劇団AUN トロイアの女

出演 ヘカベ 沢海 陽子 タルテュビオス星 和利 カサンドラ長谷川 奈美 アンドロマケ千賀 由紀子メネラオス中井出 健 ヘレネ坂田 周子 ポセイドン吉田 鋼太郎 太宰治 岩倉 弘樹
演出・構成 吉田鋼太郎  2006/07/28 明石スタジオ

エウリピデスの『トロイアの女』を、冒頭のアテナなど、若干の場面を省略したものの、基本的には全編通して演じた上演。

AUNは蜷川ギリシア劇には不可欠の名優吉田鋼太郎(そう思うのは私だけだろうか、彼の出てくる芝居では目立って彼が上手に見える)が主宰する劇団で、吉田以外は比較的若い人が多い。

私は、何となく、この劇でも吉田がヘカベをやるのかなと思っていたら、冒頭のポセイドンだけで少し残念。上演自体は若い女性たちが中心。

で、実は冒頭のヘカベの嘆きからカッサンドラの場面あたりで帰ろうかなと思ってしまったほど、違和感がありまくりだった。最初、太宰治が戦死した友人のことを書きつづった文章を男が読んでいる。その友人からの手紙には「私は戦争のために死にます。先生は文学のために死んで下さい」と書かれていたことを太宰が紹介して暗転、舞台はトロイアに移る。テーマは「文学と戦争」だ。そしてこれはエウリピデスのこの作品と現代とを結びつけるキーワードに他ならない(サルトル=カコヤニス版など)。この場面はそのまま、本編の始まりの、ヘカベの絶望へと接合するはずだ。

ところが、このヘカベにモノローグの表現力がない。若すぎて声に張りがあり、エネルギーに溢れすぎている。この劇のヘカベは最初から絶望の中にあり、最後にはより深い絶望に陥るのだと何度か書いて来たが、ヘレネのシーンの扱いによっては、絶望→上昇→絶望という演出も可能である(後述)。しかし冒頭はいずれにせよ深い苦悩に満ち、立ち上がることもままならない老婆を描き出さねばならない。それがまったく出来てなくて、単に小難しい台詞を一生懸命語るだけなのにげんなりする。カッサンドラも同じく一本調子だ。カッサンドラの場合には設定が若いので、年齢の不満ではなく、第一に文語調の翻訳と少女の狂気をうまくかみ合わせることが出来なかったこと、第二にカッサンドラの台詞の中の狂乱の予言と人間的な洞察(死んだトロイア人たちはギリシア人たちよりもずっと幸せだった。彼らは自らの土地と家庭を守るために戦ったのであり、他人の女のために、異国の地でいたずらに死んだギリシア兵とは違うのだ)との間に演技上の区別がなく、わめき立てているだけだったのがうんざりした原因。

アンドロマケの子別れになって、ドラマが支配的になるとようやく舞台は生き生きと動き始める。文語調の翻訳(あえて昔の訳を使ったと演出家が教えてくださったが、なるほど。)距離感と格調とが得られて好ましい。短くきびきびした訳で、おそらくは英語からの重訳(キュクロプスをサイクロプスと言っていたような気がする。一瞬のことで聞き違いかもしれない)だろうが、舞台の言葉としての違和感は少ない。多分文語調でドラマを行うには充分の訓練がなされたのだろう。でもその口調でナラティブを語る(冒頭のヘカベやカッサンドラ)にはまだ不充分だった。

このドラマはヘレネとのレトリカルな応答で頂点に達する。ヘレネはそれなりに嫌みな美人をよく演じていたし、応答になるとヘカベもまあ大丈夫。ここはヘカベは元気を出さねば駄目なところだしね。

ここでもヘレネが負ける演出。シラクサのと同じだ。最近観るのはヘレネの敗北が確定する上演ばかりだ。昔は、結構、サルトル版の影響で、アゴーンに敗れたヘレネがナイフで心臓を突こうとしてメネラオスに払いのけられる、というシーンを入れて、ヘレネの実際上の勝利を印象づけている上演があったように思う。

この点について、確かにエウリピデスのテキストに、ヘレネの事実上の勝利を示唆する台詞は一カ所なくもない。

【ヘカベ】 だが、あんたと同じ船に乗せぬように。
【メネラオス】 どうしてだ? 彼女《あれ》が前より重くなったとか?
【ヘカベ】 いつまでも忘れぬのが恋じゃ。
【メネラオス】 恋に心が狂うたらばな。でもあんたの望む通りにしよう。わしと同じ船には乗せぬ、あんたのいうことも道理じゃ。アルゴスへ着いたら、不埓者は不埓者らしく成敗する(内山敬二郎訳)

しかしこの箇所でのヘカベの台詞は、ヘレネとの論争の前とほぼ同じであり、とくに、ヘレネの振る舞いとメネラオスの反応に危惧を抱いたという風に解釈する必要はないので、古代ギリシアでの上演としてはヘカベの勝利で正しいのだろう。しかし、ギリシアの観客はすべてが、ヘレネがメネラオスに殺されたりはしないことを知っていたのであり、だからこそ、この台詞は皮肉な滑稽として機能しうるのである。現代の日本の観客に同じ知識は期待できないので、この台詞を活かすためには、メネラオスへの危惧を正当化する試みがあって欲しいものだ。そうしないと、ここでは『ヘカベ』と同様の、ただしより安易なカタルシスが得られてしまい、あとのアステュアナクスの遺骸を前にした嘆きがやや浅くなる。この上演では女たちはヘレネにトマトを投げつけているが、美の化身であるヘレネが奴隷女に汚されるのを男たちが放置するというのはちょっと…

アステュアナクスへの葬礼の場面では、また、ヘカベの表現の弱さが目立ってしまう。おばあさんが孫に先立たれる嘆きを表現するには彼女の若さはちょっと苦しい。