別役実『帰ってきたゴドー』

赤旗に書いた劇評はこちら。

これについて、芝居に関しては特に付け加えることはない。

ただし、ネットでほとんど絶賛に近い状況だった(私が覗いたときには)ことへの違和感がある。私が行ったのが初日の夜だったこともあるのかもしれないが、客は前半はほとんど笑ってなかった。私の周囲からもいびきが四つ聞こえたほどだった。君たちは本当に面白かったのか? なら何故笑わないんだ。

実のところ、面白くはなかったので笑わないのは正解なんだけれど。

私の評価では、作品も結構たるいが、今回の上演ほどつまらなくはないだろう、というものだが、テアトロの内田洋一の批評では、「傑作だけれど演出が悪い」(私の要約)。え、本当なの?

面白いので引用しておこう。「「待つ」ことは来るべき救済(あるいは終局)を想定した行為だ。ところが、「気がつかない」あるいは「忘れる」ところまでニヒリズムが進行してしまうと、待つ行為さえ成り立たない。待つことも、また終わることもできない。宙吊りにされた生の意味は完全に風化する。」「ベケットがキリスト教を背景に生の没意味化を寓意化したとすれば、別役実は意味を失ってなお続く、しらじらとした生の光景を描き出す。」

それって、いつの時代、どこの世界においても日常的に繰り返されている生の光景のように見える。むこうの人はキリスト教があるから生にきちんとした意味があって、その没意味化が不条理劇として作品のテーマになるんだ、って本当に考えているのだろうか。どんな理想化された西洋だ。それと、別役ヴァージョンでも、彼らが「待っている」ことに変わりはないんだと思う。彼らはやってきたゴドーが、自分たちが待っているゴドーであることを理解しないだけだ(後述)。

どうでも良い分析がやたらと続くのでとばして結論。ここで日本人が自己を特殊化する際の決め言葉が登場する。「この劇は神の規範を前提にした西洋の言語と、主語がなくても状態の感覚だけで会話が進む日本語とで、不条理の様相が異なってくるさまを映しだしてもいる。別役実が行きつくべくして行きついた不条理の極点はベケットの対岸にあった。終わりは来ないのではなく、そもそもない。」最初の「神の規範を前提とした西洋の言語」と第二の「主語がなくても状態の感覚だけで会話が進む日本語」が対比関係にないのは著者の論理的欠陥なのか日本語の論理的欠陥なのか。後に賭ける根性はないな。「神の規範を前提とし、主語がなくても状態の感覚だけで会話が進む」インドネシア語はどうなんだろう。(いや、本当にインドネシア語がそうかどうかはちょっと別として)

赤旗の方に書いたが、ここでは、「ゴドーがやってこない」という不条理が、「やってきたゴドーが自分だと分かってもらえず、メッセージを伝えられない」という不条理に移されている。これまた、主語がなくても会話が出来るギリシアのゴルギアスの言葉に次のようなものがある。「真理は存在しない。存在したとしても誰も理解できない。理解できたとしても誰にも伝えられない。」存在論的不条理、認識論的不条理、コミュニケーション論的不条理はもともとヨーロッパにおいても三人姉妹であり、一番上のお姉ちゃんが嫁いでいった後は二人目、三人目の出番になるのは当然だ。この作品をゴドーの連続ではなく対比として捉えてしまうから俗流日本特殊論に簡単に陥るのか、俗流日本特殊論があってすぐにそれに頼ってしまうからこの作品を対比とみなしてしまうのか、それ自体面白い話題ではある。

で、こうした人が言ってくれていないのが、ここでゴドーが「おらゴドー」以外の実質的内容を持つ発言を何も行っていないということだ。「なんか、わくわくしてきたぜ」すら言わないのだ。これは別役のゴドーがベケットに寄生しているために仕方がないのだけれど、別役はその制約を逆に笑いのツボにしようと考えていたのだろう。そこを拾ってあげるべきではないかなぁ。