黒テント『ロベルト・ズッコ

最近見ていて欲求不満になることの多い黒テントの新作はフランスのポスト・ベケット演劇の代表的作家の一人(だそうだ)、ベルナール=マリ・コルテスの1988年の作品、『ロベルト・ズッコ』だ。コルテスは翌89年にHIVで死んでいるので、ほとんど最後の作品なのかもしれない。劇場は打ちっ放しの長方形空間の長辺を舞台に使う。

ズッコの物語自体は実話に取材しているようだ。戯曲では、彼は父殺しにより送られた刑務所を脱獄し、母親を殺し、見ず知らずの少女をレイプ、その後、刑事を一人殺害し、地下鉄の終電に乗り遅れた老人に親切にし、ブルジョアの主婦を人質に取り彼女の息子を射殺、彼女と駅で愁嘆場を演じ、レイプした少女が兄に売られて娼婦になったのにたまたま出会った場所で逮捕され、刑務所を脱獄しようとして墜落死する。実際のズッコも、19歳で両親を殺し、精神病院から脱走して無差別殺人や強盗を繰り返していたらしい。

物語の線は基本的にズッコと少女の家族の二つ。少女の家族の線では、オールドミスの姉と不良の兄は、それまで妹のヴァージンを必死で護って来た。つまり少女を監視し続けてきたのである。しかし、少女がズッコにレイプされてしまい、彼女たちの行動は無意味だったことになる。姉はその事実を何とか糊塗しようとするが、実のところ酔っぱらいの父親とろくでなしの兄に囲まれた彼女自身の絶望的な生活からの解放の希望を少女に求めているにすぎない。兄は彼女を売春宿に売る。但し、それが少女の望みだという言い訳を忘れはしない。少女はすこし「足りない(お面をかぶることで表現)」娼婦になるが、ズッコがこの街に戻ってくる(そこで彼は警官を殺している)のを待っているのだ。彼らが出会うとき、ズッコは逮捕される。

この二つの線を肉親関係の過小評価と過大評価だと考えれば、この話はレヴィ・ストロースが『オイディプス王』について行った分析と重なり合うことになる。ズッコが親殺しと(自分のではないが)子殺しによって肉親関係の過小評価の線を辿るのに対して、少女は過大評価の行き着く先に進む。

久しぶりに黒テント的充実のあった芝居だ。作品が、ズッコの心理に入り込もうとするのでも、事件を劇的に展開しようとするのでもなく、やたら小説的な心象風景を登場人物が語り出す、せりふの多い『勝手にしやがれ』といった類のもので、黒テントの、心理描写を行なわないが棒読みでもない語り口と良くあっている。ただ、ここでは「異化」の演技は状況を提示するものですらなくなっている。銃声の極度に大きな音は興ざめ、というか心臓に悪い。

難解な作品ですっきりと話について行くことは出来ない。特に息子を殺された女のズッコとの駅での別れの場面は、ズッコ自体はもともと「よーわからん奴(『勝手にしやがれ』)」なので別に問題はないにせよ、女がズッコに愛をくどくことの違和感を克服できなかった。ラカンだのニーチェだのが象徴的に用いられても、それは物語の「ありえなさ」を修復する方向ではない。とりあえず提示してみようってところ。

第二幕

さて、芝居が終わると、十分ほど休みがあってポストパフォーマンストークが始まる。どこの誰とも自己紹介もなく隣に座っていた親父が舞台に上がり、舞台上のパイプいすに持ってきた鞄をどさりと置くと唐突に語り始める。「君たちこれくらい分からなくっちゃ困る」などと客に言いながら、ポーズと口調もそれに合わせて、コルテスの芝居の眼目が今では世界のどこにも存在しなくなった反近代的共同体であって、それはギリシア悲劇にはあったが、ギリシア悲劇のそうした側面はルネサンス以降の上演の伝統によって消されてしまい、今ギリシア悲劇を見ても感じ取られないのだが、そのもっとも重要な特徴は理性に敵対する人間の非理性的な存在にあって、それをレヴィ・ストロースが示したんだ、ほら、「野生の思考」ってあるだろう、あれが理性以前の思考なんだとしたり顔に語る。この酔っぱらい(にしか見えない)おやじの出鱈目を聞くに耐えられなくなったところ(30分)で途中退場。後味がとても悪い。出口で「喋っているのは誰?」と聞いてこの作品の翻訳者の佐伯隆幸と判明(いや、途中から予想はついていたけれどさ)。勤務先の大学の女子学生が客の中にいて、彼女たちに語る口調(ぼくはあんな乱暴な口調で授業をしたことはないが、そういう奴がいることは理解できる。人は何らかの形で自分を権力として提示したいものだ)がそのまま出たんだろうけれど、勤務先の学生以外は「君の」客じゃないし、それを言うと「なら口調も勝手だろう」と言われてしまいそうだが、少なくとも出鱈目を学生や一般客に吹き込むのは止めようよ。