デュルシネアの嘆き

デュルシネア・ラングフェルダー&Co.

始まる前に不愉快な思いをしたし、ハイソな客層を見て、これは僕なんかがいる場所ではないな、と思ったのだが、中味はまあ面白かった。勿論、デュルシネア・ラングフェルダーは多分僕よりは一世代は上の人で、激しい、あるいは意表を突く動きがあるわけではないし、フェミニズム的視点は男にはいまいちピンと来ないところもある。ヨシ・オイダに演劇を学び、エティエンヌ・デュクルーにマイムを学んだニューヨーク出身のパフォーマーで、モントリオールで活動している。2007年のエジンバラでは「ダンスフィジカルシアター部門ベストパフォーマー賞」受賞だそうだ。使われている曲にBlack Magic WomanとかWhile My Guitar Gently Weepsとかがあったので、日本の団塊と同じ世代かな。他には、奇妙な果実とかラベルじゃないボレロとか。

デュルシネアとはドン・キホーテが勝手に理想化してお姫様と決めつけてしまう酒場女の名前だ。二人は出会いもしない。翻訳ではドゥルシネアになっていると思うが、ラングフェルダーの日本語表記に合わせてこの公演ではデュルシネア。公演はデュルシネアとドン・キホーテの人形(四肢が動き、黒子が二人がかりで支える)との対話で始まる。ドン・キホーテの当該の部分を予習しておくと更に楽しめたのかも知れない。

女性を象徴化する男性社会の身勝手さが笑われて行く中で、デュルシネアはあるいはデュルシネアは女性母神と同一視され世界中の女性母神像(マリアも含む)がスクリーンに映し出されるなかで踊り、あるいはボッティチェリのヴィーナスと、あるいはセックスシンボルとしてマリリン・モンローと同一視される。

もともと、方向を持った物語のラインがあるわけではなく、類推と連想で結びついたシークエンスだから、その場は楽しいのだが、後に何かが残るというようなものではないし、新奇さで見せるようなダンスでもなく、特に考えさせるような中味がある芝居でもないが、スクリーンパネルの使い方や映像の重ね方に手慣れた面白さがある。最後はよくわからない911ネタ。911のときに彼女はバルセロナにいて、バルセロナはその日お祭りで、彼女のいたところにはテレビもなくて、お祭りで踊っている人たちと自分との違和感を感じたという話。スペインってその少し後にアルカーイダの列車テロがあったよね。

日本が世界初演らしく、日本語の台詞がやたら多い。ずいぶん長台詞もあり、本当にその場で喋っているとしたら大したものだ。「フタエノキワミ・アッー」レベルの日本語を長々と聞くことが出来るのはなかなかそれだけで面白い。でも、多分口パクなんだろうな。300も入るのかなという舞台で、全面マイク利用で、顔の場所と声の定位がずれているので、口パクはやりやすい。日本語の間違いもとちりもなかった。別に口パクでも全然良いんだけれど、字幕と英語の台詞が大幅にずれているのは情けない。英語以外の台詞の字幕になると更にずれは激しい。

自由席で当日券の発売は開場の六時半からということで、それに合うように行ったら、当日券を買って開場されても、十人くらいの当日券の客は中には入れてもらえない。前売りの客と関係者及び招待者がやって来て席に着くのを待って(開演五分くらい前だ)、それから当日券客への案内が始まる。(すでにいた前売りの客より後回しにされたというだけではない。)これってふつーは安売りチケット客への扱いだわな。ほとんど宣伝もしていないし、ロビーで見ていると客の半分以上は関係者ないし招待者の感じ。多くの人が主宰者と挨拶を交わしていた。当日券で来るような客は邪魔だったのだろう。身内を大事にする姿勢には好感が持てた。