新国立劇場 ピランデッロ『山の巨人たち』 (08/10)

演出: ジョルジュ・ラヴォーダン 美術:ジャン・ピエール・ヴェルジェ
キャスト:イルセ 麻実れい、伯爵 手塚とおる、ディアマンテ 田中美里、クローモ 大鷹明良、コトローネ 平幹二朗

赤旗に劇評が載ったので転載します。

赤旗に新国立劇場の上演について書くのは五回目になるけれど、なぜか私はこの劇場と相性が悪いようで、きちんと感動できたことが殆どない。外タレが来たときは別で、太陽劇団の『鼓手』やベルリナー・アンサンブルの『ウイ』などは、多分これまで見た劇経験の中でもベストのものの一つだった。でもそれは相手のおかげだ。イリーナ・ブルックの『ガラスの動物園』もとても良かった。これは例外かなぁ。ギリシア悲劇三部作では、『アガメムノン』改作が、私にとっては分かり易い良い作品だったが、一般には評価が低かったようだ。これはずらしのテクニックが秀逸だったためで、それが分かるほど一般にギリシア悲劇は有名じゃないよね。

で、今回のピランデッロだけれど、「小屋が広い、テンポが遅い」以上に感想としては言うことがない。批評家招待日みたいで周囲も劇評家の人が多かったようだが(私は劇評家の人って多分一人しか面識がないので、知っている人はいなかった)、始まって三十分くらいから寝息が聞こえる。私も第二幕の途中で一瞬舟を漕いでいた。劇で寝たのはほんとに久しぶりだ。

小屋の広さについて。この劇場は芝居をやるには本当に広すぎると思う。大体観客席が扇形に広がっているし。客席の奥行きがないくせに舞台はだだっぴろいし天井も高すぎる。ミュージカルだと空間を十分に活かせるかもしれないが、近代以降のストレートプレイではどうしようもない。両端と上を無理矢理塞いでしまってある種のプロセニアムを作り上げるくらいしかないような気がする。で、客席も中央部分だけでよいと。ギリシア悲劇三部作の時には(客席に関しては)そういう設定にしていたはず。でもそれが充足率の低さにつながって舞台監督の降板になるのだったら可哀想すぎる。

今回の上演に戻ると、フェリーニが好きだというラヴォーダンは二幕の幻想的な場面をもっといかがわしく楽しいものにしたかったのではないかと思う。また、それにふさわしいセットを二幕に関しても用意したかったのではとも思う。アーチ型の橋を奥から手前に架けた第一幕のセットは、橋があんなにだだっ広くなければもっと魅力的だったはずだし、花火やアクロバットの効果ももっと活かせたはずだ。でもそれは第二幕には全然合わない。幻想を見せるなら見せるでそれにふさわしい枠組みが必要だ。そしてその枠組みは結構予算がかかるものになるような気がする。

もう一つ、役者たちを幻想の世界に引き込む魔術師は、もっと香具師のような雰囲気を出して欲しい演出ではなかったかしら。ここには言語ギャップが不幸に働いたように思われた。外国人のしゃべりがその国の人間にとってどれほど「たるい」ものなのかは、その言語を解しない人間にはなかなか分からないだろう。その意味で、今回の舞台は演出家の方向性とも違っているのではないか。

でも、これらは推測でしかなく、その根拠も伯爵夫人の登場の時の身振りとか、若干のアクロバティックな動きとか、第一幕のセットとかしかなく、とても新聞に書けるようなことではなかった。で、今回の劇評は次のような意味で出来の悪いものになってしまった。ごめんなさい→赤旗の人および読者の皆様。

私の考える典型的な出来の悪い劇評とは、「見たら分かるし、演出家も承知の上で行っていることの浅い記述」+「自分の個人的な好悪」で、今回はかなりそうなってしまった。この手の批評は、典型的には、オペラの現代的演出について、原作の軽快さ(荘重さ)は失われてしまった云々と書くようなものを考えると良いだろう。ついでに「モーツァルト(ワーグナー)が見たらどう思うのだろうか」というフレーズが入っていれば最高。たとえば、とここで幾つか例が浮かぶがどれも個人的に支障があるものばかりなので省略。なぜそれが良くないのかというと、「私はこの演出が嫌いです」という以上の情報価値がないからだ。たとえば最近のサン・カルロス劇場の『サロメ』では、七つのヴェールの踊りの代わりに家族団欒シーンが描かれていたらしいが、そのことの効果、それによる劇全体の読み替えの意味(だってワイルドですからね、劇としても充分読める)を批評は考察して、その結果を書けばよいと思う。読者の関心はあなたの趣味にはないのだから。(これはブログなどではまた別だと思う。ブログでは読者の関心はおそらくあなたの趣味にしかない)。

とは言え、とても有名な芝居と、ほとんど知られていない芝居とでもそうした評価の基準は変わってくるだろうし、わざとやっているのかどうかについての判断も必要だ。作者の意図と外れたものになったということが、演劇では貶し言葉にはならない(作者の意図通りの古典劇上演なんて見る気がしない)が、オペラでは貶し言葉になると言うのも興味深い。多分オペラのチケットがとても高価で、それだけの金を払って人々が観に行くときには、新しい解釈ではなく見知ったものの再確認を行いたいということに大きな原因があるのだと思う。だから予想の範囲から外れるものはすべて「なっていない」になるんだろう。実際、私が昔サイモンとガーファンクルのコンサートに行ったときに、サイモンがリズムを崩して歌っていたのにがっかりした記憶がある。LP通りの演奏を期待していたのだ。(あのコンサートは当時の私には結構高かった。)その後に行ったPink Floyd(ウォーターズ抜き)のコンサートでは、フロイドらしい大仕掛け(有名な豚の人形も飛んだし)で、別にウォーターズがいなくてもあまり気にせずに見ることが出来た(新曲はつまらなかったけれど)。

ここまで書いていて、自己批判から他人への批判にシフトしているのには気づいているが、それでも良く分からないところがあるので書いておきたい。オペラを観に行くとき、人は、本当に、原作の意図通り(だと彼女が思える)の上演形態に惹かれるものなのだろうか。一方でピュアトーン演奏は(オペラファンには)あまり評判が良くないのに。なんでロココの衣裳で鬘を被ったり、太めのお姉さんが衣裳を一枚ずつ脱いでいったり、変な兜のお姉さんが張りぼての怪獣と闘ったりする舞台の方が(ワルキューレは闘わなかったか)、今の私たちとの共通点を視覚的に見せようとする舞台よりも面白く思えるのだろう。どうして音楽と衣裳の乖離は楽しめないのだろう。私はその方が一粒増えておいしいと思うのだけれど。(未了、もう少し考える必要があるが多分放りっぱなしだろうなぁ)