シンメルプフェニヒ 昔の女 (新国立劇場2009年3月)

新国立劇場の、海外の同時代演劇を紹介するシリーズ。そう言えば去年の今頃だったかしら、カーンの『きれいな肌』も同じようなシリーズでの上演だったように思う。でもその時が委嘱新作の上演のシリーズだったのに対して、今回は既成の作品で、それだけ作品の完成度は高いような気がする。

引っ越しを翌日に控えた中年の夫婦(松重 豊と 七瀬なつみ)のもとへ、夫が妻と知り合う前、時間にして24年前に一夏の恋を過ごした女(西田尚美)が急にやってくる。「随分捜すのに時間がかかった」という彼女が求めるのは、24年前の、「永遠に君を愛す」という約束の履行だった。

この出だしは典型的なストーカーサスペンスドラマのように見える。女が天真爛漫として周りの登場人物の言葉を聞いちゃいないので余計に迫り来る恐怖への準備をしてしまいそうだ。無理矢理追い出されて、またやってくるからとの捨て台詞を残して帰ろうとするところまではそう。

ところが、ここからドラマの様相は変わってゆく。家の前のどこか(ちょっと位置関係が分からない。女を見下ろせる場所のような気がするが、単に道の向こうかもしれない)にいた夫婦の息子(日下部そう)とその恋人(ちすん)が、家から出てきた女に向かって意味もなく腹を立て、石を投げつけ始めるのである。息子の投げつけた大きめの石が女にあたって女は気絶してしまう。息子は女が死んだと思ってその身体を抱きかかえて家に飛び込んでくる。

ここからはもうリアリズム的なサスペンスドラマを見る姿勢では見続けることが出来なくなる。観客の努力は目の前の出来事を正しく理解するためのコード探しに費やされる。とりあえず幾つかの徴候から、「不条理喜劇(細部がリアルな)」を一応の目安として見続けることになるだろう。夫はまずは女を寝室に運ぼうとするが妻に拒絶され、厭がる息子を無視して息子の寝室に運び込む。誰も医者を呼ぼうとしないし、妻は(悪くすると自分の息子が殺人者になってしまうかも知れないのに)、夫が女のケガの手当をすることにすら嫉妬を燃え上がらせる。このやり取りが(動きも含めて)コミカルであるだけに、人の生き死にに関わることが無視されている作品世界のあり方が不気味なものになってくる。

ここまでが多分第一幕で、休憩なしに続く第二幕(?)では数時間経過している。深夜、恋人との結構悲惨な最後のデートを終えた息子が家に帰ってくると、女は包帯を巻いて起き出している。息子も恋人に永遠の愛を誓いつつも、もう二度と会うことはないだろうとしれっとして女に語り、女とセックスをする。(その間、恋人は家の前で彼が出てきてくれないかとずっと待っていた)。このあたり昔の夫と女の関係のパロディになっている。

そろそろネタバレになるのであまり書けないが、急に女の力がとてつもなく強くなるので、また私たちは適切なコード探しを行おうとし、この芝居がそれをさせないように常にジャンル規則から逸脱しているタイプのものであることに気づく。そうすると、作品に何らかのメッセージを読み取らせることが可能なのかとまず疑うけれど(役者さんたちはそれで苦労したみたいだけれど)、結局は、約束と愛と時間についてのかなり含蓄のあるメッセージが伝わらなくもない。

再び数時間が経過した第三幕(?)では芝居のモードは再びストーカーサスペンス系に戻る。ここでは女の要求水準が上がっていて、単に過去の約束を果たすだけでは足りず、その間の時間の否定をも男に求める。男が女と一緒に家を出るつもりになった理由がいまいち良く分からない(台本だけを考えると、妻がとても抑圧的なようにも見えるが、舞台上では一番可愛らしいのでちょっとの夫婦げんかでほとんど記憶にないストーカー気味の女と出て行こうと思うのだろうかしらん)。

いろいろとジャンルのモードが変わって行きながらも、最後の暴力的な結末で、我々はこの芝居が女性の怒りの原型的な作品、つまりエウリピデスの『メデイア』をモデルにしていることに気づく。神話的な原型を出すことで、ある種の普遍性が現れることになった。但し、この結末は第二幕からある程度予想されるものではある。

演出(倉持裕)は、出来る限りコミカルに、衝撃的な結末を予想させないように動かせるが、作品とはいまいち合わないのではないか。時間が数分前後に跳ぶことがしばしばあるという、映画(と言うよりも小説なのかな)からの影響が感じられる作品だが、そのために生じた反復も、演技自体は反復させず、ずれによって笑いを生み出すところも含め、演出方針ははっきりしている。しかし、ここは反復の恐ろしさを出すことが出来る場面ではないかしら。映画らしい別の時間の挿入だと、『イージー・ライダー』の燃え上がるオートバイのことを思い出すが、ここでは、単に説明的で、その分小説的だ。