『肝っ玉』は日本ではとても人気のある芝居で、東京の大きめのところだけでも、去年はシアターΧが、一昨年は新国立劇場がやっていた。数年前には、黒テントも、北千住界隈にテントを張って演じていた記憶がある。

でも、この作品の面白い上演に出会ったことがない、というか、そんなに面白い芝居じゃないと思う。黒テントが、舞台を日本に、時代を戦国時代に移し、大幅に台詞を付け加えてなおかつ斎藤晴彦に肝っ玉をやらせ名古屋方言の面白さを前面に出してもそれほど面白くならない。

で、今回の上演が「面白いブレヒト」「楽しめるブレヒト」を売り物にしているので、「肝っ玉」に関してそんなことが可能なのかなぁ、と思いながら観に行った。

まず驚いたのは、思いっきり「ふつー」の演出だったことだ。「面白い」「楽しめる」ブレヒトにするためにどんな工夫をしたのかがまったく分からない。確かに、肝っ玉の一家が最初に登場する場面はカトリンのハーモニカや足拍子もあって、「なかなか楽しそうだ」と思わせたが、その前の徴兵係からして丁寧でゆっくり過ぎて、いらだちも何も伝わってこない状況説明の台詞だったし、肝っ玉の子供たちも全然ふつー。主人公だけがやや余裕がある。

作品がなぜ「面白くない」のか、というと、肝っ玉の設定が中途半端だからだと思う。演出は「肝っ玉おっ母の痛快さ」という表現をパンフレットの対談で用いているが、今にも処刑されようとしている子供を脱獄させるための賄賂を出し惜しんで、ようやく全財産を手放す覚悟が出来たときには手遅れになっている、という場面から「痛快さ」を感じるのはなかなか難しい。面白いのは、そういう事件は彼女にとって単に「不運」でしかなく、彼女は自分が戦争から利益を得ることが出来るという信念を手放さないところなんだけれど、そういう「面白さ」はなかなか舞台では伝わらない。そしてその面白さは「痛快さ」とは随分違ったものだと思う。

実際、この場面をどうやったら「面白く」やれるのかは見当が付かないのだけれど、一つ考えても良いのは、ここで彼女に突きつけられているのが、本質的には「ソフィーの選択」と同じだということだ。彼女がそこで全財産を失うなら、彼女自身と、とりわけ娘のカトリンは破滅するしかない。そこでの逡巡の結果手遅れになるのは、単なる楽観主義からでもなければ、金を惜しんだからでもない。そうするしかなかったからだ、というのが舞台上で充分に示され、なおかつ次の場面でまだ戦争を手玉にとることが出来ると思い続けていれば、「痛快肝っ玉」にはならず、かといって「犠牲者肝っ玉」にもならない、問いを投げかけつつ「面白い」上演ができるかもしれない。

実際、この「学ばなさ」は私たち庶民の特徴そのものなのだから。

日本の演出ではその「庶民」を美化してしまうところがあり、美化した分だけ、「言葉はかっこいいけど行動の結果はさいてー」にしかならない肝っ玉の面白さが描けないのだと思う。庶民は戦争の犠牲者には違いないのだけれど、だからといって責任がないわけではない。

今回の上演については、それ以外には、赤旗に書いた劇評にあまり付け加えることもない

でも一つだけ。新教軍に付き随って商売をしていた肝っ玉は、いつの間にか旧教軍のただ中に落ちてしまう。彼女たちは一緒にいた新教軍付きの牧師を匿い、牧師は平服に着替え、民間人を装う。そのうち、旧教軍のための商売を彼女たちは始めることになる(このあたりが「肝っ玉」の痛快さだ)。

牧師は、旧教軍の下士官とチェスをするほどの仲になる。で、その下士官が彼のことを「牧師さん」と呼ぶのだ。ここで思わず演出につっこみ。さすがに元々の翻訳ではそんなミスはない。未だに聞き間違えたのかも知れないと疑ってはいるのだが。森山未來の『血の婚礼』で復讐を叫ぶ母親の逡巡が描かれていないと書いたのだが後でヴィデオを見ると描かれていたり、そういう間違いもしでかしていたし。

もう一つ、これはミスではないが、わたしの見た「肝っ玉」では牧師はかならず気の弱そうな善人で、いわばコミック・リリーフのふられ役なんだけれど、彼は軍付きの牧師で、自負するように、兵士を敵軍に突っ込ませて行く弁舌の才を持っている。もう少し自信家でも良いのではないかしら。それで矛盾はないように思うのだけれど。(その場合、肝っ玉にコナをかける牧師は単にセックス目当てで、新教軍に戻れるやいなや彼女のことなど忘れてしまうのだが。)