演劇集団円 ジロドゥ 『エレクトル』

02.6.12 新宿・紀伊国屋シアター

訳 鬼頭哲人
演出 前川錬一
出演 野村昇史/井上倫宏/田原正治/上杉陽一/平木久子/唐沢潤/入江純/高橋理恵子/他

ヒットラーの脅威が迫る1937年の作。ジロドゥの作品は、『トロイア戦争は起こらないだろう』くらいしか知らないが、多くが、ギリシア神話やギリシア悲劇をパロディにしつつ、現代性を与えようとしているようだ。今回の『エレクトル』もその一つ。ここではエレクトラもオレステスも母親がアガメムノンを殺していたことを知らず、物語の中で突き止める、というより思い込んでゆく。エレクトルとクリテムネストルの争いはここでは、赤ん坊の時にクリテムネストルの腕に抱かれていたオレストが床に落ちてけがをする原因になったのはエレクトルなのかクリテムネストルなのかという、極めてくだらない、周囲をうんざりさせるような内容である。エレクトルの強情とクリテムネストルの強情は見事に鏡像になっている。学生に感想を聞いたら、「あの親子はうちの母と姉にそっくり」と言った人がいた。なるほど。オレストも別に復讐のために帰国したのではなく、エレクトラとの認知も物語が始まってそれほど時間も経たずに生じ、あっさりしたものだ。オレストはその後すぐクリテムネストルとの認知も果たす。前半は、伝統的なエレクトルのプロットを覆すことにのみ主眼が置かれているような展開である。だから、最初に観客に対し伝統的な「エレクトラ」の説明が欲しい。フランスの客は知っていても、日本の客はまず知らないのだから。舞台の中で説明に類した台詞はあるが、それ自体がエレクトラのプロットのパロディになっている擬似説明なのだし。

それが後半に入り、オレストが逮捕され(理由がよく分からない)、アルゴスに急にコリントスの軍勢が迫り(人工的設定)、事態が急迫を告げる中王妃の補佐であるエジストが王妃と結婚し王として町を救おうと決意し(男の下でないと軍隊が真面目に戦わないという、町が侵略されかかっているという状況の下ではありえない設定)、そのためにエレクトルの承認を求め(何故か不明)、エレクトルは町が滅びるかどうかよりも母親の不倫相手が誰なのかを知るのに夢中でそれに取り合わず、最後に自分の知りたい情報を聞き出し(でも約束したはずの承認は与えず)、結局エジストとクリテムネストルはエレクトルの承認なしに戦いに赴き(なんでそんなにエレクトルに頼ったのだ)、オレストは反乱する民衆(敵が攻めかかっている最中に反乱)に助け出されてエジストとクリテムネストルを殺し(真相をどうやって知ったのだ)、最後はアルゴスの町はコリントスの軍勢によって焼き払われ(反乱していた民衆も殺されるようだ)、廃墟の中に登場人物たちは夜明けの希望を見る(どんな?)と、理解困難な展開になる。

そして翻訳も物語りに対応するかのようにわけが分からないし、まるで和訳の練習問題を聞いているような直訳調。複数形はすべて「〜たち」になるし、文脈から分かる主語も省略しない。正確なのかも知れないが(それもかなり怪しそうだ)決して人が喋ることがない言葉が連なる。翻訳劇としてはほぼ最低の部類の訳。で、俳優も台詞を覚えるので精一杯。なにせ(直訳調のせいで)無意味に長い台詞だから、早口で感情の振幅は殆どなく、大体何を考えているのか分からない登場人物が殆ど(クリテムネストルとアガタだけがまとも)なので、感情をこめるのも難しいのだろうけれど、それにしても棒読み、よく噛むし、台詞の受け渡しも途中で入るわ間はあくわ。一番最後の台詞「それにはとても美しい名がついているのだ、ナルセルのかみさん。その名は、暁と言うのです」も、照明が気づかなかったのかちょっと噛んだためなのか、言い直してからやっと照明が変わる。今日は初日か?(初日に行った人の話だと、初日はさらに酷く、プロンプターの声が良く聞こえたそうな。)

さて、こういう困った人たちが世間にいないかというと残念ながらそんなことはない。正義を代弁していると信じ、それでなにが起ころうが意に介さない人たち、それに巻き込まれる人たちは確かにいる。演技にはその人たちの言葉を理解できるようにするという力があるはずだ。だがここでは彼らは外から描かれるに留まっている。せめて女の自己主張をはじめるアガタがもう少し類型的でなく、クリテムネストルの態度の変化がもう少しニュアンスを伴ったものであり、神でもある乞食がもう少し曖昧だったなら、棒読みのタイトルロールたちを補ってそれなりに魅力ある舞台が生まれていたのかも知れない。