TPTの『バッカイ』

演出:熊林弘高、台本:木内宏昌
出演:ディオニュソス・アガウェ 佐藤オリエ、ペンテウス 進藤健太郎、カドモス 中嶋しゅう、ティレシアス 花王おさむ コロス 中川安奈、若松智子、 牛飼い 月船さらら

久しぶりに見た最低のギリシア悲劇上演(劇団潮流の『オイディプス王』はもう二十五年ほど前だし、愛知芸術劇場こけら落とし(正確には違うが)の、これまた『オイディプス王』は十三年前、とすると十数年に一度のレベルか)。

演出は『バッカイ(バッコスの信女たち)』という作品と現代との接点を求めて苦労し、いろいろ台本に手を入れ、そのことに後ろめたさを感じ、パンフレットでは何度も、「意図的に」改変したことを弁明している。でもこの上演が最低の出来になったことの原因として台本の改変の果たしている役割はそれほどは大きくない。

『バッカイ』はギリシア悲劇最初の徹底したメタ悲劇だし、歴史上最初のポリフォニー演劇だし、カーニヴァル的で、グロテスクな滑稽にも満ち、ポストドラマ演劇でもある。現代性なんて眼がついていれば誰にでも見つけることが出来る。

でも、この演出家の言う「現代性」とは、小じゃれたブティックの前にあるオープンカフェでワインを傾けながらセクシーなポーズでたる〜い台詞を言う女たちがバッカイであるような、そういう「現代性」だ。でも根っこが新劇だからだささも残りまくりで、徹底できない。

本人たちが気にしているテキストの改変だけれど、プロロゴスとエクソドスのディオニュソスが神としての台詞を語る部分のカットはまったく「あり」だと思う。それでディオニュソスという神の実在性が括弧に入れられることになる。実際、19世紀末から20世紀初頭の『バッカイ』解釈には、この劇に出てくるディオニュソスはいんちきだというものが結構ある。ペンテウスは狂信者たちの集団リンチにあったのである。でもこの解釈は「あり」だが、取り立てて現代的ではない。まあ、20世紀前半的ではある。

出来が悪くなった原因を列挙してみる。

クールでおしゃれなコロス。こいつらが神を敬えとか言っても、ギャグにしか聞こえない。

セット。(既述+しょぼい)。

普通に「ダンディ(藁)」なおやじのカドモスとテイレシアス(この上演ではティレシアス。既訳のカタカナくらいはきちんと読もう)。カドモスは王位を孫に譲るんだよ。このカドモスは安倍次期総理(だろ)よりも若い印象だ。

若く美しい若者にも、性的にTransgressiveな存在にも見えず、ただ、若作りの男装のおばさんにしか見えないディオニュソス。これが最後にはアガウェになる。あわわ。ディオニュソスとアガウェを二役やらせてどーする。マッチョなペンテウスが女装するペンテウスになり、その役者がアガウェになるというエウリピデスの構成にはきちんとした意味がある。

冒頭で、女たちが全部バッカイになってしまったという設定なのに、牛飼いが女として登場。これも「おされ」な格好の牛飼い。

台詞の緊張感のなさ。ペンテウスは怒鳴っているだけ。ディオニュソスは普通の新劇調、バッカイのダークサイドが示される牛飼いの台詞では、バッカイは村を襲って子供をさらって、多分喰っちゃってるんだから(最後の点は諸説有り)、ここは台詞から出来事を観客が思い浮かべることが出来るように努力しなきゃ。女優の努力はくねくねとセクシーポーズを取りながら台詞を棒読みするという、別の方向に向かった。ディオニュソスが平和的解決を諦めて(それまでディオニュソスはペンテウスが自発的に町にバッコス信仰を導入するようにいろいろ努力してたんだよ)、ペンテウスを滅ぼすことに決めた瞬間の緊張感のなさには愕然とした。

ここはテキストに即してみる。状況は山のバッカイが村を襲って「略奪のかぎりを尽くした」のが知らされたとき。ペンテウスの選択肢はバッコスを受け入れるか、それとも、元々はテバイの女たちであり、自分の母や叔母たちでもあるバッカイを相手に戦争を仕掛けるか。コロスはバッコスを神として認めるように進言する。ここの訳も「独裁者に正しいことを言うのはちょっと怖いけれど、思いきって言っちゃおう。バッコスはどんな神よりも偉大な神だわ」と脱力感にあふれる言い回し。ディオニュソスは女たちを連れてくるからそれを見て判断しろとまで譲歩。かえってペンテウスの怒りを掻き立てる。内山敬二郎訳だとその後、

【ペンテウス】 わしの得物をこれへ持て! 貴様ももういうな。
【ディオニュソス】 ああ! ――あなたは山に集まってる者たちを見たくないですか?

ここでディオニュソスはプランBに移る。彼もまたある意味敗北したのである。今回の訳

【ペンテウス】 待ってください。山の中の女たちの群れを、一度その目で確かめたくはありませんか。

では単に唐突なだけ。「ああ!」と間で意味を持たせることがこのグループに可能だとも思わないが。その後の女装のペンテウスも異様さがない。かっこ悪い姿を俳優が見せたくなかったのか?

かなり意図的だと思われるテキストの改変。ペンテウスの最期。ペンテウスは樅の木に隠れてバッカイの様子をうかがおうとする。よく見えないと文句を言うと、ディオニュソスは「樅 の木の高い梢をつかんで引きおろし、次第々々に黒い地面に引張って来たのだ。弓を引きしぼるように、あるいは円い輪を描くのにコンパスをぐるっとまわすよ うにだ。まあ、そんな風にあの余所者は山の木を曲げて地面に届くようにしたのだ、まったく人間業《わざ》じゃない。そこで、ペンテウス様がその樅の木の枝 にお乗りになると、あいつはその樅の枝を両手で静かに上へ戻す、あの方を落さないように気をつけてな。(内山訳)」「そしたらあの男はペンテウスをもみの木に登らせたの。谷間にピンとそそり立った木のてっぺんに。」超自然的な要素を消そうというのは分かるけれどさ、残している箇所もあるし一貫性がない。それに誰かを「もみの木に登らせる」ってどうやるんだ?「よく見えないよ」「じゃあそのもみの木のてっぺんまで登れば」「うんそうしよう」で、バッカイから丸見えのところまで自分の意志で登る、って馬っ鹿じゃないの。

最後に母に懇願するペンテウスの台詞「私ですよ、お母さん、あなたの子のペンテウスです。エキオーンの館であなたが産んだのです。お母さん、私を憐れんで下さい、私の心得違いのために、御自分の子供を殺さないで下さい」はカット。「何かを口走った」だけ。大事な台詞なんだけれど。

ペンテウスを獅子の子と思ってその首を掲げ揚々と街に戻る狂気のアガウェは、半透明のビニール袋に首を入れて食事の仕度をする陽気なアガウェになってしまった。Kの文字が足りないんだよ。最後にディオニュソスが出てこないので、このアガウェ、なぜテバイを「離れねばならない」のか客席には分からないまま(原文に欠落があるから神話から補うべき)いつの間にかテバイを出て行くことになり、自分が殺した子供の埋葬もせず、ビニール袋から首を出しもせず、子供への愛おしさを欠片も示さず、コロスに「見送ってくれる?」と聞き、すたすたと退場。もともと自分の子供が嫌いなのか?

オシャレなギリシア劇が必ずしも悪いわけではない。その昔のロマンチカの『メデイア』は結構よかった(特にメデイアの哄笑が)。オシャレじゃない人間が「こういうのってオシャレね」と考えた結果だから何にも心を打つものがなくなってしまったのだろう。『バッカイ』のキモは人間の抑圧された二重性だ。バッコスはそれを引きずり出す。だからこそ、彼は演劇という、この二重性を引きずり出すことを強いる芸術の神なのだろう。それはとても現代的だと思うのだが、この人たちにとっては「古くさい」のかもしれない。でも、それなら、『バッカイ』なんぞ取り上げねば良いのに。