アーサー・ミラー 『橋からの眺め』 T. P. T.

1999.4.30〜5.30 ベニサン・ピット

1950年代のニューヨーク、波止場界隈のイタリア人街の話。港湾労働者のエディ(堤真一)は妻のビアトリス(久世星佳)、妻の姪キャサリン(馬渕英里何)と三人で狭いアパートに暮らしている。そこに、妻の従兄弟のマルコ(山本亨)とその弟ロドルフォ(高橋和也)がシチリアから密航してくるのを匿うことになったところから、彼らの平穏な生活はきしみを示し始める。マルコは妻子持ちの無口な男だが弟のロドルフォはブロンドで歌もダンスもこなすプレイボーイ(という設定なのだが、髪を金髪に染めたヤンキーにしか見えないのはなぜだ?)で、十七歳のキャサリンは徐々にロドルフォに惹かれてゆく。エディはロドルフォの容姿も話す内容も気に入らない。ビアトリスはエディの態度を、エディがキャサリンに異性として執着しているせいだと考え、二人を何とか引き離そうと、ロドルフォとキャサリンが惹かれあうのをむしろ推奨している。エディは自分では、ロドルフォが同性愛者でキャサリンを誘惑するのは結婚してアメリカ市民権を手に入れるためだと信じ込んでいる。
クリスマスの前日、二人が一緒にベッドにいるところにエディが戻ってきたところで緊張は爆発を迎え、暴れ出したエディはキャサリンを抱きしめ、ロドルフォが「同性愛者」であることを証明するために彼を押さえつけて無理にキスをする。
この「証明」は否定的な結果しか生み出さない。キャサリンはロドルフォと一緒に部屋を出て結婚する決意をし、エディはロドルフォたちを移民局に密告する。彼らは捕まるとイタリアに帰らねばならず、それは彼らの、特に妻と病気の子供を残しているマルコの破滅を意味する。
キャサリンが部屋を出てこの土曜日に結婚するとエディに宣言したとき、移民局が二人を逮捕しに来る。これまでのいきさつからエディの密告を直感したマルコが、エディの裏切りを難詰し、エディはイタリア人街での面目を失う。
皮肉なことに、ロドルフォはキャサリンと結婚して強制送還を免れる見通しになる。マルコは保釈によって一時的に保護施設から出ることは出来るが強制送還は免れない。ロドルフォとキャサリンの結婚のために保釈されたマルコはその足でエディの家に向かい、決闘の上エディを刺し殺す。

演出のロバート・アラン・アッカーマンは、この作品をエディの性衝動の悲劇として理解する。ビアトリスも、解説の狂言回しとして登場する弁護士のアルフィエーリもエディのキャサリンへの性衝動がエディの苦悩の原因だと考えている。ビアトリスはエディの自分に対する不能もキャサリンへの欲望のせいにする。プロットもこの解釈を支持し、姪に対するよこしまな性衝動を自覚できない一人の男の破滅の物語としてどこに破綻も生じない。その背景には、家父長的で因習に支配されたイタリア人(特にシチリア人)社会がある。

確かにそうなのだろう。テキスト上の主要な要素が亀裂なく並べられて、芝居はクライマックスへと進んでゆく。問題は、そんな物語のどこが面白いのだろうか、ということだ。最後のエディの死は、悲劇と言うよりめでたしめでたしの大団円に近い。確かにそれほど悪党とは言えない一人の男の死には痛ましさもあるが、彼の粗暴で共感できない態度、演劇の唯一の葛藤の原因が排除されたわけで、残る人々は翌日から彼のことなど忘れて幸せに暮らすだろう。

で?

確かに娘や姪に対する愛情がいつの間にか性的な衝動に変化することはあり得ないことではない。特に相手が血続きでもないのにずっと一緒に暮らしているとしたら、心理学的にはそういう人間がいても我々は何ら不思議に思わない。

で?

この劇では弁護士(真名古敬二)が解説者として登場し、エディの心理状態に対してフロイト的な注釈を加える。彼にとっては、最初にエディが相談に現れたときから、最後の結末は「必然的に」予想できたものなのだそうだ。この舞台を見る限りその通りで、誰にだって予想できる、異常だがbanalな心理劇にすぎない。

これは作品そのものの限界なのか?

確かにその側面も否めない。当時は何らかの意味があっただろう薄っぺらな精神分析的作品。弁護士に相談する代わりに、フロイトを読むか分析家に相談すれば避けられた悲劇。

しかし、テキストには本当に亀裂はないのだろうか。エディが姪への心配を語る言葉は表面的には至極真っ当であり、ロドルフォはどう好意的に見ても、自分の娘にボーイフレンドとして紹介されて喜ばしいタイプではない。彼は町の「笑い者」だ。また、姪にスラムから抜け出して欲しいという願いも真っ当なものだ。それに対して、すべてをエディの姪への性衝動に帰するビアトリスの理解には、彼女の欲求不満が明らかに反映しているし。弁護士の解説も、弁護士らしい、というか表面的な世間知のレベルそのものである。テキストには確かに亀裂・多面性がある。この亀裂をうまく利用すれば、もう少し現代的な舞台に仕上がっただろう。演出はそれを活かすことなく、一面的な解釈に終始した。

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