演劇集団「円」 ファウスト

共産党の新聞「赤旗」からメールで、劇評を書かないかとお誘いがあった。一回650字だそうで、とりあえずお引き受けすることにした。続くことになれば月一度のペースなのだが、初回はまずはお試し期間。

で、演劇集団「円」の『ファウスト』を観ることになった。何を観るのかは基本的にはこちらの希望を出すのだが、初回は「赤旗」の文化部の人の提案したものを観に行くことにした。

政党の機関紙なので、内容に関するチェックが入るのかと思ったが、そういうことはなく(誤記等は訂正してくれている)、いわれたのは、「どんな劇団のどんな芝居のどんな上演なのかが分かるようにしてください」ということと、「上演期間中に掲載したいので、間に合うように書いてね」ってことだ。

劇評は、こうやって自分のサイトに書いている分には自由に書き散らせるのだけれど(字数制限もないし)、新聞(30万人くらい購読者がいたのではなかったかしら)に650字というかなり短い枚数で書くのは結構難しい。

「どんな劇団のどんな芝居」ってところ(つまり紹介)だけで、有名劇団の有名作品でない限りは半分くらい、悪くするとほとんどの字数が取られてしまう。また、作品や上演について「良かった」というのは比較的簡単なんだけれど、批判的に語る場合、まったく字数が足りなくなる。「これこれはこう良かった」対「これこれはこうあるべきなのにこうなっているので良くなかった。」の違いで、「こうあるべき」ってところは断定では駄目である程度の論拠が必要だからだ。

その辺の塩梅も徐々に分かってきたように思うのだが、時々は失敗する。

で、「ファウスト」の劇評(PDFにリンク)(自分の劇評を自分のサイトに転載する許可は得ている)。

書けなかったことを列挙しておくと、

  1. 「ダイジェスト版ね」(「うまくまとめている」という形で残った。)
  2. 「これだったらマルガレーテは私生児を産んだってだけでつぶれて自分の子供を殺しているんで、あんまり同情の余地はないじゃんか。中世にだって私生児も、その母親も山ほどいる。」
    (これも最初にゲーテのファウストの粗筋を入れ、最後にそこからのずれを記述し、一番最後の評価の箇所で分かるようにはした)
  3. 「ファウストをメフィストが守ろうとする落ちは、あからさまに手塚治虫の『ネオ・ファウスト』の「パクリ」ではないか。」
    (ファウストとメフィストの間の疑似恋愛関係もそう。で、こうした「パクリ」は私は芝居では「やっていい」と思っている。法的に問題のある「剽窃」が良くないのは言うまでもない。発想をあちこちから借りてくる、ってことなしに演劇はなりたたない。批判ではないが、手塚に結構多くを負っていることを書くスペースがなかった。)
  4. 「新劇風舞台なんで、超自然的な要素が全部滑稽にしか見えなくなるのはどうかなぁ。」
    (「等身大」の一言しか言えなかった)
  5. 「ヘレネが美人じゃない」
    (これは新聞には書けない。でも、ヘレネは美の理想であり、演じる人にそれなりの緊張と不安を与えるべきなんだけれどなぁ。「トロイアの女」のヘレネとか、とりあえずその劇団の一番の「美女」にやらせないと納得できないだろう。)

ほとんど書きそうになって最後にやめたこと。

(2)はゲーテの『ファウスト』の上演という点では致命的な欠点だし、それを抜きにしてもやっちゃいけない物語作りだと思うのだが、脚本家も演出家 も気にならなかったのだろうか。また、(4)で考えていたのはヴァルプルギスの夜なんだが、マジック・リアリズムの影響を受けた舞台、それなりに真剣さを 残す舞台が幾つもあるなかで、「滑稽」に走ってしまうのは今の日本の状況の反映なんだろう。グロテスクな緊張が耐えられないのかなぁと、これは泉鏡花の 『山吹』の歌舞伎版を見たときの印象でもあった。

もう一つ、ヘレネとファウストの間に出来たエウフォリオンは、家庭的な幸せに満足 せず、より高みを目指して挫折するロマン的アイロニーの典型のような人物だし、その死の姿はギリシア独立革命に参加して死んだバイロンを念頭に置いている のだけれど、ここではDV青年で、あろうことか少女たちの一人をレイプする。その瞬間、エウフォリオンの個人的な苦しみなど問題にならないような苦しみが 生じるのに、演出はレイピストの苦悩にしか眼が向かない。これが現代化なら、古典の現代化など要らない。

この上演を『テアトロ』で2006年度ワーストに挙げる人がいた。芝居の「ワースト」ってのは、「気に入らない」の別の言い方でしかなく(だって下には下があるのだもの)、実際この舞台がワーストに入るほどだとは思わないけれどね。