グリークス

劇評コーナーに

三日に分けて観劇しました。それぞれその日のうちに感想を書いたので、各部の評価が随分違います。

第一部

RSCの演出家ジョン・バートンが、トロイア戦争とその後日譚を扱った9本の悲劇とホメロスの『イリアス』をまとめた作品『グリークス』が、日本で初演されたのはちょうど10年前(1990年)のことだが、今回、蜷川幸雄が新たに演出した。
この新しい上演に当たって動員された俳優たちはきっちりと二種類に分かれる。一方に、平幹二朗、白石加世子、麻美れいなど、蜷川演出、鈴木構成・演出などのもとで日本のギリシア悲劇上演を作ってきた俳優たちがおり、他方に田辺誠一(紫のバラの君)、元ヅカジェンヌなどの人気若手たちがいる。前者が芝居を作り、後者が観客を集めたのだろう。


作品は大ざっぱだ。ストーリーの進行に直接関係のない部分は容赦なく削られる一方、観客にギリシア劇の知識がないことを想定した説明的な台詞、近代的心理描写が山ほど盛り込まれる。その描写がもとの芝居と矛盾していようがあまり気にしないし、オリジナルの作品間の矛盾は小手先の説明で糊塗される。最たるものは、カッサンドラの予言は真実だが誰も信じないと言うことを登場人物の全員が知っている、という矛盾だ。これは作品世界のお約束をぶちこわしてしまう。厭戦的な二つの悲劇(『アウリスのイフィゲネイア』と『トロイアの女たち』)に挟まれた『イリアス』には、前後と調子を合わせるために、自分の死すべき運命を何度も強調し厭世的になるアキレウスや、娘を殺した罪の意識に苛まれる(娘は助かったんじゃなかったっけ)アガメムノンの台詞が鏤められる。やたら神々を責め、神に「裏切られた」と叫ぶのもこの芝居の特徴で、おいおいギリシア人ってのはここまで無責任だったっけ。ギリシア人にとっては、自分たちの行為に神々が介在している場合でも、それはその行為が自分の意志の結果であり、自分がそれに責任を持つべきだ、ということとは矛盾しないし、この独特の世界観が後世にとってのギリシア劇の最大の魅力になっているんだけれど...

この作品全体を貫くライトモチーフは、バートンによると「誰が悪かったのか」だそうだ。これはギリシア劇に思い入れのある観客を貫くモチーフでもある。第一部第二幕のトロイア戦争を単調で湿っぽくしているのはギリシア側しか描かないバートンなのか(ヘクトルとアンドロマケの別れは見たいぞ)、それとも舌っ足らずなアキレウス(田辺)とテティス(南果歩)なのか。女の視点が前面に出ている割りにその台詞に説得力がないのは集客担当の俳優たちのせいなのか、それとも中途半端なフェミの影響を受けているバートンの編集・改竄のせいなのか。上着を脱いで、横になって股を開くほど下品にしないとヘレネに説得力がないと思った演出家に責任があるのか、それともそうしても説得力がない女優になのか。レトリックいっぱいのエウリピデスの台詞はどうせ分からないのだから神であるエロースを「愛」って訳しても構わないと思った翻訳者にも責任があるのか。(ヘレネがメネラオスを捨ててパリスに走った自己弁護として、「神にはだれも逆らえない」はかろうじて詭弁になっているが、「愛にはだれも逆らえない」は単なる居直りだ。「なら愛を貫けよ」って突っ込みが入るだけ。)アステュアナクスの埋葬が済んでいないのに登場人物たちが埋葬に興味を失ってしまうのは......これは端的に演出の問題か。

実は誰も悪くないのだ。腹を立てるのはギリシア劇の世界を既に好きな人だ。この劇はギリシア世界を提示し、理解しようとする試みではそもそもないのである。これはギリシア世界を再解釈、合理化して違和感をなくし、消費財にする試みであり、古典的人物の屹立・悲劇性を求めたのが間違いだった、ということに気づいたのは終演後、アステュアナクスの死に涙していた隣の客が廊下を駆け抜け出口へ向かい飛び出していったときだ。廊下を駆け抜ける彼女たち。楽屋口の前で「お気に」の役者を待つんだろう。急いでいるところからして「デマチ」の相手は第二部で出を終えた田辺かな。「グリークス」はこういう子たちにギリシア世界の入り口を示す、極めて啓蒙的な舞台だった。ギリシア世界の近代的センチメンタルな解釈に退屈したとしたら、それは見に行ったあなたが悪いのである。我々には里中満智子のギリシア神話や、阿刀田高のギリシア神話が必要な位に、バートン/蜷川の「グリークス」も必要なのである。

寄せ集められた場面の中で感動的なのは、『アウリスのイフィゲネイア』での、クリュタイムネストラ(白石)によるアガメムノンへの翻意の懇願のけなげさ、哀れさで、心理主義を超えており、翌日(『アガメムノン』)の変貌が楽しみだと思わせる。アンドロマケ(安奈)の子別れも絶品に近い。つぎはぎだらけの衣服を一瞬輝かせるこうした俳優の存在が救いになった。

第二部


第二部は随分まともだった。

三つの作品を中心にまとめている。エウリピデスの『ヘカベ』、アイスキュロスの『アガメムノン』、ソフォクレスの『エレクトラ』で、最後にエウリピデスの『エレクトラ』からエレクトラとオレステスの悔悟とオレステスの狂乱を引っ張っている。
『ヘカベ』は前日の『トロイアの女たち』を引き継いだテーマだ。『トロイアの女たち』で殺されたことが最初に暗示されていたヘカベの娘ポリュクセネはこの作品ではまだ生きていて、無事な帰国のためにギリシア軍が殺害を決めたところである。テーマ、進行とも『アウリスのイフィゲネイア』と同工異曲だが、この作品ではトラキス王ポリュメストルによる裏切りとその復讐のテーマも盛り込まれている。最後のトロイア王子ポリュドロスは万一の時のためポリュメストルに預けられていたのだが、ポリュメストルは財宝目当てに王子を殺し、ヘカベはアガメムノンの黙認のもと復讐を果たす。復讐の鬼と化したヘカベは最後に犬に変身する。

昨日同様渡辺美佐子の演技には大きさがないが、ヘカベは随分難しいので、仕方ない面もある。だが、王族の気品が最初にあるから犬への変身が際だつのも確かなのだ。

『アガメムノン』は演出の無茶と絶品の演技の対比が面白かった。この印象は今日明日の二日間を貫く。この作品のクライマックスは神々の嫉妬(フトノス)をおそれて紫の布を踏みにじることを躊躇うアガメムノンをクリュタイムネストラが説得して実際に歩ませる場面だ。この場面は理解しがたいところではある。確かに象徴的だが、さりとて何を象徴しているのか? アガメムノンのヒュブリスかもしれないが、アガメムノンは行為の前に神々の容赦を求め祈願しているので、このことによってヒュブリスを犯したとは考えにくい。観客の不安を掻きたてるという点では随一の場面だろうだが「意味」を問うと行き詰まる。神話的背景として託宣があるのかも知れない。例えばアガメムノンに対し、「故国の地を踏むことなく命を落とすだろう」とか...。(当て推量ですがね)

演出はこの場面を単純なスペクタクルとしてだけ利用する。冒頭、女たちが黒い布に糸を通している。アガメムノンが到着すると布が広げられ、舞台全体が赤い絨毯で覆われる。

アガメムノン登場の車をトロイアの女奴隷が引くという発想にまず驚く。貧相じゃないか。次に驚くのは登場したアガメムノンが直ぐに車を降りて宮殿前の大地に接吻すること。クリュタイムネストラとの対話の意味が完全に失われた瞬間である。車から降りるときに地面で足を汚したりしないよう、というのがクリュタイムネストラの気遣い(表向きの)だった。何をめぐって二人は争っているのだ?

第二に絨毯の色。コロスの女たちの衣装と同じ真紅である。生地も絨毯かカーテンのようで、どうしてこの上を歩くのが神の妬みを買うかもしれないなどと思えるのだ。そもそも布を踏みにじることをおそれるのはアガメムノンだけである。コロスの娘たちは表に返す前から自分が糸を通している布を気にせず踏んでいるし、アガメムノン退場の後は布を片づけもせずその上を走り回る。大体、クリュタイムネストラ自身が布を踏んでアガメムノンを説得するのだから、何をさせようとしているのかも分からないし、アガメムノンがなぜおそれているのか分からない。

にもかかわらず、この幕が深い感動を呼ぶのはひとえに白石のクリュタイムネストラの存在感にある。クリュタイムネストラの正義と不正の両方がこれほど深く響く声と演技は滅多に味わえるものではないだろう。内心をほとんど出さない前半と真意を開かしてからの後半の対比はかつての鈴木版『王妃クリュタイムネストラ』よりもおそろしい。このクリュタイムネストラだけ、薄っぺらですかすかではない原典からの翻訳で何度も見たい。

『エレクトラ』もすばらしい。三人の主要人物が全て説得力を持っている。寺島のエレクトラの強さはこの女性が母親にそっくりであることを納得させるし、柔弱なオレステスも彼が機会主義者アガメムノンを受け継いでいることが分かる。母との対決は、『女殺し油地獄』の工夫を借り、本水使用で歌舞伎役者らしい熱演。蜷川のけれんが生きていた。ただし、最後にエウリピデスの『エレクトラ』から両者の悔悟を付け加えているが、エレクトラに「私はおまえの短刀に手を添えた」と言わせるのだから、クリュタイムネストラとの対決の場面で手を添えさせないと駄目だろう。こういうテキストへの気配りのなさがこの演出家らしいところだ。

三日目

二日目と似た印象。相変わらずバートンのテキスト改竄が耳障り。今日の演目の面白いところは、滅多に上演されることのない作品がほとんどだと言う点だ。第一幕はエウリピデスの『ヘレネ』と『オレステス』。トロイアに行ったヘレネは神が空気で作った似姿で本物のヘレネはエジプトに幽閉されていた。この地に流れ着いたメネラオスと再会し、ギリシアに戻る(『ヘレネ』)。『オレステス』ではそのメネラオスとヘレネがアルゴスの支配者になっている。市民の投票でエレクトラとオレステスの死刑が決まる。彼らは逃げ出すためにヘレネを殺し、娘のヘルミオネを人質に取ろうとする。ヘレネに手をかけようとしたところ彼女は消えてしまい(エウリピデス得意の手法)、ヘルミオネを人質に緊張の一瞬、アポロン(アガメムノンを演じた平)が登場、オレステスとヘルミオネの婚約、ヘレネの神格化を告げる。見どころは死刑を告げられた両者が絶望から一転して策謀に走るところで、リズムがすばらしい。

第二幕はエウリピデスの『アンドロマケ』。ラシーヌも改作した名作である。アンドロマケはアキレウスの子ネオプトレモスの妾になっている。正妻ヘルミオネ(オレステスとは一緒にならなかった)が妬みのゆえに殺そうとするが、間一髪、アキレウスの父ペレウスに助けられる。ヘルミオネはネオプトレモスに自分の企みが露見するのを恐れるが、通りがかったオレステスに拾われ、オレステスはネオプトレモスを殺す。嘆くペレウスにテティスが現われ、海の国での幸せを約束し、地上の王国はアンドロマケとその子に委ねられる。ここにトロイアとギリシアの和解が成立する。

最後を飾るのがエウリピデスの『タウリケのイフィゲネイア』。これもゲーテを始め、近代の改作を数多く生み出した作品。アポロンの託宣に従い、オレステスとピュラデスはイフィゲネイアが巫女をしている黒海の島タウリケに着く。そこでイフィゲネイアはギリシア人をつかまえてアルテミスの犠牲に捧げる役割である。捕まった二人がアルゴス人だと知ったイフィゲネイアは、オレステスへの手紙を託す。両者の認知があり、三人は当地の王トアスから船で逃れる。追おうとするトアスにアテナが現われ、トアスは引き下がる。最後アテナがコロスにこの世の苦しみを耐えるように諭し、天上へ昇ってゆく。アテナの白石は前日に続き絶品。身のこなしと言葉の調和に息を呑んだ。

三日目はどの幕もデウス・エクス・マーキナーで締め、最初と最後に平と白石を登場させることで成功した。この「機械仕掛けの神」は劇的緊張を人間では解決不可能なところまで推し進めることを可能にする。理屈の多いエウリピデスでまとめたのも成功だった。

さて、こうして続けてみると、バートンの改竄が余り気にならなくなっていくのに気がつく。それらはすっぽり記憶から消えてゆくのだ。もともと、ギリシア悲劇は、異なった作品間で登場人物の性格はもちろん、出来事すら矛盾があっても構わない。もとになる伝説のヴァージョンは一つではないし、どれが「正しい」ヴァージョンかなど彼らは気にしていなかった。「正しさ」は作品の力によって生み出されるのである。だからオレステスが『オレステス』と『ヘレネ』で卑劣漢であり、『タウリケのイフィゲネイア』で立派な人物であっても何ら支障はないし、イフィゲネイアが殺されていようが実は助かっていようが構わない。ヘレネがトロイアに行かなかったのは、単に一つのヴァージョンの話にすぎない。

だが、バートンはそれに中途半端にこだわり、整合性を持つように作品を改良してくれる。そこに近代的個人が感じ取られて、見ている間は不快で仕方がないのだが、圧倒的な作品の力がそれを消してくれるという体験をした。

そして白石を筆頭とする「ギリシア劇役者」たちのすばらしさが、位置決めとスペクタクルしか考えていないような演出を補って余りある、見事な演劇体験を作りだしてくれた。