ガラスの動物園 イリーナ・ブルック演出

トム 木場勝己、ジム 石母田史朗、アマンダ 木内みどり、ローラ 中嶋朋子
イリーナ・ブルック演出、ノエル・ジネフリ 美術

新国立劇場小劇場の二月の現代劇は、イリーナ・ブルック演出で、テネシー・ウィリアムズの『ガラスの動物園』。大嫌いなこの芝居を見に行くことにしたのは、ブルックなら、別の視点から、あまり嫌じゃない物語を紡ぎ出してくれるのではないかと思ったからだ。舞台は上方向に壁が大きく延ばされた空間で、非常階段もドアも省略されているが、ソファ、テーブル、蓄音機、そしてガラスの動物園などの最低限のセットは備えられている。この上の空間にたとえばユニコーンのガラス細工など、さまざまなイメージが投影される。

テネシー・ウィリアムズの作品はうぶ毛を逆立たせるステレオタイプが残っていて、そこが好きになれない。たとえば『欲望という名の電車』でのポーランド移民のイメージがそうだし、この作品のアマンダのイメージがそうだ。見に行くときには、彼の言いたいだろうテーマに集中する前に、この嫌悪感とどう折り合いをつけることが出来るのかを自問しながらとぼとぼと出かけることになり、大抵折り合いはつかないのだ。ポーランド移民は野卑で知性のかけらもなく、アマンダは醜悪で派手なおばさんだ。引きこもりの内気なローラは中年男(演出家)の視点から美化される。演出家のジェンダー・バイアスがさらに鑑賞経験を憂鬱にする。

この上演で素敵だったのはまず第一にアマンダだ。ここでのアマンダは派手でありつつも優雅さを失わず、娘の幸せのために彼女なりの仕方で戦っている。その戦い方は確かに彼女自身の育ちを反映したいびつさを持っているが、観客は十分にアマンダの物語を享受することができる。他方、ローラのハンディキャップはハンディキャップとして描写され、「掃きだめの純粋な青い薔薇」として美化されてはいない。ローラはその内気さの故にではなく、内気さにもかかわらず輝くのである。ローラの物語はここでは脱皮の物語であり、ジムは本気でローラに惹かれてしまう。角のとれたユニコーンは、彼女の成長の象徴にもなっている。

二人の女性がおそらく作者の意図を超えて独自の物語を持つ主体になり、その結果一種のポリフォニー演劇が成立したのは、演出家が女性であることが大きく関わっているだろう。イリーナ・ブルックが前に日本で上演した『ダンシング・アット・ルーナサ』もまさに女性の演出家であることが活きた上演だった。そういえばこの二つの作品は似ている。(って言っても、出て行く人間がいて、ハンディを抱えて残る人間がいて、最後にダンスがあるってだけの類似だが)。

難点を一つだけあげると、トムが年をとりすぎ。追憶の芝居、回想の芝居と言っても、この追憶はどう考えても40前の男の追憶だ。初老から老に達しようという男の追憶としては甘過ぎるし、マザコン過ぎる。この回想ならば母親はとっくに死んでいるので、回想の意味自体が変わってくるだろう。キャスティングもイリーナ・ブルックが行ったんだろうか?国立劇場のホームページの解説には、

演出のイリーナは今回の舞台で、トムの年齢を彼が回想している時(中年)の年齢に設定し、更に<思い出の劇>を印象付けます。

とあるが、いやどう見ても中年には見えないって。(それはそうと演出家がファーストネームだけで呼ばれているのは女だからなのか)。