ベルリナー・アンサンブル 『アルトゥロ・ウイの興隆』

演出:ハイナー・ミュラー
出演: アルトゥロ・ウイ:マルティン・ヴトケ (他はこんな公演だからどこででも見られると思うので省略)

伝説的になったハイナー・ミュラー演出、ベルリナー・アンサンブルの『アルトゥロ・ウイ』が日本にやってきた。

グロテスクな笑いに満たされた『ウイ』。ウイは最初犬として登場し、舞台上を四つ足で駆け回り真っ赤な舌を出してハァハァ息を吐く。役者に身振りと語り方を教わる前は、聞くに耐えないほどのうわずったちんけな語り方だし、醜悪そのものの仕草だ。教わって徐々に身につけてゆくのも隙がないし、最後には、醜悪さと卑小さを残したまま押しつけがましく迫力が出る。確かに、初演から十年を経てやや動きのスピードは年相応になったのかもしれないが、それでもすごい迫力だ。なんか圧倒されて言うべきことがほとんど何も見つからない。

アルトゥロ・ウイという芝居は、ヒットラーの権力掌握とオーストリア合併までをシカゴのカリフラワートラストに寄生するギャングののし上がりに見立てて描いたもの。その意味で、当時の歴史を知っていた方が対応がはっきり分かるし、ブレヒトはスクリーンで一々の対応を示したが、現代ドイツでの上演ではこれは不要だろう。同じようにやったとしても同時代のブレヒトとは効果は異なる。日本では、一対一の対応は悪しき意味での教育劇になるだろう。

一から十までヴトケの『ウイ』だ。人間が、ここまで卑しくなることができ、それにもかかわらず権力の頂点にたどり着けるのか、その一挙一動にわれわれの目は釘付けになる。かなり滑稽なのだが、グロテスクすぎて笑うことすら最初は出来ない。ようやく呪縛から解放されるのが老役者から演技を習う場面だ。そうしたウイ=ヒトラー像を初めて目にした。演技を学び、大衆への語り方を覚えても、ウイの姿に何一つ変わりのないことは、Glaubenを連発するローマとの対話で明らかだ。そして最後の墓場でのダルフィート夫人のレイプ(夫の死骸の上で)まで、ウイは人間が自分に認めることを恐れる卑劣な狂気を前面に出して疾駆する。ヒトラーとの表面的な類似の有無など問題ではなく、ヒトラーと彼に心酔した人間たちの本質的な野良犬性を明確に舞台に示す。でありながら、型どおりとか、形式性とかいった要素は少しも存在しない。これを見た後では、これ以外のやり方で『ウイ』を上演することは考えられなくなるほどであり、なおかつこのように『ウイ』を誰かがもう一度やることも考えられない、ある種の完成された芸術を前にした驚きがある。(といいつつ、2002年のアル・パチーノの上演が気になる。どんなんだったんだろう。)異化効果の演技がここまで迫力を持つことが出来るんだ。

日本のブレヒト上演のつまらなさの一つの理由に、ブレヒトとつきあったり教えを受けたり芝居を見たりした知識人によるブレヒトの権威化、「正しいブレヒト」の追求がある。ブルックの『夏の夜の夢』が上演される前の、あるいは鈴木の『トロイアの女』が上演される前のシェイクスピア受容やギリシア悲劇受容のあり方に似た状況が、ブレヒトに関してはいまだに存在していた。それがここで完全に破壊されたという意味でも、この上演は大きな意味を持つだろう。彼らは弱々しいyes, butを語るのみだ。なにせベルリナー・アンサンブルが破壊的ブレヒトを持ってくるんだから。シェイクスピアやギリシア悲劇の場合のように、今後のブレヒト上演に今回の舞台がどんな破壊力を持つのか、それを知りたいから新国立の、『肝っ玉おっ母』も見に行こう。

音楽について。岩淵達治の解説ではこの芝居は「魔王」で始まり、ヴェルディの歌曲が出てくる。ローマの亡霊が出てくる箇所では、愛国的軍歌「よき戦友」が使われているそうだ。「歌詞まで知っているドイツ人には、皮肉がよく伝わっただろう」。ただし、「この歌の潜在的喚起力は、日本人には全く伝わらないだろう」とのこと。そうだろう。だがそれって何か少しでも本質にかかわる問題か?ローマの亡霊の場面で「よき戦友」ね、にが笑、ってだけではないのか?そこまで音楽について言うなら、どうして、圧倒的に作品を支配する、Paper Laceの The Night Chicago Diedについて語らないのかなぁ。アル・カポネが警察隊と銃撃戦を行った(フィクション)夜のことを、「シカゴが死んだ夜」だと歌っている。aufhaltsamにする一つの方法を、繰り返し提示している歌詞ではないか。