アルゴス坂の白い家 (パンフレット)について

あんまり特定の人の文章だけを否定的に評価していると、粘着のKY(空気読めない人のことらしい、パンフに書いてあった)になったようで自己嫌悪ものなのだが、「ギリシア劇の現代化」についての文章の間違いなので一応指摘しておこうと思う。そう、著者は岩淵達治、パンフレットの24-25ページだ。

まず人名表記から。この人はこの手のことに煩くて、アンティゴネでもフランス語ならアンティゴーヌ、ドイツ語ならアンティーゴネ、ギリシア語ならアンティゴネと使い分けるのだが、その割にはギリシア語の音引きがあったりなかったりで、アンティゴネとアンドロマケーという表記が並ぶ。音引きありは他にホメーロス、『イーリアス』、なしはオイディプス、クレオン、イスメネ、オレステス、エウリピデス、アリストテレスなどだ。端的な間違い表記はクリタイメストラ。これは、クリュタイメストラが正しい。ソフォクレスはクリュタイムネストラだっけ。「アルゴス坂」本編も、人名表記は結構正確だったのに(音引きはなし)、クリュソテミスだけがクリソテミスになっていて、パネルのギリシャ語でもアクセントなしで可哀想だった。「りゅ」は日本人には苦手な音なのかなぁ。変な表記はデウス・エックス・マキナだ。なぜ撥ねる。「ホメーロスの書いたトロイ戦争」ってのも気持ち悪い。「ホメーロス」なら「トロイアー戦争」、「トロイ」なら「ホーマー」になるべきだ。ついでに言うと盲目の口承詩人ホメロスは「書いたり」なんかしていない。また、一カ所、エウリピデスの悲劇の話なのに表記がフランス風のままなところがある。

次に事実上の間違い。「ギリシア劇が上演されたのは、一九五八年、東大のギリシア劇研究会が日比谷音楽堂で『オイディプス王』を上演したのが最初である。」最初は芸術座で19116年のこと。東大のは「ギリシ悲劇研究会」(人の間違いを指摘する箇所で自分が間違ってどうする→俺)。「ラシーヌはギリシアの原典を知らない観客にも分かるようにと、ギリシアではあり得ない部分、例えばトロイ落城のとき直ちにギリシア兵に投げ殺された遺児を生かしておいたり、ピュルスの戦利品だからいつでも側女にできるアンドロマックに正式の結婚を申し込もうとしたりというところは野蛮な風習としてカットした」と。文の構造がつかめない。最初の部分は、おそらく、アンドロマケとヘクトールの子アステュアナクスが『トロイアの女』でギリシア兵に殺されたのに、ラシーヌ版では生きていたことを指しているのだと思うが、アステュアナクス(=スカマンドリオス)が生き延びてトロイアを再建するという異版はギリシアに既にあり、「あり得ない」ことではない。その場合、「投げ殺され」はしなかったというだけのことだ。後半はちょっと正しい文を再構成できないのでパス。どういうことなのだろう。

『蠅』や『アンティゴーヌ』は戦後随分と上演されたが、原典のギリシア劇の基礎知識はそのころはお粗末だったから、サルトルが『蠅』で使ったアトレウス三部作を知っている観客など殆どいなかっただろう」アイスキュロス全集は昭和一八年に既に内山敬二郎訳が出ている。まあ、時期の問題もあり、読んでいる人が多いかどうかはまた別の問題なのは確かだ。この辺は同時代を生きた人の実感だろうから、後の世代はとやかく言えない。

デウス・エックス・マキナという仕掛けは、ハッピーエンドを持ち込むための仕掛けだから、純粋な悲劇という形式とは矛盾しないだろうか」。現存悲劇中では最初に機械仕掛けの神を持ち込んだ『メデイア』も、『ヒッポリュトス』も『バッカイ』も『エレクトラ』も別にハッピーエンドではない。ハッピーエンドを持ち込むために使われた例が結構あるのも確かだが、そのための仕掛けとは言えない。「決着をつけるための仕掛け」くらいが妥当なところだろうか。『フィロクテテス』『タウリケのイピゲネイア』、『ヘレネ』、『オレステス』、『アンドロマケ』は確かに「ハッピーエンドを持ち込む」ために登場している。『嘆願する女たち』(テオロゲイオン(屋根)からだけれど)と『イオン』はハッピーエンドが確定してから神様が出てくる。

ただ、機械仕掛けの神はエウリピデスが持ち込んだもので、ソフォクレスの現存作品では『フィロクテテス』の結末にヘラクレスが登場する程度(これも多分メーカネーには乗っておらずテオロゲイオンからの語り)だから、ソフォクレスこそが「純粋悲劇」と考えるならば、岩淵の疑問は成り立つようにも思う。

しかし、オレステスを復讐女神が襲い、その行為の是非がアテナが主催する裁判で決着をつけられるという伝統は、アイスキュロス以後かなり確定した伝説要素で、この芝居で登場人物が決着をつけてくれる神を待ち望むのは「純粋な悲劇」という観点からそんなに変じゃない。ソフォクレスの『エレクトラ』はこの要素を取り入れていないが、この要素と矛盾するわけでもない。エウリピデスの『エレクトラ』『オレステス』は結末で神が決着を予言する。オレステスへのアテナイでの審判は、アテナイの裁判制度の由来譚になっているので、アテナイ人の作家にとって変更しにくかった部分だっただろう。

純粋な悲劇がハッピーエンドと矛盾する、というのも良く分からない。アリストテレスの『詩学』は13章では「中間的人物の破滅」を悲劇は描かねばならないと述べていて、アンチハッピーエンドのように読める。しかし、『オレステイア』、(ギリシア人にとってはハッピーエンドの)『ペルシア人』『嘆願する娘たち』というアイスキュロスの過半数の作品、ソフォクレスの『フィロクテテス』を「純粋な悲劇」から除外するのはちょっと…。岩淵は「悲劇」という訳語のイメージに縛られすぎているように思われる。あるいはトラゴーディアをTrauerspielに置き換えているのかもしれない。ちなみに、アリストテレスの『詩学』も、14章では、ハッピーエンド型のパトスを一位に置いている。

さて、ここからは急に別の話題。「テアトロ」11月号について。巻頭・リレー劇評で渡辺保が『エレンディラ』を誉めていて、私と評価が正反対だったので悲しかった。私「ナイマンは良いけれどテキストが冗長」渡辺「テキストは簡潔で素晴らしいがナイマンは駄目」。うーーむ。

ちなみに、「空気読めない」についてはこの↓AAが好きだ。

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