アンティゴネの悲劇とクレオンの悲劇
ソフォクレス『アンティゴネ』 ギリシア国立劇場 (東京)2003.03.16

有楽町の国際フォーラムCホールでの最終日の上演。「アンティゴネは最初から正しく、クレオンは最初から間違っている」と述べたのはイギリスの古典学者マルコム・ヒースだが、国の掟と神の法との対比と言われても、その国の掟なるものがクレオンの布告であり、その遵守にこだわっているのがクレオンだけであるというソフォクレスの悲劇の状況のもとでは国の掟に何の権威も説得力もあるまい。すでに書いたように、エテオクレスの死によって予期せず王権についたクレオンの王としての最初の布告であり、それが守られるかどうかで問われるのは彼の権力でしかない。コロスを含め、彼以外のすべての登場人物が、アンティゴネに同情的でありクレオンの布告に批判的なのである。クレオンの布告に対するコロスの最初の反応からして、「死人に対してであれ、我々のように生きている人間に対してであれ、どんな布告でもだせるのが王様なのでしょうから」。この反語を聞き逃すことは難しい。

予期せずして権力についたクレオンは最初から無理をしている。彼にとってすべての異論は権力への脅威だ。だから自分に反対するものはすべて「買収された」か「女の奴隷」になっているとしか思えないのである。判断力の欠如が彼の側にあるのは最初から示されているが、自明になっているわけではない。最初は一定の正当性を持った議論のように聞こえ、何度も翻意の機会を与えられつつそれを無視する姿に、徐々に彼の無能が明らかにされて行く。その様子をソフォクリス(クレオン役)は図式的なほど明確に示す。それはクレオンの人となり(エートス)が示されてゆくプロセスでもある。そこにクレオンの悲劇が生じる。しかしクレオンは特にたちの悪い人間ではない。頑なで、愚鈍で、支配者として不適切であるに過ぎない。アリストテレス的に言えば、これもまた「ハマルティア(過誤)」の悲劇なのである。邪悪の故にではなく、何らかの大きな過ちの故に取り立てて優れても劣ってもいない人間が破滅するとき、我々は彼にあわれみとおそれの感情を抱くというのがアリストテレス『詩学』の核だ。このハマルティアは判断の過ちであり、無知である。クレオンの間違いは大きいが、しかし彼はアンティゴネを殺したわけではない。

他方、アンティゴネには悲劇は全くないように見える。芝居が始まって五分もたたないうちに「美しき死」を声高に宣言する姿は、戦士・殉教者ではあっても悲劇のヒロインではない。彼女の目的は最初から象徴的な埋葬によって死刑になることにある。彼女の立場で、兄弟を弔うという「神の掟」に従うには他に方法はない。彼女が語りかけている相手は歴史だ。そしてアンティゴネの悲劇は、実はこのもくろみが挫折すること、クレオンが彼女を殺さないことにある。その代わりにクレオンは彼女を地中の洞窟に放り込む。生者と死者の境界が彼女の住まいになるのである。アンティゴネはもはやどちらの側の住人にとっても「異界」の人だ。このクレオンの措置によって彼女は「奪冠」される。恥ずべき死としての「首くくり」しか彼女には残されていない(アンティゴネの死についての理解は名古屋大学の吉武純夫さんの西洋古典学会での発表に負うところが多い。僕が誤解しているところもあるだろうが...)。アンティゴネの最後の嘆きはこの文脈で理解すべきである。

今回のギリシア国立劇場の上演だが、会場に問題がある。横幅がギリシアでの舞台に較べてずっと狭いため、印象的だった大きな壁面を利用することが出来ずネオン管で代用されている。奥行きはあるのだが客席が一階席は舞台より低いので視覚的に感じ取れない。確かに、それを補うために日本公演では舞台に傾斜をつけていたが、それでも随分窮屈だ。

それ以外の印象はほぼサモスで観たときと同じ。アンティゴネはギリシアよりもこなれてきたと思う。不自然で大げさに感じた身振りが、より板についたものになっており、不満を感じさせない。この女優さんは、ラリッサの伝説的な『エレクトラ』の主役だった。道理で類似を感じたわけだ。この劇団のエウリピデスの『エレクトラ』を僕は十年前に観て、日記に次のように書いていた。「だが、この上演でもっとも感動的だったのはアイギストス殺害の成功を告げる使者の場面である。この長台詞は、リズミカルに打ち鳴らされる大太鼓にのせて語られ、場面が佳境に入ると使者の動きは徐々に踊りに近いものになってゆく。感情の高揚がそのまま肉体の動きに反映されてゆくのである。その言葉はまずコロスに、次いでエレクトラに影響をあたえ、彼女たちの体の動きも徐々に興奮の動きから踊りのそれへと移りそうになって行く。ダンスそのものの始まり、起源がそのまま認められるような動きだった。しかし完全な踊りに移行することはない。」今回のアンティゴネの嘆きの様式性もその延長上にある。感情の高まりが日常的な動きと世界から人を解き放つが、それはまだ舞踊にはならない、そうした場に成立する様式性がここでも目指されていたのだろう。しかしそれが『エレクトラ』のときのような圧倒的な感動をもたらすことはなかったが、ある種演技スタイルとして確立したせいかもしれない。

コロスの積極的な行動への参加も印象的。コロスが「観客代表」とか「市民代表」とか言われるのはギリシア悲劇の実態と異なるが、この上演ではコロスはクレオンに異議を唱え、食ってかかり、最後には見捨てる。たとえばアンティゴネが閉じこめられた後、コロスは神々を蔑ろにしたために滅ぼされた英雄たちを歌うが、それをここではクレオンに直接ぶつけ、劇的緊張を作り出している。