「ゴドーを待ちながら」 新国立劇場4月

これも例によって「赤旗」劇評を書いた。

さて、企画段階では全然期待していなかった。というか、新国立のこのシーズンのJAPAN MEETS...は、内部事情を全く知らない人間には、前芸術監督の一期更迭でびびった、営業的にも懐古(ノスタルジー)趣味からのある程度の集客が期待できて政治的にも新作なしなのでどこからもいちゃもんが付かず、かつ、「回顧」「総括」好きの日本人のメンタリティにあった意義付けが可能なお手軽なシリーズにしか見えないので、本当にまあっっっったく期待していなかった。(内部事情を知らない一人の人間の印象なので、事実は全く異なっているのだろうけれど、外野はこのような物語を作ってしまう、ということの記録として、書いておくことにする。)

それでも、意外な冴えが見られることもあって、「わが町」のある種の虚無感は、メタシアター的メッセージを持っていたと思った。安全な場所で安心して上演出来ることの持つ虚無感が重ねられているような…

だから、キャストを見ただけで、過剰な暴力的身体ギャグが期待出来そうにないことは分かるし、スピードが遅く、ラッキーの長台詞も生理的反応を引き起こさせることはないだろうし、特に橋爪さんのヒューマンな人柄が物語の不気味さを中和するだろうことも分かった。観客もある種安心できる不条理劇を期待して行くだろう。ベケット入門には向いているかも知れない。そんなものが見られると想像していた。

それが311ですべてが変わった。「行こうよ」「だめだ、ゴドーを待たなきゃ」がどこまで僕達の現実なのだろう。僕達はどこまで、来ないゴドーをずっと待っているジジとゴゴなのだろう。

その瞬間、『ゴドー』の上演自体がとても繊細で、危険なものになった。『ゴドー』を、瓦礫の中にある町、非難と自己正当化の中で動かない政治、いつまでも終わらない不安と恐怖に結びつけずに見ることは殆ど不可能になった。たった一つの眼差しや身振り、セットや小道具の何気ない要素ですら、あらゆるものを軽々と飛び越えて311と、動くことも留まることも出来ない人々、計画的停電(もう懐かしい思い出になった)や計画的避難との非計画的結合を持つ。それはそれだけ、芸術的にも社会的にも大きな意義を持つ上演になりえたということでもある。社会の不条理が裸出している場所では、この上演は多くの人を傷つけるかも知れない。演者は、それにきちんと応えて、なおかつ、それが傷つけるかも知れない人々に対してもこの上演は提示可能なものなのだ、ということまでも示さねばならない。不条理や実存主義が流行った時代があったよね、あの頃はヘルメットの人たちがさ…などと懐かしく回顧することなどできやしない。

で、この上演は、不条理の懐かしい回顧というその殆ど不可能な試みに果敢にも挑戦し、まあ何と言うか実現してしまった上演だ。実際に首を吊ることなど出来そうにない一本の木しかない舞台、古典的な浮浪者スタイルの衣裳(それらがテキストの指示通りかどうかは別に教えてくれなくて良い)、身振りの抑制、節度を保った喋り方、すべてが、「これは今ここで起きていることとは関係ないんです。だから、もう少し非不条理の夢を見ていようよ。」というメッセージを伝えてくれる。そのメッセージの強烈さに比べれば、喜劇として笑えないとか、対面客席が思いつきでなおかつ失敗しているとか、演技が横ばっかりとかは、全くどうでも良いことだ。

そしてそれこそが、私たちの「国立」劇場の使命なのだろう。

追記(1):この上演について、テアトロ2011/7で菅孝行が「更に、この舞台のもう一つのつまらなさの理由は、地震と津波と原発損壊の一月後の上演だというのに、その事態を受け止めようとする感度が全く見られなかったことである」と書いていて同意。ただ、「おそらくこの演出家には、不条理劇とは時事的な出来事とは異次元のテクストだという思い込みがあるのではないか」と続けていてそれは違うと思う。これはきわめて意識的に「時事的な出来事」と断絶しようとした努力の結果に感じられた。そうでないと、あそこまでクリーンな舞台は生まれようがない。だから、「芸術表現はそれが構築される位相とその外部との緊張を不可欠とする。新国立劇場の『ゴドーを待ちながら』はそれに対する関係意識が欠如していた。」というのも正確ではない。関係意識はなかったのではなく、逆の側で顕示されていたのだ。

追記(2): 入り口のページで、この芝居とともに挙げた野田秀樹氏のAERA降板が二大がっかりの第一だったのは、彼がたまたま「エア御用」と揶揄されるようになった人々の言葉を信じたように見え、AERA編集部がもっと危険よりの研究者の話を信じていたように見えるということへのがっかりでもなく(そんなもん、我々文系の人間に間違えるなと言うのは無理だ)、その頃の実際の事態の進行がむしろAERA側の報道に近かったということのせいでもない。

でも一応引用はしておく。
私の方が事実を述べようとしている。私は「東京はまだ放射能がきたというレベルではない。冷静になって罹災地である東北を、フクシマを支援すべきだ」という趣旨のことを書いた。だがアエラ本体が「東京に放射能がくる」という。しかも最悪の事態はチェルノブイリだと断言までして。AERA03/27

がっかりだったのは、そのような、素人の彼の目から見て危険側に偏った意見を伝えるマスメディアが、マスメディアの本分を外していると断言したことだ。「危機にあるとき、その危機を煽っても、その危険はなくならない。危険を出来るだけ正確な情報でそのまま伝えること、これがまっとうなマスメディアのやることだ」とこのがっかりさんはのたまう。もしこの命題が真なら、危機にあるとき、まっとうなマスメディアは一つしか必要ない。複数在ってもまるで警察発表を伝える新聞記事のように全部が同じことを語るだろう。危機における情報は常にコントロールされている(隠すわけではなく出すという発想がないだけかも知れない)ので、どの情報を「正確」とみなすのかは、どの情報に意義を認めるかという評価を必ず含む。「最悪でもチェルノブイリにはならない」というのは、別に正確な情報ではなかった。それは置いても、「そのまま伝えること」は、別にジャーナリズムの「やること」ではない。それはむしろ当事者(この場合権力機関とか関係企業とか)が「やる(べき)」ことだ。ジャーナリズムがやる(べき)ことは、当事者の伝えている「正確な情報」をチェックし、その情報に別の解釈可能性がないかを検討し、その時代の科学的・社会的常識に極度に反しない範囲で様々な可能性を提示して市民が判断する材料を与えることだ。安全側に偏ったメディアもあれば、危険側に偏ったメディアもあるだろう。それら多様な解釈の提示があって初めて、私たちは自分なりの生活上の判断を下すことができる。

煽りは良くない=危険側に偏った情報は安全側に偏った情報よりも提示するのに大きな根拠が必要だ、という信念は、次のような典型的なレトリックを生み出す。「おそらく私は、この原発事故をアエラほど軽くは考えていない。今起こっていることは、ふだんマスメディアが、おもしろ半分で人々を煽るような次元のこととは違うと思っている。(中略)だからこそ、まずは福島の現地が問題なのである。放射能がこのまま少しでもおさまり、福島や茨城への被害が最小限におさまっていくことを祈るべきだし、その方向にむかって、東京も最大限の支援をするべきだ。」まあ、アエラがこの原発事故を野田氏より「軽く」考え、おもしろ半分で人々を煽っているという評価は、アエラの特集そのものから出てくるのではなく、情緒的なもので、「事実を正確にそのまま伝え」ている訳ではないが、野田氏はジャーナリストではないので、そこは構わないのだろう。レトリックは「東京の危機(そんなものは実は表紙についての野田氏の情緒的反応以外にはないのだけれど、仮にあったとして)」と「福島の現地」が対立的にとらえられていることだ。合理的に考えて、「東京も危ない(かもしれない)」という主張は「福島」の危険をより強調するものであって福島に目を向けることの反対ではないのに。