文学座アトリエ60周年記念公演より

文学座アトリエ60周年記念で三作品連続公演のうち二つを見た。もう一本、『カラムとセフィーの物語』は残念ながら見逃したが、とても評判が良かったみたい。

エウリピデス  『トロイアの女たち』 2010/09

松本祐子演出、山形治江翻訳、ヘカベ:倉野章子、カサンドラ:吉野実紗、アンドロマケ:塩田朋子、ヘレネ:松岡依都美

赤旗の劇評はここ

さて、文学座アトリエの会の「トロイアの女たち」だ。舞台を真ん中に置き、両脇から眺めるのはアトリエの会では前に見た「くずれたバランス」がそうだった。

この芝居は、各場面がほぼ独立していて、相互のつながりが薄いため、一貫した物語を期待すると肩すかしを食う。また、ヘカベは、最初から不幸で、その不幸が全体を通じて徐々に深まっていくという構成なので、とても難しい。絶望の深化が見所になるような感じだ。

上演の方は、良いところは大体赤旗に書いた。不満なところをここに書く。カッサンドラの狂気と正気の交錯も一応描いてはいたのだけれど(正しい予言をするが、それを信用されないという運命をアポロンに背負わされたカッサンドラの見せ場が、狂気の場面と正気の場面の交錯だ)、役者が台詞を理解していない感じ。喧しくて仕方がない。仰向けの姿勢で連れ去られるときに最後の台詞を言うっていうのは、カコヤニスの映画版「トロイアの女」にもあった。

そう言えば、ヘカベとヘレネの対決をヘレネの勝利で終わらせるのもカコヤニス譲りだ。しかし、映画では、全ての議論に敗北したヘレネが剣で自殺しようとした(するふりをするその)刹那、メネラオスがそれを押しとどめて、ヘレネの勝利が確定するという、それなりの劇的な必然性をもった経緯が描かれているのに対し、文学座では、そうした経緯なしに、完全に敗北したヘレネが退場の際に手を差し出すと,メネラオスがその手を取るという、テキストのそれまでの進行とは全く無関係な勝利で、かなり興醒めだ。

私自身の趣味からは、この場面はヘレネ勝利の方がヘカベの絶望が深まり、他の部分と一貫性を持つのでむしろそれが好きだが、ここをヘレネの敗北にしても、ヘレネがメネラオスに殺されたりはしないというのはギリシアの伝説の相当に変更しにくい部分なので、それはそれで構わないと思う。ヘレネ敗北の場合、ここで女たちには一定のカタルシスが生まれるが、それは結局(彼女たちは知らないけれど←ただし、直後、1110行あたりでは気づいている)、空しいカタルシスなのだと。

いずれにせよ、テキストにはヘレネの勝利をうかがわせる言葉は何もなく、素直に読む限りヘレネ勝利は無理筋だけれど、この上演ではメネラオスの「この女を船まで運べ」の後に、ヘレネが一瞬よろめく仕草をつけ、メネラオスが「気をつけてな」という一言を付け加えることで、上記のありそうにない逆転を可能にしている。

これは反則だと思う。おそらく山形訳の「用心して乗せるのだ」をさらに意訳したのだろうけれど、ギリシア語では単に「運び出す ἐκκομίζειν」だ。この場面では、次のヘカベの「この女と同じ船に乗ってはいけません」に対するメネラオスの、「なぜだ、船が沈むほどの重さでもあるまい。」も少し変だ。エウリピデスでは「あれは前より重くなったのか?」で、ヘカベの疑いをメネラオスは気づいて茶化した形で問い返しているのが、本公演のやり取りではメネラオスはかなり馬鹿っぽい。

翻訳に関連して、私が違和感を持ったのは、その後、トロイアの滅亡をコロスの女たちが嘆く場面で、

捧げた供物も、踊りも歌も、無駄だった
夜通し行う神への祭り
黄金造りの神の像
満月型の12のお菓子
神々の栄光を称えるもの全てが無駄だった1071-6

となっているところだ。この上演ではこの「無駄だった」は、最終部のライトモチーフになり、アステュアナクスの遺体を前にヘカベが嘆く場面も

幾度となくこの腕に抱いてかわいがり、食事の世話をし、
子守歌を歌ってやったのに、全てが無駄だった。1187-8

となる。無残に殺された孫の遺骸を前にした祖母の言葉としてこの「無駄だった」は軽くないか?この場面で腹がたった。「無駄だったはないやろ無駄だったは」。最初の部分も、供物はともあれ、踊りや歌、祭、金の像、丸いお菓子、それら楽しい記憶が「無駄だった」と神様への恨みを言うフェーズなのか?むしろそれが失われてしまったことを悼んでいるのではないのか?だからその直後にゼウスに対して「本当にトロイアを見放したのか」と聞くんじゃないのか?

無駄だったはもう二箇所あり、アンドロマケもヘカベと殆ど同じことを、子別れの場面で語る。「お前のためにした数々の心配や苦労も、すべてが無駄だった(820)」と。でも文脈が違う。820は、アンドロマケがこれから子供が殺されることを覚悟しての嘆きで、目の前に遺骸を見ての嘆きではない。ここではまだ子供は「失われてしまう」前で、まさに虚しさの感覚の表現だ。また、殆ど末尾近く、神々はトロイアを憎まれたとの感慨の後で、ヘカベが最後に「生贄を捧げたのも無駄だった(1242)」と語る。これもまた虚無感の表現だ。しかし上に上げた二つはどちらも亡失のいたみの表現だ。だからエウリピデスはどちらも、「失われたφροῦδα(ι)」という言葉を当てている。内山訳「ああ、あの幾度の抱擁も、養育の苦心も、あの寝顔も、もう失《の》うなった!」は良いよね。一番直訳だし、「あの寝顔」は少し違うように見えるけれど(この箇所はテキスト上問題のあるところに見える。今「神」代わりのコメンタリーが無いので、出てきたらもう少し詳しく)。むしろこの「失われた」の方が、『トロイアの女』のライトモチーフとして相応しくはないか(他にも858、1323)。

ここで反省。「無駄だった」と「失われた」のニュアンスの違いなんか、わりとどうでも良いのかも知れないなと。こう書いてみると我ながら重箱の隅の気がする。どうなのかなぁ。朝日の劇評でも翻訳絶賛だしなぁ。それでも、芝居を観たときはとても違和感があったので書いておく。

さて、感想の残りだけれど、コロスが一斉に同じことをしゃべるギリシア悲劇のお約束がいつも気になるので、それがあまりなかったのは有り難い。アンドロマケの子別れの場面、埋葬と引き換えになっているところが良く分からない。だいたい人形はもうギリシア軍に半分取られているし。人形だったことも含めて、不思議な演出だ。ヘレネがあんなに易々と勝利を収めると、この場面全体が、一所懸命議論をしているヘカベやヘレネ自身も含めて馬鹿に見えるけれど、それが演出意図だとすれば返す言葉もない。でも大体筋立てから何から良く見えない。易しい日本語で様式なしでやられるだけに、わからなさは出来の悪い作品の所為に見えてしまう。それってエウリピデスが可哀想な気がする。もう少し分かりやすい作品でやれば良いのに。


鐘下辰男「ダーウィンの城 」 2010/10-11

演出:高橋正徳 
出演:吉野由志子 征矢かおる 藤﨑あかね 牧野紗也子 金内喜久夫 中村彰男 大原康裕他 

私はこの人は駄目だわ。えぐいのは嫌いではないのだけれど、えぐさの細部が嘘くそうてかなん。サラ・ケインだとひかないのになぜだろう。サラ・ケインで、なんで途中からシティホテルが戦場に変わるねん、とか聞いたりしいひんもんなぁ。寓話劇としてみれば良い、と言った人がいたけれど、そう見れるような舞台でもなかったのだが。

(1) 高層マンションのベランダのてすりがそんなに低い筈がない。まあベランダなんか無いやろし。また、高級感のどこにもない高級マンションだ。
(2) 高層マンションのベランダからそうぽんぽん何でも捨てへんのんちゃう?すぐに警察沙汰やろ。
(3) 赤ん坊誘拐された両親がすぐに犯人を外部と決めつけるのが分からんし、誘拐した奴が大きな買い物袋でおむつとかを持ち込む神経が分からん。監視カメラをつけて、自衛をしっかりするか、近隣地域とのつながりで犯罪を防ぐか、っていうのがマンション住民の大きなテーマみたいだけれど、それって排他的やあらへん。両方やるやろ。子供は学校に行かならんし。そもそも超高級高層マンションのエントランスに監視カメラをつけるのは当然な気がする、というかついてない方が驚き。それと近所と上手くやるかどうかは無関係。だって入ってくるのは近所の人限定やないし。なんで誘拐の犯人が内部でなければ近隣や、ってことになるのか?銀座のティファニーを襲った犯人は外国からわざわざ来てたし。孤島にある高層マンション?
(4) 他人の家で乱暴を働いたらそれを天井視線の隠しカメラで撮られて、そのDVDが郵便受けに入っていました。ただしメッセージはありません。どっちが怪しい?a)その相手、b)相手の夫。b)はあり得ないと言ってa)と決めつける理由が不明。b)だと主張する相手を、「正直に言え」と言って殺してしまうのにつきあえない。b)でないとなんでそこまで確信が持てるのかしら。
(5) マンションを中心として近所で物騒な事件が多いので最後、地域住民が警察に認められた自警団を作る。その団長は、その物騒な殺人事件の犯人のお父さん。
(6) ゲイの登場人物が赤ん坊を誘拐。育てたい、というよりも、美人の女が憎い、という理由みたい。

カフカの『城』を意識していたのが、途中からカフカ関係なくなっていったというお話を聞きましたが、いや結構カフカ的不条理。