わたしという現象(ロメロ・カステルッチ)、じめん(飴屋法水)

素晴らしい。宮沢賢治のテキストを素材にして、問題意識が重なりあう二つの短いが大がかりな作品の連続上演。

会場は夢の島の多目的コロシアム。千五百近いのではないかと思わせる観客が列をつくって入場を待っている。入り口でビニールシートと軽い棒で作られた白旗(かなり大きいけれど軽い)を渡され、それを持ってコロシアムに向かう。観客自身が、旗を持ったまるで無言のデモの集団だ。ゆっくりと行進を続け、多目的コロシアムを取り囲むように整列したところで止められる。旗を振り、その旗をござ代わりにしいて(この発想は上手い)、なだらかな坂になった草地に坐る。(正直、野外で草地の上に座るのは今は少しイヤだ。あとで早川マップで調べてみたら夢の島あたりは0.125μSv/hくらい。まあ心配ないかな)

中央のコロシアムには1000以上の白い椅子が整然と並べられ、そこが私たちの観客席なのかと思った。一番前の真ん中くらいの椅子に子供がマントを着て座っている。そこに大人が後ろから近づき、何か喋る(音は大きいのだけれど聞き取れない。賢治の一節なのかも知れない)。男がゆっくり引っ込むと、Domine Deusと繰り返す単調なBGMの中、一つ一つ、椅子が、音もなく動き、崩れ始める。

それは息を呑むような光景。一方で、それはモノによるパフォーマンス。重なり合い、うごめく椅子は、まるでいのちと意志を持った存在のようだ。出鱈目に重なり合っているように思えた椅子は、徐々に、二つの大きな塊となって、向こう側の土手に集まってゆく。二脚だけ、取り残される椅子(多分偶然だ)があることもパフォーマンス効果を高めている。他方で、それは春以来テレビで繰り返し見た津波の様子を否応なしに思い起こさせる(もちろん、「テレビで」みただけではない人にとってはこの部分は全く違う記述になるだろうけれど)。そのことが不快感を高める。その不快感は、椅子たちのパフォーマンスがおさまったあと、土手の向こうから白い衣裳を着けた何十人もの人間が這いずりながら転がり落ちてくる姿(BGMはMiserereに変わっている)によっていや増される。そして彼らの背後に立ちこめる水蒸気とそこから夜空を貫く青いレーザー光。

これらは、3.11とその後の原発事故を象徴的に再現したものに見えた。人が自分の理解や管理を遥かに超えたものに出会ったときに抱く畏怖を崇高(いくつかの限定条件がつくし、実際に被害にあった人にとっては崇高でも何でもないのだけれど)と呼ぶ習わしに従うならば、この再現は崇高に関わっている。そしてその再現は、まるでニューマンの絵画のように、美的な崇高になっていた。

かなり長い休憩の後上演された飴屋の作品も、同じテーマの延長線にある。それは様々なテキスト連関で満たされている。少年が地面を掘っている。出てくるのはゴミ、そして船、白い閃光を浴びて、船員が死んでしまうことになった船。この場所の近くに第五福竜丸が展示されていること、夢の島がゴミの埋め立てでできた島であることをへのあからさまな言及だ。そこにコーネリアス始め、「猿の惑星」の猿たちが四角い直方体を持ってやって来る。彼らはその直方体を据え付け、その前で演技を続ける。直方体は、少し表面がヨレヨレだが2001年のモノリスだし、それに触れることで猿は暴力を覚え、進化し、原子力を使うことまでできるようになった。「猿の惑星」のラストとモノリスはこうして一つの文脈に取り込まれる。

さらに新しい文脈。時は過ぎ、2050年になっている。2001年に生まれた少年は今や50歳。日本はなくなり、人々は逃げだし、彼はマレーシアに住んでいる。彼はマレーシアから飴屋さんに電話する。日本全体が一つの夢の島だったのだと。

これは何なんだろう。これはフクシマがもたらしたかも知れない「ありえた現実」だ。風向き次第では、あるいは4号炉プールへの奇跡的な水の流入がなければ、あるいは東海第二発電所の水位があと50センチ高かったら、何年もの時間をかけて、多くの人が日本を捨てて難民にならねばならなかったかもしれない。黄金の島=夢の島は、夢の島=放射性廃棄物の島になっていただろう。飴屋は最後に、そのありえた未来を提示して舞台を終える。モノリスは倒れ、原子力は「夢の」未来ではなく人を傷つけ大地を「夢の島」に変えることしか出来ない。科学技術の最先端が原子力技術だとするなら、それは最初から最後まで間違っていた。格納容器から溢れた燃料棒を私たちがどうやって地層処理すれば良いのか僕にはわからないし、それは未来に押しつけるんだろう。事故のおかげで、それは放射能を環境に垂れ流しながらの処理になるのだろう。モノリスは倒れ、この線に希望はもう残っていない。