シェクナーの Dionysus in 69 :分析的紹介の試み

(日本西洋比較演劇研究会での発表 2004.12.18@ 成城大学)

1. Dionysus in 69

シェクナーと The Performance Group による最初の上演、 Dionysus in 69 は、 1968 年の 6 月 6 日、ロバート・ケネディ暗殺の翌日に、 New York Wooster Street の空きガレージで幕を開け、途中、ツアー、いくつかのキャストの移動、内容の変更を経て 1969 年 7 月まで上演された。このグループの活動は、 60 年代のニューヨークの演劇運動の締めくくりの一つとしても興味深いものであり、そこに示された演劇の理念、シェクナーはそれを環境演劇 Environment Theater と呼ぶが、そこには現代演劇の主要なテーマの一つである観客と演じ手のダイナミックな交歓を追求しようとする試みが見いだされる。

しかしながら、本発表でこの上演を取り上げるのは、この上演がギリシア悲劇を現代演劇の文脈の中で復活させたという評価に基づいてである。この評価は、たとえば APGRD が中心となって編集した論集の、 Dionysus after 69 という題名にも共有されている。(この発表では、現代演劇とは何かという問題には、しかしながら深入りしない。しかし、一言で言うと、ある時期以降、演劇は、いわば絶対的な意味で「現代演劇」と呼ばれるものに変質していったと考えている。その後に続くのは「ポスト演劇」とでも言うべきものである)。この上演において、ギリシア悲劇は、演劇の始原として、その単純さのうちに今日の演劇もまた抱えている問題を共有し、何らかの形でその解決の方法を示す可能性をもつものとして捉えられている。それは、ニーチェ的な意味での総合芸術=祭祀としての演劇の可能性である。そして Dionysus in 69 はいわばディオニュソス的な契機を前面に出す。

この上演は、かなり豊かな記録を持っている。パフォーマンス・グループの活動を総括するようなシェクナーの Environmental Theater (1973) によって我々は彼らの理論的基盤を知ることが出来るが、さらに Dionysus in 69 そのもののドキュメント Dionysus in 69 ( 1971) は、いくつもの異なったヴァージョンのテキスト、それらを演じる俳優たちのコメント、シェクナーの演出意図を一冊にまとめ、それによって上演期間全体にわたる変化を我々に伝えてくれる( pagination はない)。また、 Pentheus を主として演じた William Shephard の The Dionysus Group (1991) は、若い俳優として、 Dionysus in 69 の稽古から上演にいたるまでのパフォーマンス・グループの活動を、 1980 年代になって回顧したものであり、いわば裏側からグループの実態を明らかにしている。最後に、 Brian De Palma による映画ヴァージョンがある。

さて、映画ヴァージョンを演劇上演の資料として用いることには常に困難が伴う。映画『シカゴ』はミュージカルのリバイバル上演に刺激を受けたものであるにせよ、実態はかなり異なっているし、あるいは、ナショナル・シアターの『リチャード三世』上演に刺激を受けた『リチャード三世』も同じである。しかし、この映画に関しては、二つの点でこうした映画版とは異なり、上演のドキュメントとして扱うことができると考える。第一はそれが六月と九月の二度にわたる上演の模様を撮ったものであって映画用に別に演出されたのではないという点、第二は、第一の部分と重なるのだが、この映画ではモンタージュが殆ど用いられておらず、また作品の multicentral な構成に対応して二つの手持ちカメラによる映像を並列して写しているという点である。一つのカメラは上演の出来事を中心とした視点を提供し、もう一つは観客の反応に視線を向ける。ただし、実際の上演そのものを撮影した六月の撮影は、 Pentheus 役のシェパードの言葉を借りれば「大失敗」であり、デ・パルマは九月にもう一度撮影を行うことを求めた。今回は、正規の上演とは別立てで、撮影を前提とし、そのために招待された観客の前での上演になった。実際に映画で用いられている場面の多くは九月の上演の光景である。

しかしこの映画を資料として用いることの問題点も指摘しておかねばならない。それはむしろ、 Dionysus in 69 の上演が途中で随分変化しており、その意味で Proteus 的相貌を示しているのに対して、この映画で記録されているのは比較的初期の段階の上演でしかないということだ。それは、当初の mortification scene が省略され、ヤン・コットの示唆に応じて清掃が演劇的イヴェントととして導入されたが、グロトフスキーの示唆によって Ecstacy dance と Birth Ritual で全裸が導入されるには至っていない段階。また、 total caress が省略される前の段階のものである。

2 エウリピデスの『バッコスの信女たち』

Dionysus in 69 はエウリピデスの『バッコスの信女たち』に基づいている。全体の構造はエウリピデスと変わらず、テキストも約半分はエウリピデスのこの作品のテキストがそのまま用いられている。エウリピデスのテキストに見いだされる地震と屋台崩し、ペンテウスの女装、八つ裂きの場面(これは伝令による報告であるが)、それぞれ mortification scene 、ディオニュソスとペンテウスのキス、「死の祭祀」で置き換えられる。『バッコスの信女たち』に見いだされない大きな要素が冒頭近くにおかれる『生の祭祀』であるが、これは公演題目が決定する前にすでにグループによって組み込まれることが決まっていたものである。題目の決定は比較的遅く、グループの討論の中で決まっていった。シェパードは『ペール・ギュント』を、シェクナーが『バッコスの信女たち』を提案し、最終的にはシェクナーの案が採用されたとシェパードは述べている。

エウリピデスの『バッコスの信女たち』では、ディオニュソスは自ら信女たちを率いて諸国を巡り、自分の宗教と儀式をひろめている。彼の母の生地であるテバイの女たちがディオニュソスが神であると認めないので、彼は女たちを狂気に導き、すでに王ペンテウスの母アガウェをはじめとするテバイの女たちは家を離れ、森の中でディオニュソスの儀式にいそしんでいる。そこへペンテウスが戻り、ディオニュソスの信者たちのリーダー(実はディオニュソス自身)をとらえ処刑することで事態を収拾しようとするが、女たちの秘儀を見たくはないのかというディオニュソスの誘いにつられ、彼の言うままに女装して女たちを覗き見ようとするが、母の手にかかって八つ裂きにされる。アガウェは息子を獅子だと思い、その獲物を携えて生き高々とテバイの町に戻ってくるが、父カドモスの言葉によって正気に戻り、殺したのが息子だと知る。最後にディオニュソスが神の姿で現れ、父と娘の運命を告げて悲劇は終わる。

エウリピデスの『バッコスの信女たち』の各部分は次のように構成されている。

プロロゴス 1-63 ディオニュソスの予言
パロドス 64-169 コロス(バッコスの信女たち)のディオニュソス讃歌
第一エペイソディオン (テイレシアス、カドモス、ペンテウス)
170-214 テイレシアス、カドモス (ディオニュソスの祭祀に参加しようとする)
214-265 ペンテウス (ディオニュソスの狂気を憂えている)
266-369 テイレシアス、カドモス、ペンテウス (両者はペンテウスにディオニュソスを神として敬うように説得するが拒絶される)
第一スタシモン 370-433 (ディオニュソス讃歌)
第二エペイソディオン (家来、ディオニュソス、ペンテウス)
434-450 家来 (ディオニュソスを連れてくる)
451-519 ディオニュソス、ペンテウス (最初の対面場面、ディオニュソスは自分の信徒のふりをしている。ペンテウスはディオニュソスを厩舎に閉じこめる)
第二スタシモン 520-575 (ディオニュソスの生まれ、ペンテウスへの呪い、ティアソスの目指す土地)
第三エペイソディオン (ディオニュソス、使者、ペンテウス)
576-641 ディオニュソス、コロス (ディオニュソスはみずからを解放し、館の上ないし中で地震を引き起こす)
642-658 ディオニュソス、ペンテウス、(ペンテウスはディオニュソスが自由になっているのを見て驚く。)
689-774 ペンテウス、使者 (使者がペンテウスに、森にあつまるバッカイたち(狂ったテーバイの女たち)の有様を語る)
775-845 コロス、ペンテウス、ディオニュソス(ディオニュソスはペンテウスに、森の女たちを見に行くようにそそのかす。ペンテウスが同意すると、見るために女の服を着る必要があると語る。ペンテウスは女装のために館へ入る)
846-861 ディオニュソス。復讐の予告
第三スタシモン   862-911 (神の力と人間の幸福について)
第四エペイソディオン
912-976 ディオニュソス、ペンテウス (ペンテウスの狂気と女装)
第四スタシモン 977-1023 (ペンテウスの狩り)
第五エペイソディオン
1024-1152 使者 2 (ペンテウスの最期の報告)
第五スタシモン 1153-1164 (ディオニュソスの勝利の讃歌)
エクソドス
1165-1215 アガウェ、コロス (アガウェは狩りの成果を喜び、獲物をコロスに見せびらかす)
1216-1329 カドモス、アガウェ (獲物の正体の認知)
1330-1392 ディオニュソス、アガウェ、カドモス (処罰)

3 Dionysus in 69 オリジナルの形式

Dionysus in 69 は次の 14 の部分から出来ている。最初に述べたように、テキストはかなりの異同を含めて Dionysus in 69 (書籍版)に記述されているが、 pagination がないため、ここではブライアン・デ・パルマ版での時間( DVD による)、対応するエウリピデスのテキストを並記する。 ** はテキストが大きく変更されていることを示す。

1

冒頭のエクササイズ、最初のコロス、「 photoelectric 」な応答( CT1, CTA)
-5:00
5:00-6.55 (CT1)
6:55-7:45 ( CTA)
CT1 170-214**

2

Birth ritual
7:45-11:00 (P)
11:00-13:00 (P1)
13:45-15:00 (D)
13:00-16:35(D1)
P1 214-248
D1 1-65**

3

Ecstacy dance
16:35-28:50

4

ペンテウス・カドモス・テイレシアス、 Tag Chorus
28:50-33:58 (CTP)
33:58-36:50 Tag  Chorus

5

最初のディオニュソス・ペンテウス場面、ディオニュソスの捕縛
36:50-43:15 (DP1)
451-519 (D は ** )

6

衝突と出会いのエクササイズ、ペンテウスの恥辱場面
省略

7

第二のディオニュソス・ペンテウス場面、観客から女を選ぶ、ペンテウスへの拒絶
43:30-48:30

8

第三のディオニュソス・ペンテウス場面、ペンテウスの服従、ディオニュソスとペンテウスはピットに移る。
48:30-54:40  (DP3)
786-861**

9

コロスの語りと観客との Total Caress 、伝令の言葉
54:40-55:30 ( Ch )
55:30-71:40 (ToCa)

10

第四のディオニュソス・ペンテウス場面、ペンテウスの犠牲の準備
59:00-65*25 (DP4)
912-975**

11

アガウェによるペンテウスの Caress 、獣狩り、ペンテウスは捕らえられる
<65:25-71:40 (AP)
71:40-72:30 ( 狩りと捕縛)
1043-1152

12

Death Ritual
72:30-75:45

13

カドモスとアガウェの場面   ディオニュソスの呪い (清掃)
75:40-81:20 (AC)
81:00-82:50 (D)

14

ディオニュソスの政治キャンペーン演説、観客と俳優の退場
82:50-85:30

1。観客はガレージの外で待っている。男性俳優が Good evening sir, may I take you to your seat? と繰り返す中、女性コロスはパロドスの様々な部分を口々に語っている。俳優たちはグロトフスキ流のエクササイズを行う。カドモスとテイレシアスのやりとりにおいて、俳優たちの世界とエウリピデスの世界の混淆が示される。(下線蛍光ペンはエウリピデスから大きく離れる箇所)。
C 「この年寄りの先導は年寄りのあなたに任せた。テイレシアス、賢いあなたに、昼も夜も疲れを感じることなく、地面をテュルソスで叩き続けられそうだ。うれしいことに年寄りであることを忘れてしまう。」 T 「あなたは幾つだ?」「 27 だ」 T 「私は 26 だ。 それではあなたも私と同じ気分だ。私も若くなり、踊りに加わってみようと考えている。」テイレシアスは観客に踊りに参加するかどうか訊ねる。

2. Birth Ritual

ペンテウスの BR がまず行われる。ペンテウスは誕生の儀式の後、自分の最初の台詞を語る。 I am Pentheus Son of Echion and Agave and King of Thebes. ではじまるこの台詞において、彼はエウリピデスのテキストを基本的に逸脱しない(冒頭の自己紹介はカドモスの台詞だが)。他方、それに対応するディオニュソスの誕生とその自己紹介においては、 Finlay は自由に自分の生い立ちを語る。「ここ、テーバイ人の国を訪れた私こそ、ゼウスの息子のディオニュソスである。この地でかつてカドモスの娘だったセメレが、私を生みおとしたのだがそのおりに、産婆を務めたのは稲妻の運ぶ炎であった」→「Good Evening, I see you found your seats. My name is William Finley, son of William Finley. I was born twenty-seven years ago and two months after my birth the hospital in which I was born burned to the ground . 」「それ故、やつにも他のすべてのテーバイ人にも、私が神であると知らしめてやる。」→「I’ve come here tonight for three important reasons. The first and most important is to announce my divinity. The second is to establish my rites and the third is to be born, if you’ll excuse me.

3. エクスタシー・ダンス

ディオニュソスの指示に従いエクスタシー・ダンスが始まる。ダンスは観客を巻き込み、「ディスコのような」ものになる。ペンテウスは一人一人のダンスをやめさせて行く。

4. Tag Chorus

ペンテウスとカドモス、テイレシアスの対話。 TC はペンテウスにディオニュソスの神性を認めるように促し、 p は拒絶。コロスは第一スタシモンの一部(ディオニュソス讃歌)を歌うが、それは様々な俗謡の替え歌になって行く。ペンテウスはコロスのあいだを駆け回るが止めることが出来ない。最後に大声で叫んでやめさせると、ペンテウスとディオニュソスの最初の対話が始まる。

5. ペンテウスとディオニュソスの最初の対話。

ペンテウスはディオニュソスを縛り捕らえる場面だが、例によってペンテウスの言葉がエウリピデスのテキストから離れないのに対し、ディオニュソスの言葉は自由に俳優の空間に入り込む。

エウリピデスのテキスト(下線付きは Finley Dionysus のテキスト)
P 「おい外人、お前はなかなか良い身体をしているではないか。少なくとも女を喜ばすという点では。それを目的にテバイに来たのだろう。髪の毛はこんなに長くのびて、色気たっぷりに頬にまでかかっている。レスリングが出来ないからだ。肌は白い。さぞかし着るものに気を遣って、太陽の光を浴びず、日陰の中をこそこそと、その美しさにものを言わせ、アフロディテ狩りにいそしんでいるのだろう。よし、まずはともかく、身分素性を言え。」
FD ぼくの名前はウィリアム・フィンレイで、六番街東のスラムのことは聞いたことがあるだろう。
P「知っている。サルディスの都を取り囲む山。」
FD 「ああ、そこには住んでいない。そこでは良く踊ったよ。サーカスがやめになるまでね。ぼくは西、クリストファー通り 91 に住んでいる。 69 と 22 で 91 だ。
FD 「あなたは自分が何を言っているのか、何をしているのか、さらには自分が誰であるのかすらも分かっていない。」
P 「私はペンテウス、アガウェの息子、父はエキオン。」
FD 「ペンテウス?アガウェの息子?父はエキオン?戯言だ。君はビル・シェパードで、グループにいる。神ではなくグループにいるんだ。ペンテウス?エキオン? いかれてる。こいつをどっかへ連れて行ってくれよ。
P 「いけ、こいつを隣の厩舎に閉じこめて真っ黒な闇を眺めさせておけ。そこで踊っていろ。お前が連れてきた悪事の仲間の女たちは奴隷に売り飛ばしてやる。」
FD 「では行こう。不必要なことをわが身に受ける必要はないのだから。君のゲームは充分にやったし、飽きた。だからこれから俺のゲームをしよう。ディオニュソスゲームだ。ずっと面白い。俺が神でないというなら、君はペンテウスでないと言ってやる。君はペンテウスじゃない。 あなたは神を牢に連れて行こうとしている。俺のバッカイに手を触れることは出来ないよ」
P 「偉そうなことを言うんじゃない。そこに閉じこめてやるんだから 。」
FD 「でも君は人間で、俺は神で、これは悲劇だ。賭は君に不利なんだよ

6. 衝突と出会いのエクササイズ。恥辱の場面

当初の上演においてきわめて重要だったのがこの恥辱場面 (mortification scene) であった。そこでは、地震と館の倒壊によるペンテウスの権力の視覚的な崩壊に対応する場面が求められた。それが、コロスによるペンテウスの mortification である。ここでコロスはペンテウスに、正確にはペンテウスを演じる Bill Shephard に具体的な質問をする。それらの質問はシェパードが観客の前で答えるのを拒絶するような、辱めを与える個人的なものでなければならない。シェパードがどうしても人前で答えられない質問が出てきたときに、シェパードは This is mortifying と叫び、この場面は終わる。この場面のおかげで Di69 は「サイコドラマ」の評判を得たが、最初に上手く行かなくなるのがこの場面であった。

7. 第二のディオニュソス・ペンテウス場面。女選び、拒絶

恥辱場面の後に、第二のディオニュソス・ペンテウス場面、ディオニュソスによるペンテウスの誘惑の場面が続く。エウリピデスでは、ディオニュソスはペンテウスに、女を見たくないのかと問い、彼の欲望に火をつける。 810 行の「女たちが山で並んで腰掛けているのを見たくはないのか?」というディオニュソスの台詞にあたるものを、 Di69 ではペンテウスによる女選びにした。「この部屋のどんな女でもあなたにやることができる」「おまえなど必要ない」「では自分でやってみなさい」 。シェパードは女性の観客を一人選びだし、彼女を愛撫し、セックスしようと試みる。シェクナーはこの場面が虚構を外れることを求めた。ペンテウス役は一人の女性観客を取り込む努力を真剣に行わねばならず、口説き落とせたら芝居はそこで終わることになっていた。シェパードがペンテウスを演じている間、それは一度生じた。そのとき、ディオニュソス(その折りには女性、ジョーン・マッキントッシュが演じていた)は、次の台詞を述べた。「今日、人=男であるペンテウスは芝居がかかってから初めて、神であるディオニュソスを打ち負かしました。劇は終わりです。 」

8. 第三のディオニュソス・ペンテウス場面。

これはペンテウスの女装に代わるものとして構想された場面である。ペンテウスのディオニュソスへの完全な服従を表す。 P 「お前は俺に何をさせたいのだ 」D 「私はあなたに私のシャツ、パンツ、下着を脱がさせたい。そしてあなたに私の身体をくまなく愛撫させたい。ゆっくり注意深く愛撫してほしい。それから、私のペニスを愛撫して硬くしてほしい。そして唇と舌と口で愛撫してほしい。</u> 」(中略)「出来ない」 同性愛とキスはここでシェパードによって提案されたが、それはそれが彼にとって人前で行うのが一番難しいと感じられたことがらだったからである。

観客はしばしばペンテウスを励まし、そのことによって彼を「笑いものにする」効果をもたらしたとシェクナーは回顧している。

9. Total Caress

Di69の第二のクライマックスである。Finleyとhephard が倉庫の一角にあるpitに退くと、コロスは観客たちへの愛撫を始める。観客参加の第二の場面であるが、後にこの場面も放棄される。

10. 第四のディオニュソス・ペンテウス場面

TCのただ中、ディオニュソスとペンテウスの最期の場面が展開する。狂気のペンテウスがディオニュソスに全面的に自己を委ねる。

11-12 ペンテウスの死の場面。

エウリピデスではこれらは使者の言葉として伝えられたが、Di69では観客の真ん中で演じられる。死の儀式は誕生の儀式を反転したもの。Finleyの言葉は、Good Evening Gentleman, may I take you to your death? に変わる。ここでもTCは継続している。

13-14アガウェの真相認知と、ディオニュソスによるカドモス・アガウェへの処罰は、血糊を掃除するコロスの場面が後に重ねられることになる。また、ディオニュソスのエピファニーはそのまま選挙演説に変わり、人々は Finley をかついで路上へと退場する。

4 Dionysus in 69 :変化

Dionysus in 69 は、最初に述べたように、 69 年の 7 月まで連続的に上演され、途中いくつかの役柄の変更があった。最初の大きな変更は、68 年 11 月に Shephard の怪我によって Pentheus 役が Richard Dia に交替したことであるが、それに伴い Dionysus 役も Jason Bosseau と Finley のダブルキャストになる。 69 年 4 月に Shephard が Pentheus に戻った後は、 Joan Macintosh(女性)とPatrick McDermottがディオニュソスを演じた。

4-1 mortificationと二重性

役柄の変更は別として、まず6のmortification sceneの形骸化とそれへの対応が最初の重要な変化になる。繰り返される公演の中で、実際にシェパードが答えを拒むような質問をし続けることはますます困難になり、公演を始めてからそれほど経たないうちに、mortifyingな問いを出された「振りをする」ことをシェパードは強いられる。シェパードはそれに反逆し、ある公演で、一時間以上あらゆる問いに答え続けた。俳優たちのフラストレーションが高まる中、テイレシアスを演じたPatrickの連帯の言葉に、シェパードは初めて次の場面へのcueを出す。この事件は、シェクナー不在という状況の中で集団内部の対立が先鋭化した結果だが、Pitのなかで「なぜだ」と問う Finley に対し、Shephard は「 I had to 」と答えるしかない。この応答にはDi69 が登場人物たち、特にペンテウスの現実の精神状態に大きな危機をもたらしていたことが示されている。映画ヴァージョンではこのやりとりがmortification sceneに代わるものとして舞台上で示されている。

しかし、 10 月以降、別の試みがなされる。ある出来事、ないし行動の記述がコロスの間で伝えられる。各人は、ペンテウスを取り囲み、彼に背を向けて、自分たち同士で語りかける役者の言葉、イメージ、連想、口調をひとつとりあげ、自分のものに変容させ次の人物に伝える。彼らのお喋りや笑いがペンテウスの孤独を強調する。

12 月以降の試み。コロスはペンテウスの周りをゆっくりと転がりながらペンテウスを嘲る言葉を口にする。ディオニュソスが登場し、ペンテウスと ritual combat を行う。身体的接触は行わず、二人は接近して威嚇しあう。威嚇は言葉でも行為でも構わないが、取り下げられない。突き出した拳は突き出したままにせねばならず、声で威嚇したら声をあげたままでなければならない。大体 45 秒で決着がつくが、問題は Finleyが勝たねばならないという点にある。

2 月以降、変容サークルの変化形。演者はその日の楽しかった出来事を語り、語りながらペンテウスに背を向ける。全員が語り終えると、彼ら同士でにらめっこを始め最後には笑いが爆発する。シェクナーはこの部分の難しさとして、そこで突然物語の調子が変化し、劇の構造に亀裂が見いだされることを挙げている。 mortification は地震と館の倒壊、火災に代わるものである。「屋敷が崩れ火事が起きるのを示すことは出来ないし、家畜も、謎めいた神も、地震もない。とりわけ、古い神話を信じている観客がいない。我々の前にいるのは上演だと信じている観客、近代風のエクスタシーの力を信じている観客である。我々はパフォーマンスが解体してゆくところを示すのであり、私生活がその代わりになる。我々は私生活を恥知らずに展示する。自分自身を自由に示すパフォーマーたちと、役柄にいわば釘付けにされているペンテウス役者とのあいだには心理的な空隙がある。一人を犠牲にして大勢が楽しむこと、爆発と崩壊がディオニュソスが提供するものなのである。ペンテウスが破滅することはこの瞬間に明らかになる。彼だけが自分自身の悲劇から逃れられないのである。 Di69

4-2 Total Caress と観客参加

第二の重要な変化は、 Total Caress である。芝居の評判が高まるにつれて、観客は上演内容を把握するようになり、 Total Caress の準備をしてやってくるようになる。 Di69 はいわば実演つきのセックスショウの様相を呈し始める。グループの一人の女性が、「私はここで知らない年寄りとファックするためにグループに入ったんじゃない」と言ったとシェクナーは回想しているが、当初は、シュテファン・ブレヒトが観察していたように「シェクナーはグループを演出する際に観客のコントロールを考えている。観客とグループの固有の交流は、観客は受容的responsive でしかありえず、その反応も弱く、奇術師に腕時計をだまし取られる見物人のような立場にいた」のだが、秋頃には、「フィンレイ=ディオニュソスがシェパード=ペンテウスを誘惑する場面を除いては、セックスはやさしくも個性的でもなく、性格を表してもいない。匿名の組合せのコレオグラフィーは路上売春の個性のなさをおもわせる。セックスが強く、持続し、リアルである(前戯から絶頂まで)ために劇はセックスショウ、感情のない熱狂にな」っていた。 Stefan Brecht TDR 43 (1969 Spring) 。

最終的に俳優たちが caress の継続を拒み、 moiety dance にかえられる。グループは二つに分かれ、それぞれ大きなタワーの後ろで踊りを始める。一方のグループは観客にダンスに加わるように求め、他方は観客なしで踊る。観客参加はより限定されたものになり、caress の場合と異なりすべての観客が出来事を見ることが出来る。

4-3 Nakedness の導入

これは Grotowskiの示唆による。男性のサポーター、女性のスキャンティはストリップショーに上演を近づけてしまうと G は指摘した。裸の導入はより「正直」であるためだとされる。シェクナーは誕生と死のリチュアル、およびエクスタシー・ダンスにおけるnakedness の導入を提案した。参考図版は全裸版の「誕生リチュアル」 (Di69 による)

5 ギリシア劇としての Dionysus in 69

5.1 二重性

『バッコスの信女たち』は二重性が隅々にまで浸食して行く作品である。それは『オイディプス』の様に真のアイデンティティの発見による破滅の物語ではない。アイデンティティの崩壊による破滅の物語である。狂ったペンテウスは、ディオニュソスに、「太陽が二つに見える。七つの門を持つ町、テーバイもまた二つ。私の先を行くお前は牡牛のようだ。頭には角が生えているらしい。ああそうか、お前は以前から獣だったのか。いまやすっかり牡牛になってしまっている (917-922) 。」と語り、ディオニュソス自身、みずからのことを「人間には誰よりも恐ろしい神であり、かつ、一番やさしい神である( 861 )」と語るが、そのディオニュソスはこの芝居で人々の前には「人間」として現れているのである。また、古代ギリシアの伝承の研究はいとこ同士のディオニュソスとペンテウスがその起源においては同じ一つの存在であると理解されていたことを示すだろう。男らしさにこだわるペンテウスも、最後に女装という形でそのアイデンティティの二重性をあらわにするのであり、その時に自分のことを「男の中の男」だと感じることが出来るのである。テイレシアスとカドモスが対をなしていることは視覚的にも示されており、コロスすら、真実のコロスと舞台上に登場しない偽りのコロスという二つの部分に分かれる。この偽りのコロスを構成しているのはディオニュソスを信じないテバイの女たちであり、彼女たちは神のくだした狂気によって、ディオニュソスの信女として森の中をさまようのである。そして、様々な使者や伝令がディオニュソスの秘儀の様子について語るのはこの偽りの信女たちの行為を通じてなのであり、最初からディオニュソスに付き添ってきた真の信女たちはそれをおとなしく聞いているのである。偽りの信女が本物のように「見え」、本物の信女たちは言葉によってのみその行動が提示される偽りの信女たちのコピーのように見える。

この二重性は Di69では、アガウェを二人の役者が演じることによっても示されているが、基本的に役柄と俳優との二重性として、メタシアトリカルに提示されている。コロスも、Dionysusを演じる Finleyも、俳優としての自己と役柄とを自由に交替させ、役柄を離れない Shephard = Pentheus の二重性を露わにし、役者の敗北を役柄の破滅と結びつける。この構造は、 Shephard に多大の犠牲を強いることになった。そしてここに、演劇の始まりとしてのギリシア悲劇が取り上げられることの意味が生じる。ギリシア悲劇は、俳優と役柄との二重性がいまだ当然のこととして前提される以前の、仮面を通じて、それが祭祀的impersonationに起源をもつことがまだ意識されていた時代の演劇だった。

5.2祭祀性

ギリシア悲劇の祭祀性は、ここでは、行動そのものの儀式的様式化(悲劇の「アポロン的」契機)においてではなく、むしろ観客そのものの巻き込みとして生起している。俳優が単に役を演じる俳優であるだけでなく、観客も単に舞台を見る観客に留まることは許されない。彼は劇の出来事の参加者にならねばならない。実際、ペンテウスの選んだ観客がシェパードと交わるならば、そこで上演は終わるのである。この可能性は非常に低いが、上演を始める前から本物の可能性として俳優たちには提示されていた。ギリシア悲劇の持っていた、そしてその中でも『バッコスの信女たち』が特に鮮明に示していた祭祀性は、そのような意味での観客参加を前提としてはいない。むしろそこから離れることで悲劇は演劇として成立したのであり、市民の代表が演じるコロスにその名残りが見られるだけである。ギリシア悲劇の祭祀性は、むしろ、悲劇を見ること自体が祭祀への参加であるという事実のうちに認められる。しかし、この意味での観客参加を現代の観客に求めることは出来ない。宗教的共同体に代わり、現代アメリカでも受け入れうるものとして、抑圧された性的幻想の共同体をシェクナーは求めたが、この共同体の成否はその「抑圧からの解放」のうちにあり、つまり観客参加が観客の予想の程度を超えることを必要としていた。そのため、観客が積極的に参加の用意がある場合には、それはかえって祭祀的性格を失うことになる。観客参加は観客操作の手段に他ならない。

5.3 総括

グロトフスキは、Di69について、役者たちに殆ど見るべきものがなかったと評価したとシェパードは語っている。我々がヴィデオを見て驚かされるのも、演技の独自の様式、その試みの不在である。シェクナーと環境演劇の理念にとって、伝統的な意味での演技そのものはいわばどちらでも良かったことが分かる。他方、演技に於ける様式性の不在が、俳優と役柄との二重焦点構造を容易で、心理的に受け入れやすくしており、『バッコスの信女たち』という作品の構造的契機を浮き上がらせることに成功している。また、観客参加と祭祀性は、演劇が演劇以前の形態との連携を模索する試みの現われであり、それがギリシア悲劇と最大の親和性を示すことには疑いはないだろう。しかしながら、おそらくこの試みはギリシア悲劇に関しては反復不可能である(二つの意味で)。それはギリシア悲劇をそのディオニュソス的契機、忘我の熱狂と力動性においてのみ理解しており、その形式性、ギリシア悲劇が、ディオニュソスとアポロンの融合として初めて成立したことを取りあえずは脇に置いている。ギリシア悲劇の現代演劇としての上演はその後この契機を重視する方向をとることになったと思われるが、それは偶然ではないだろう。

文献
Richard Schechner. Environmental Theater . New York, 1973
-------------- (ed. ) Dionysus in 69. New York 1970
Richard Shephard. The Dionysus Group. New York 1991
Froma Zeitlin.Dionysus in 69, in Edith Hall et al (eds.) Dionysus Since 69: Greek Tragedy at the Dawn of the Third Millennium. Oxford 2004,
映画
Brian DePalma, Dionysus in 69 (1968). in Brian DePalma: Annees 60 (DVD Edition, Paris, 2004)