作品の賞味期限

この話題は同僚の植村先生のブログによる。読んだとき「変なの」と思って突っ込みを入れたんだけれど、うまく対話が成立しなかったように思うので独り言モードで書く。「変なの」と思った理由は二つ。第一(これがとても大きい)は、とっても単純な比喩を使って言うと、賞味期限切れの魚にうまく飾り付けをして見た目鮮やかにして出されたとき、そしてその料理がとても不味かったとき、料理人の腕を誉めるのですね、という吉兆の板前なら泣いて喜びそうな寛大さへの違和感。そもそも賞味期限切れの食材を使うことは言語道断としても、ちょっと鮮度がいまいちなヒラメを出さねばならないのなら、刺身にするのではなく、濃いめの汁で煮付けにするとか、(古ビラメの)ムニエルにするとか、いろいろ手はある訳で、演出が、作品を目の前の観客に向けて読み解くこととは独立に跳んだりはねたりにらみつけたりさせてもそれが面白くなることなどないし、そうした演出を誉めてはいけないだろう。(例外を思いついた。カニンガムのところでは、音楽と振付と装置は全く独立だ。そう言うものとして提示したことを誉めるのならば、作品がつまらないにもかかわらず、ではなく、作品がつまらないことも面白さの理由になりうる。)

第二は、そもそも作品の「賞味期限」って何よ、という問題。

二個目の方についてもう少し議論を聞きたいなぁと思ってうかがったら、「私が「賞味期限が切れている」と思ったのは、主として、孤独な個人vs9人家族で表現された優しい世間という物語の設定についてです。9人家族が揃ってやって来るのではなく、別の形ならば、他者や集団の暴力性をもっとリアルに描けると思いますが、そうなると、演出の工夫ではなく戯曲の書き換えになりますね。」というお答え。要するに先生の趣味ではなかったということ以上には賞味期限についてはよく分からない。これは本文を読んでも同様。先生が気に入らなかった理由ははっきりしている。

だが、全体として、どうにもしっくりこない違和感が残る。科白の一つ一つにリアリティが感じられないのだ。カフカやベケットがなければ、この作品は生まれなかっただろう。一人の男が、ありえない不条理な話に巻き込まれて死んでゆくという展開は、カフカの『審判』によく似ている。1960年代の日本では、まだ不条理劇がとても新鮮に感じられ、カフカやベケットを模倣した作品が作られたのだろう。そこには、それなりの「前衛性」が感じられたのかもしれない。

カフカの模倣に見えたので気に入らなかったということらしい。どうやら、60年代だと、カフカやベケットを模倣した「不条理劇」はまだそれなりに前衛だったのだが、今ではださいよね、ってことだろう。「不条理劇」ってみんなカフカやベケットの模倣ならば、喜劇って全部アリストファネスとメナンドロスの模倣だよね、悲劇って全部ソフォクレスの模倣だよね、って話が可能になってしまう。一人の男が、あり得ない不条理な話に巻き込まれて破滅するって言う展開はソフォクレスの『オイディプス王』にも似ている。一つのジャンル概念について、全てを創始者の模倣だって語ることは正しいとしても殆ど意味がない。まあ、この作品のこの上演についてはみんなが貶しているので、それを特に擁護するつもりはない。だいたい見ていないし。駄作をみせられて退屈、っていうのは成り立つだろう。

でも、実のところ、私には作品の「賞味期限」という概念が分からない。これは、作品はいわばオープンな地平として目の前にあって(もちろん、それが現在の鑑賞者にとって意味を持ちうる地平かどうかは別だ)、つねに新しい創造へと開かれているという読者論的な観点に私がとらわれているからだと思う。もちろん、世の中に駄作が存在しないという意味ではなく、むしろ駄作は最初から駄作だという意味だ。駄作がある時期、時代状況との関係で受け入れられる、ってことはあるだろう(限りなくなんとか近いかんとかのように)。でも、それを示すのに「賞味期限」という比喩はあまり良くはないし、安部公房の作品は少なくともその意味での駄作ではなく、やりようによっては面白くなるレベルに達しているだろう。「今」面白くなる方法があるかどうかは別として。

(私自身黒テントの賞味期限切れについてここで書いているけれど、疑問文だし、作品と違い、変化してゆく劇団の賞味期限切れはあると思う。←その後復活することもあり得るという比喩的な意味で)。