1993年のギリシア劇@ギリシア

シュタインのエレクトラの感想を書くために調べていたら、1993年のギリシア旅行の日記が出てきた。普段日記をつける習慣がない(のもブログをしない一つの理由)のだが、このときの旅行は一人と言うこともあり、結構いろいろ書いている。演劇関係のところだけ抜きだしてみる。勿論、そんなに資料を持たずに書いた感想なので、客観性とかそういうことは気にしないことにする。ギリシア劇だけで12本も見たんだなぁ。

テーベ地方劇団 アンティゴネ (リカヴィトス劇場、八月11日)

夏になるとアテネのヘロデス・アッティコス野外音楽堂およびエピダウロスにあるあの有名な劇場遺跡を中心として、ギリシアでは演劇・音楽などのフェスティバルが開かれ、ギリシア悲劇はその中心的な演目になっている。今年の夏の場合、アイスキュロスからメナンドロスまで、悲劇・喜劇とりまぜて、12の作品が上演された。それほど有名ではないし、また観光客は殆ど来ていないが、楽しみなものに、アテネの中心の小高い丘であるリカヴィトスに設けられた野外劇場でのギリシア悲劇の上演がある。ここでは、主としてギリシアの地方の劇団が、古典から現代までさまざまな作品を披露するのである。この夏、私はテーベの劇団による、ソフォクレスの『アンティゴネ』を見ることが出来た。同じ日に、イギリスの演出家、ピーター・ホールが音楽堂の方で『女の平和』を上演したためか、客席は1000も埋まっていただろうか。舞台( 近代の野外劇場だが、一応ギリシア様式の円形劇場になっている) には緑色の砂がまかれ、背景には俳優の出入りのための大きな門。オルケストラの上には椅子が9 脚。そこにコロスが観客に背を向けて座ると、芝居の始まりである。 コロスは男女混成で白いシャツ姿。コロスは市民の代表だという意識がここでも中心になっているようだ。アンティゴネとイスメネは赤い衣装、クレオンは黒いキトンと、衣装によって人物の性格が分かるようになっている。芝居はハッキリした言葉づかいと、かなり少ない動きのまま進行し、やや起伏に欠ける。コロスのスタシモンもすべてが歌ではなく、半分ほどは朗読になる。ただしテクストにはそれほど大きな改変は加えられていないようだ。唯一、アンティゴネの死への道行がコロスのスタシモンと重ねられていたのが演出上の際立った見せ場というところである。したがって、アンティゴネの悲劇としては、それなりの感動を与えてくれるものになっている。個人的には正義をふりかざすこの少女にそれほど共感は持てないが( ブレヒトのアンティゴネはその点で面白い芝居だった) 。

だが、この芝居はアンティゴネの悲劇などではない。これは自らの頑固と無思慮のゆえに、家族すべてを滅ぼしてしまう愚かな男の悲劇なのである。かれは次々に安直な推論に飛びつき、世界には他の見方があるのだということに気づかない。アンティゴネの最後の退場のあとも事件は次々に起き、息子が、そして妻が自殺してしまうのである。ここに至ってクレオンは正義に名を借りた自らの行為の残酷さを知る。そうだとするならば、クレオンにはもっと弱さを持った人間としての複雑さが必要だろう。

演技面で優れていたのは、母親のエウリュディケ。メッセンジャーのスピーチのあいだの無言の演技は、内心の絶望をよく表していた。ただしこうした表情の演技はこの劇場の規模でやっと通用するというところなのではあるが。

ピーター・ホール劇団 アリストファネス『女の平和』(ヘロデス・アッティコス8月12日(木))

演出も当然ピーター・ホール。舞台上に円いオルケストラとその背後に木製の壁、二階からは窓が二つ、下にはドアが三つ、必要に応じて開けられる。壁にはペンキで多くの落書き。Peace, Warなど政治的スローガン。冒頭リュシストラテが登場し、壁にPEACE と落書きしてから上演が始まる。服装は現代の田舎の人々の感じ。詰めもの。胸をはだけたり、性器を露出する場面ではつくりものを用いる。台詞のテンポのよさ。随所にソングを交えたその歌の巧みさ( ただしこれについては後を参照) 。女たちの団結が乱れかけるところ、リュシストラテはヴァイル風の音楽に合わせて、おそらくディートリッヒの声色を用いて女たちを説得する。音楽のいきのよさ。艶笑部分も、卑猥にならない範囲で最大限に誇張している。とくに妻に会いに夫が尋ねてくるところ。また、役人に女の服が着せられるところでも、バフチン流の笑いを醸しだす。

  仮面。こうした仮面がギリシアの演劇にはぴったりである。誇張するのでも象徴的にするのでもなく、はっきりとした表情の輪郭線を際立たせた仮面、前回不評だった「かぶる」形の仮面をやめ、「つける」面にしている。すこし距離をおくと、仮面であることはあまり意識されず、むしろ表情がはっきりしていることが印象に残る。大喝采。ブラヴォーの声が飛び交うものだった。「女の平和」は一時期日本でも多く上演された題目だが、それが今日でもなお古びていないことを明らかにした、じつに面白い、感動的な上演だった。

音楽。全体にジャズを用いる+ヴァイル風。舞台上、オルケストラ脇にはドラムセット。あとはテープを用いているようだ。ソングもテープなのか、あるいはそこでマイクが入るだけなのか、機械的に増幅されている。この点だけが画龍点晴を欠くか。テレビ放映があるはず。

アシニオン劇場『三文オペラ』(八月13日)

実にテンポのよい、スピーディーな三文オペラ。マッキースはやたら恰好がよく、ビーチャムは典型的なブルジョア。タイガーブラウンは人のいいはげ男。音楽はややモダンにアレンジしているし、楽器編成も異なるが、基本的にはヴァイルのもの。この芝居をギリシア語で見ていて、よく覚えているのにびっくりした。衣装は特に時代を反映せず。むしろ三文オペラの作られた時代の雰囲気。二度目の逮捕は簡単にしている。ポリーの歌が下手なので「海賊ジェニー」「ノーの歌」はジェニーに移している。ジェニーの後悔の場面が第三幕冒頭に置かれ、それがポリーとルーシーの和解の場面と重ねられるのは、人物の性格を分かりやすくする効果を持っているが、ブレヒトは納得するだろうか。ポリーは最後にはメッキーに冷たいが、これも合理的だが、やや説得的ではない。各登場人物の複雑さをそのまま舞台で提示すると観客の同意を得られないのかもしれない。休憩を入れて約三時間の公演。

アンフィシアター『バッコスの信女たち』(エピダウロス 八月14日)

エピダウロスで見た四番目の劇団。背景は斜めになった壁と、それを崩すのか支えるのか、ぎざぎざのつっかえ棒。雷に見えなくもない。オーケストラの上には白い布が敷きつめており、一メートルほどで斜めに折れてしまったコラムの下部分が置かれている。信女たちはそれらしい衣装。蔦の髪飾り、太鼓などの楽器、杖、ディオニュソスとその信者たちは白い衣装で、ペンテウスは黒い衣装で、対比は鮮明である。(部下たちは灰色だったか)。コロスの白い衣装は、照明に応じてさまざまな色合いを示すので綺麗。しかしカラフルではないのでやや物足りない。テイレシアスとカドモスも上品な演技。グロテスクを期待するのはここでは八百屋で魚を求めるようななのだろう。狂気ののちのペンテウスの演技もそれほどではないが一通りの見せ場にはなっていた。アガウェが一番出来がよかったのではないか。モノトーンからここで唯一離れる。本来白だったアガウェの衣装は、ここで血まみれになっている。最初の軽やかさ、正気に返ってからの嘆きの対比も、ここでもややおとなしいが、見事である。

コロスの動きはかなり激しく、単調ではない。自由な群舞を見せる。

全体として、洗練を目指している点では一貫性があるが、エウリピデスの戯曲の持つグロテスクな魅力は消えてしまったと思われた。

Elliniki Kallitechniki etaira "Oroma" Kosta Preka ソフォクレス『オイディプス王』(八月20日(金))

台詞の部分を大胆に省略し、物語をかなり単純化したテクスト。そのかわりにスタシモンが上演の中心になる。コロスは嘆願者たち、のちに元老たちも加わる。スタシモンはミュージカル風で、最初はA.L.ウェーバー流のロックミュージカルに近い音楽だったが、後半はややおとなしくなった。舞台はオルケストラと板の舞台が分けられているが、演技は基本的にオルケストラでなされている。衣装は暗い色のキトンとヒュマティオン。板舞台の中央に階段、その上に神殿のコラムが四つで、その後ろからオイディプスは登場する。

外から現れる人物はパロドスからの入場だが、その場合やや待ち時間が長くなるのがこうした舞台の欠点かもしれない。演技はわかりやすい。やや説明的に過ぎるくらいだが、退屈は全くしなかった。ミュージカル部分のコロスはいかにもミュージカルの動き、というにはやや動きが少ない。手を前に突き出し、祈りの動作を行うときが「ジーザス・クライスト・スーパースター」を思い出させた。スタシモンは斉唱ではなく、ソロあり、ポリフォニーありの多彩なもの。ただし口パク。演技のテンポは早く、全体の上演時間は一時間三十分。客はまばらだった(50-60人ほどか) が、終演後の拍手はすごかった。全員が立ち上がってのブラヴォーのくりかえしだった。友達なのかなあ。アテネ郊外のエガレオにある民衆劇場(Theatro Demotico)での上演。劇場規模は約500 人の小さな野外劇場だった。

ギリシア国立劇場『アンティゴネ』(多分エピダウロス 八月22日(日) )

 ビザンティン風のコロスに驚かされる舞台。コロスは殆ど動かず(スタシモンはそもそも動かず歌うって意味だったかしら)、ソロと合唱の応答も、服装や楽器も、何よりも音楽そのものがビザンティンを思わせる。やや動きが生じるのは最後のバッコス讃歌のみである。途中、十字に並んだのにもびっくりした。俳優のなかではクレオンは感動的。特にテイレシアスの予言を聞いた後のうろたえぶり、また最後、予想外の不幸に打ちのめされた風情は真に感動的だった。それに対してコロスの反応は僕には冷たすぎるように思われた。この芝居のコロスはそんな偉そうな顔をできるほど立派な存在ではない。でもまあこの解釈はこちらのほうが少数派か。それにひきかえアンティゴネは頑さだけが目立った。でもこれは解釈としては納得できなくもない。彼女の頑さからすべての不幸が始まっているのだから。頑な女と頭の悪い( しかし悪意や利己主義とは無縁な) 男によって編み合わされて行く悲劇としてはなかなかいい表現になっていた。しかし我々はやはりアンティゴネにも同情したい。

  それ以外の登場人物ではハイモンが優秀。激情をおさえようとする努力がよく伝わってくる。「では彼女は死ぬでしょう。だれかを道連れにして」の「誰か」が自分をさしているのか、それともクレオンをさしているのか。 テイレシアスもまあ文句のないところ。怒りからの台詞は結局クレオンを揺るがし、遅すぎるとはいえ彼に翻意を決断させるのだが、地面に座り込んでまさにいま予言の霊感を受けたかのような表現など、まあ予想外だし、また楽しかった。 ただし、個人的な演技の優秀という綿を別にすれば、相変わらず演出の保守性がめだった舞台だった。それにしてもなぜ中世風なのか。よくわからない。連続性の幻想がどこかで働いているのかもしれない。

エウリピデス『フェニキアの女たち』(ペトルーポリ. ペトラス劇場)八月23日

(上演劇団名が日記には書いていなかった。おそらくペトルーポリの公立劇場だったのろう。)無料上演。ただし、ちゃんとした地方公立劇団の上演で、無料なのはこの地域の状況によるのだろう。演技はきわめて刺激的。20人ほどの規模の団体なので、一人がコロスと俳優の両方を兼ねなければならないが、その交代も実にスムーズ。注目は仮面の使用。ただし仮面を被るのではなく手に持って語る( すべての場面でではない) のである。仮面は二種類。キュクラデス諸島の白い彫像を模したものと、ミュケナイのアガメムノンの黄金の面を模したものとである。コロスは白い仮面、王族は金の仮面になるが、常に持っているわけではなく、権力を求めて、ないしそのもとで語っているときに仮面を手に持ち、顔を黒い布で隠す。テンポのよさが特筆すべき。また、言葉の分かりやすさも。おそらく難しい言葉を出来るだけ避けた訳を用いているのだろう。かなり聞き取れる言葉があった。

さて、このように上演としては問題がなくなってくると作品そのものの難点が浮かび上がってくる。これは読んでいるときにはそれほど感じなかったことだが、この悲劇は多くのものをぶち込みすぎて( 物見、七人、クレオンの子供の犠牲、アンティゴネ、コロノスのオイディプスなど) いて、盛り上がりをどこに設けるのか本当に困ってしまうのがよく分かった。最後のオイディプスの追放はそれまでの物語からの必然的帰結とはとてもいえず、したがって冗長に感じてしまうのはやむをえないところ。最後の部分で退屈して帰った客もある程度いたし、残っている客もかなり退屈を強いられていた模様。

こうした作品の上演はどうやれば一番効果的なのだろうか。ある種の異化効果(それも難しいだろうなあ) かしら。シェイクスピアよりも難しいのは、単にいろんな要素があるだけではなく、それが最後で盛り上がらないというところだと思う。オイディプスの登場場面をきりつめる? この作品には、読むものとしての悲劇と上演としての悲劇の一致しないところが様々にみとめられる。

 コロスが民族的な要素を様々に取り入れているのは他の上演とも共通するところ。その結果、スタシモンの部分がそれだけで独自に楽しまれることになる。この上演では、ビザンティン(教会音楽風のところ)、民俗舞踊(一列に並んでのフォークダンス)が混在していた。また、スタシモンの中でもドラマティックな箇所は歌われずに朗唱される。特に面白かったのは使者の報告の部分。長台詞を一人の役者に任せずに何人かで分担して乗り切っていた。つまり、メッセンジャーの部分を劇の行動の統一のなかに組み入れるよりも、感覚的に効果的に響かせることを狙ったのであり、これは大成功に思われた。

全体として、かなり程度の高いもの。作品をより大胆に合理化するともっと面白くなったと思われる。

劇場について。ペトルーポリスはアテネ郊外の石切り場を中心とする町なのではないかと思った。石の切りだした跡地を劇場として利用しているのが「石の劇場(Theatro Petras)」なのではないだろうか。舞台背後に切り出し場が壁となって広がっている。少し異様な光景。客席は鉄パイプと木造座席からなる野外劇場。セットはこの場合は殆どなく、物見でも殆ど段差を設けていない。これは演じる劇場に応じて配慮するのだろう。また、衣装は基本的に近代の民俗衣装。ときおり象徴的な小道具が用いられる。ビザンティンのイコンや香が使われたのは面白かった。

Nea Elliniki Skini tou Thymiou Karakatsani アリストファネス『女の平和』八月25日(水曜)

タイトルロールも同じ人。エピダウロスでの上演の再演。ニケアにあるカトラキオという野外劇場での上演。おそらく5000人以上の収容能力がある、近代の野外劇場のなかでは今回の最大の劇場だった。その五分の四が埋まっていただろう。

喜劇は難しい。外人にはよく分からん。テクストもかなり自由に配置している上に、アドリブ(かどうかはよく分からなかったが)のギャグがやたら飛びだすために、ついてゆけないところが多い。基本的な役をすべて男性が演じるという趣向は、古代を意識しているかどうかは別として、それなりに面白かった。主演のカラカツァニはギリシアでは有名な喜劇役者とのこと。ピーター・ホールのものが早いテンポで舞台を進行させてゆき、反戦劇のメッセージを伝えようとしていたのに対して、ネア・エリニキのはむしろ役者の個人芸を見せるのが中心になり、かなり際どい演技がなされていた。まあ日本なら子供を連れて見にゆくのは躊躇されるだろうと思われた。俳優たちは裸をかたちどった詰めものを身につけ、観客への呼びかけの部分では(その意味で)すっ裸になる。またキネシアスをじらす場面も単刀直入な表現だった。

男女の争い、性欲の表現が中心になっていて、反戦劇的要素は背後に退いていた。その点もピーター・ホールとは対照的。ネア・エリニキも今年エピダウロスに登場した劇団。エピダウロスの出し物をカトラキオに持ってきたわけである。山形さんの本で、ギリシアにおける古代劇上演がどこまで外人観光客向けなのかという話題が提示されていたが、こうして各地の劇場での上演を見るかぎり、観光客は添え物にすぎないことがはっきりしている。つまり、特に喜劇に関しては、ギリシア人のなかに息づいているようだ。

カラマタ地方劇団.アリストファネス『平和』(イリウポリ芸術劇場八月26日 (木) )

 実に楽しい上演だった。子供の客を意識してか、戦争に係わる人々は皆お面をかぶっている。黄金虫も小型飛行機の形。ダンスも活気があり、坊主への茶化しも面白く感じられた。こまかいことを言うと、娘たちの引っ込みが考えられていなかったり、落ちの部分で出てこなかったりと、いろいろあるが、僕は随分楽しんだ。しかしギリシア人の観客の反応は冷たかった。リュシストラテのときには随所に笑いがあったのに今回は、観客席の笑いを殆ど聞くことがなかった。多分アドリブがほとんどなかったこと、テクストどおりに上演していたことが理由の一部なのだろう。アリストファネスもそのままでは現代に通用しないのはたしかだ。カラマタの劇団は、二年前にシェイクスピアの『トロイラスとクレシダ』の上演をリュカヴィトスで見た。その時は、無茶をやるのにびっくりしたが、今回はそんなこともなかった。前回は、全編ロックが流れ、カッサンドラはほぼすっ裸で、セットには戦闘機の残骸と、そのまま悲劇に入ってゆけたのだが。

北ギリシア国立劇団 ソフォクレス『エレクトラ』(ヘロデス 八月27日(金))

 物凄い暑さ、何をするのもいや、という感じ。42度あったそうだ。夜になっても熱が冷めない。大阪のような熱帯夜だった。タクシーの運転手が、「暑いなあ」と話しかけてきた。夜のこの暑さはギリシアに来て初めて経験するもの。昼間はほぼグロッキー状態。そんな中、北ギリシア国立劇団の『エレクトラ』 (ソフォクレス) を見る。

やめにしようかと随分思い迷ったが来て正解。『女の平和』 (ピーター・ホール) と並んで、今回の最高の出来だった。北ギリシアはこれまで二度見ている。最初は『トロイアの女』、これは現代的な舞台設定と、アンドロマケの子別れの場面の痛切さで胸を打ったが、ヘレネがやたらおばさんだったのと、ヘカベの芯が細すぎて悲劇を支えきれないように感じた点で不満が残った。二度目は『アカルナイの人々』で、これは喜劇ではなく悲劇に仕立てあげていた。つまり、主人公が祭りを行うなかでも、コロスは一人ずつ戦争に倒れてゆく。これも同時代的意識の濃厚な演出だったが、殆ど笑えなかった。ギリシア人の評価も冷たいものだったのが印象に残っている。左翼の劇団というイメージが僕にはある。

だが今回は非常に感動的な上演。エレクトラは、これまでテクストで読んでいたときには、それほど同情できない人物だったが、この上演では、冒頭からエレクトラの悲惨さが胸を打つ。彼女の生意気な台詞も、こうした悲惨さの中では、尊厳を保とうとする唯一の拠り所として納得が行く。そしてクリュソテミスの日和見のいい加減さ。この人物が決して弱いだけではなく、弱さを武器として取り入る人間であることがわかる。彼女はクリュタイメストラよりもたちがわるい。

クリュタイメストラはあくまで憎々しく、しかしなおかつ複雑さを見せる。親子の情を両者が求めつつ得られないのが納得できる。エレクトラはその激しさにおいて彼女の娘なのである。オレステスとピュラデスは能無しに描かれていると思われた (ここは余り自信がない) 。アナグノリシスの場面も、アリストテレスでは否定的にしか評価されない「印」によるものだが、ここではその場面を見せるよりも、それがエレクトラに与えた力を見せることに重点がおかれていたので、なんら不満は感じない。

 セットも革新的だが奇をてらっているようには見えない。舞台中央に回転舞台が設えられ、その上に二階建ての塔、それが館を表す。舞台が開くとコロスが登場し、塔を分解してゆく、すると二階から階段が前後に二つ広がってゆく。塔は随時回ってゆき (回り舞台) 、登場人物の出入りに役立つ。母殺しの場面、アイギストスのアナグノリシスの場面もその塔の中でなされる。金属の軋みの音がやや気になったが。

 客席の反応もこれまでのこの劇団に対するものとしては僕の知る三本の中ではベストだった。コロスも民俗舞踊に逃げることもなく、だれにでも納得できるようなものになっていた。つまり、劇全体の構造に溶け込んでいたのである。あまりコロスのカットがないなかでそういう上演が可能だったのは演出の配慮がきっちりしているためだ。エレクトラは熱演。

芸術劇場『トロイアの女たち』(Theatro Brachon, MelinaMerkouli 八月31日)

スタディオ近郊、ビロナ地区にある野外劇場。後ろが崖状 (ギリシア語でbrachoi とはこのことを意味していたのだった) になっていて、それも中央に大きな窪みがあるためか、やたらと残響の多い、音響効果の良い劇場である。冒頭、どこかで聞いたメロディをハミングしながらコロスが登場するので、よく考えてみると、古代ギリシアの音楽というレコードにあったやつで、BBC のシリーズのテーマになっていたものであることを思い出す。

女たちがボロボロのトランクを持って登場するところでは随分期待させた。

しかしそれ以後の展開はまあ期待外れといって良いもの。芸術劇場は力を失ってしまっているように思った。舞台上はぼろ布が敷きつめられた上に鉄パイプが一本立てられている。鉄パイプは舞台右側の背景にも何本か立てられているが、あとで活用されるわけではない。女たちはボロのブラウス、特に古代は意識しない服装。ヘカベは黒、ヘレネの赤いドレスがやや印象的。台詞にはあちこちにカットがあるが、それほど大きなものではない。

最大の特徴は、コロスが殆ど歌わないことだろう。ギリシアでの上演としてはきわめて珍しいのではないか。古代のメロディ( 常に同じもの) をハミングするが、それにのせて朗唱を行うのが殆どである。だが、朗唱はかなり凝っていて、輪唱風になったりと、形態はさまざまである。メロディとこの朗唱とが上演を緊迫感で統一していたのは事実だが、他には殆ど特筆すべきところ、驚くようなところはない。登場人物のなかでヘレネが一番美しいだけでなく、可憐にも見えるのが興味深いと言えば言えるか。だがそのヘレネはメネラオスを殆ど動かすことが出来ず、初めから敗北を約束されたようなもの。ヘカベのくだくだしい議論もそんなに必要性が感じられない。

見ていて良かったのは他にはアンドロマケとヘカベの半行対話が殆どかぶさるように演じられていた箇所。ただし、子別れの場面になると (ここは見せ場だと思うのだが) ありきたりになる。

ギリシア語学校の教師も見たそうなので尋ねると、「中くらい」と評価していた。いくつかアイデアはあるものの、ほとんど何の努力もしていない上演というのが印象である。それ以外には殆ど特筆すべきところはない。

ラリッサ公立劇団エウリピデス『エレクトラ』(Theatro Brachon,九月2日)

Theatro Brachon は直訳すると、「岩の劇場」の意味。今回見直すと、この劇場は舞台の背後三方を巨岩に囲まれていて、その結果、かなり長い残響が残る独特の音響効果が認められるのだった。台詞の箇所ではそれが時々こだまのように聞こえ、やや聴きづらいこともある。しかし音楽が絡むと実に素晴らしい音響になる。イロヂィス(ヘロデス・アッティコス音楽堂)で見るよりもこの独特の劇場のほうが感銘は深いかもしれない。

さてラリッサの上演だが。中央背景にあばら家の正面と入口をしつらえたセットと、オルケストラの真ん中には一メートル四方ほどの小さな台、右側に大八車という実に簡素なもの。

冒頭、コロスが弦の持続音にあわせて入場してくるところから、強い緊張が舞台を充たす。いわばここで上演の成功は約束されたようなもの。コロスは黒い民俗衣装でヴェール( と言うか、顔だけを出す帽子) 、エレクトラは白い衣装に黒いショールをかけている。どちらも質素な衣装だが特にぼろをまとっているわけではない。エレクトラが水汲みから戻ったとき、彼女は嘆きのあまり歌い・踊りだすのだが、ここで、感情の激しい昂りが自然に歌と踊りに昇華してゆくプロセスがまず示される。この演出で面白いことの一つは、原文で叙情的韻律になっている場所にすべて音楽が使われていることである。常に歌があるとは限らず、時には音楽に朗唱がのることもあるが、それでも歌舞の果たす役割はギリシアのほかの劇団による悲劇上演と比較してもずっと大きい。それを二時間に収めるために( ため、かどうかは問題だけれど) 台詞は随分とカットされている。エウリピデス独特の人生訓はほとんどすべて切られていた。これは妥当な処理だろう。コロスは一面だけ皮のはられた大きなタンブリン( 太鼓) を持っていて、それを叩き、舞うのである。ダンスはフォークダンス( ギリシアの) そのもの。それもとくに視覚効果を求めない、つまり見せるためのダンスではなく踊るためのダンスである。

台詞は特に悲劇調を感じさせるものではない。エレクトラとオレステスの言葉は早く、切迫感を盛り上げる。

だが、この上演でもっとも感動的だったのはアイギストスの殺害の成功を告げる使者の場面である。この長台詞は、リズミカルに打ち鳴らされる大太鼓にのせて語られ、場面が佳境に入ると使者の動きは徐々に踊りに近いものになってゆく。感情の高揚がそのまま肉体の動きに反映されてゆくのである。その言葉はまずコロスに、次いでエレクトラに影響をあたえ、彼女たちの体の動きも徐々に興奮の動きから踊りのそれへと移りそうになって行く。ダンスそのものの始まり、起源がそのまま認められるような動きだった。しかし完全な踊りに移行することはない。この場面がもっとも感動的だった。

あとは付け足しというところ。それ以後、舞台は徐々にデクレッシェンドを迎える。躊躇するオレステス、クリュタイムネストラとエレクトラの対話はやや緊張感を欠く。エウリピデスにおいて最も重要だったかもしれない母殺しのテーマの影は薄くなる。エレクトラはあくまで強情であり、弱さを見せない。最後のディオスクーロイの場面は、意図的でもあるのだろうが、退屈だった。

ネア・スキニ『アンティゴネ』

この夏のギリシアで最後に見た舞台。新劇風。音楽は役者のハミングのみ。台詞を極端に重視し、動きも極めて少ない。セジェスタで見たドイツ語の『アンティゴネ』に近い。ただ、こちらはもともと室内劇場のための上演だったようで、野外劇場ではかなり無理がある。場所と上演日を書いていなかったが、記憶ではセアトロ・ブラホン。

コロスは俳優が兼ねる。掘り炬燵を囲んで全員が登場し、そのあとで役割のついた人間がその間だけコロスでなくなる。

最初は随分と緊張を強いる演出だった。言葉の響きが前面に出て、行動が背景に退くために、観客は耳をそばだてて聴かねばならない。翻訳もそうしたものを使っているのか、外国人が聞いても随分と美しいように思われた。

だがそれだけでは野外劇場に集まる観客を納得させるには十分ではない。途中でかなりだれてくる。かなり涼しかったこともあって途中で席を立つ客が多い。観客の集中の仕方が、室内の劇場と野外劇場とでは異なるのかもしれない。

上演台本付きのパンフレットは1500ドラクマと今回一番高かったが、近代における『アンティゴネ』の上演史がついていて、これは面白いかもしれない。