ギリシア国立劇場 『バッコスの信女たち』

2005年のギリシア国立劇場の夏の公演は、『アカルナイの人々』、『バッコスの信女たち』、『夏の夜の夢』の三本だ。夏のギリシアの劇団は大も小も、ギリシア中をツアーで回り、古代ギリシア劇を中心としたプログラムを上演する。これは、ギリシア国立劇場の海外公演が、彼ら自身にとっても意外な成功を収めたことと関係があるらしい。今年は、たとえば、北ギリシア国立劇場は『平和』を、カルロス・クーンの民衆劇場は『女の議会』を、ディアドロミ劇場は『オレステス』を、ラリッサ公立劇団(テッサリア劇団)は『縛られたプロメテウス』を、アグリニオ公立劇団は『アガメムノン』を持って各地を回っている。アテネに住んでいると、9月上旬からアテネ界隈のあちこちの劇場でこれらの芝居が上演されるのをほぼ全部見に行くことが出来る。ギリシアの劇ファンがアテネに住んでいるとすれば、彼女は毎年10本近い古代演劇の上演をみることが出来るわけである。

このことは、上演題目の選定、演出の方法に大きな影響を与えるだろう。古代ギリシア劇のレパートリーは、たとえば歌舞伎に比べても圧倒的に少ない。それが毎年いろんな劇団によって繰り返し繰り返し上演されるのである。観客の興味をつなぎ止めるのは容易ではないだろう。ギリシアの劇団は、夏には古代劇を上演しなければならず、演出家の芸術的選択によって古代劇を上演するわけではないのである。

また、ギリシアの、特に国立劇場の上演の場合、テキストを改変することもほとんどないようだ。過去の遺産を大事にするその態度はギリシアの劇団ならではのものだが、ギリシア悲劇の場合、それではつらい作品も結構ある。さらに、これは山形治江さんの演劇学会での発表によると、ギリシアの国立劇場がギリシア劇に関して何らかの前衛的な演出を行うことについて、ギリシアの批評界は総じて否定的だという話だ。

今回の『バッカイ』は、それでも、途中までは十分に前衛的だった。最初パンツだけを着けたディオニュソスは水の入ったボウルのなかに身体を折り曲げて入り、身体をねじりながらはい出してくると、彼の冒頭の台詞を語る。水の中に浸かっている姿は羊水に満たされているようだし、と考えるとこれは「誕生儀式」に他ならない。シェクナーのDionysus in 69の影響がある。このディオニュソスはかなり感情的だ。そしてコロスの入場。コロスは劇中、ペンテウスの最後を聞く時を除いて決してほほえみを絶やさない。台詞の中にも時折笑いが漏れる。そしてその笑いはとても不気味だ。ディオニュソス信仰は、ここでは「笑いの教団」であるカルトだ。コロスの中に最初から男が二人いるのには納得出来なかったが、男はだんだん増えて行く。ここで、コロスを通じて町がディオニュソス信仰に浸食されて行く有様が視覚的に示されている。カドモスとテイレシアスだけでなく、様々な伝令たちも、ディオニュソス信仰の木蔦を身にまとって登場する。ペンテウスを除き登場する全員がディオニュソスの側なのだ。

この芝居では、テイレシアスがペンテウスに、町の中でおまえ一人が狂っている、と語る場面がある。実際はどうなのだろう。宗教的には、悲劇はディオニュソス祭礼の中で上演されたのであり、ディオニュソスを神として認めないペンテウスは、最初から、蒙昧の中にいる人間である。しかし悲劇の与える印象は異なる。狂気に支配されつつある町の中で唯一正気を保とうとする悲劇的な英雄としてペンテウスは現れてくる。この上演では、信女たちだけでなく、ディオニュソスも身体をくねらせ、叫び、狂乱のうちにあるものとして描かれていたと思う。そしてそのことによって、ペンテウスの孤高の正気が際だつことになる。それが神の力の前にもろくも崩れ去る、そのペンテウスの演技が絶品。

バッカイはこの上演では歌わない。しかしダンスはやや破調のもので、肌色のシャツは徐々に透けて胸が露わになって行く。このあたり、2003年のテルゾプーロスとデュッセルドルフの上演の影響がある。但し露出度は様々だ。このコロスだけでも十分に物議を醸すかもしれない。しかし常に笑いを絶やさず、恐ろしい行為を扇動する姿はおぞましい。日本のある種の宗教を思い起こしてしまった。

ところが最後のアガウェの場面から後は、いつもの安心してみていられるギリシア国立劇場のギリシア悲劇だ。アガウェも彼女が持つペンテウスの首も全くリアリズムつーか新派で、聞かせるし泣かせる。でも外国人にはつらい。ここは少しテキストを刈り込んで、などと冒涜的なことを考えてしまう。しかし、ギリシア人の客には、ここで持ち直した人も多いかもしれない。非常に分裂した印象だ。

まあ、外国人には、いかにもギリシア人的な悲劇の楽しみ方は不可能だし、それはそれで良いと思う。惜しむらくは、前半の前衛的な部分にもう少しスピードとひねりが欲しい。微笑み教団というコロスの発想はとてもショッキングなのだが、ダンスの動きが予測可能になっていた。(この際、二種類の信女たちの対比というエウリピデスのテーマが無視されていることは脇に置いておく。それはこの上演に関しては重要ではない)。