イデアの洞窟

ホセ・カルロス・ソモザ (著), 風間 賢二 (翻訳) 文芸春秋社

古代ギリシアを舞台にしたミステリ、というか、古代のギリシア人が書いたミステリを現代の翻訳者が注釈をつけて翻訳している、という体裁のミステリ。

古代のミステリ自体は、アテネで起きた連続殺人事件をポントーのヘラクレスが、アカデメイアの教師の要請をうけて捜査してゆくというもの。作品中には一場面だけだがプラトンも登場し、紀元前四世紀の物語として読むことができる。ただし、プラトンがまだ『国家』を書いてからそれほど間がないころの話(370前後)なのにプラクシテレスがもう大家になっていたり、ちょっと歴史的な知識に疑問符が付く。パピュロスにところどころ欠落があるとなっているが、パピュロスの一行がとても長いのも気になる。

しかしこのミステリの焦点はそこにはない。枠物語の語り手でもある翻訳者(わたし)は、唯一現存しているパピュロスを校正したモンターロの刊本(ギリシア語)から翻訳を行っているのだが、翻訳しているうちに、物語に書かれている出来事を想起させる事件が身辺に起きる。この物語はエイデーシスと呼ばれる独特な文彩を用いており、全体がヘラクレスの十二功業のパロディになっているのだが、そのことにモンターロが気づいていないこともこの翻訳者には気になる。その点を「翻訳者」は直接問いただそうとするが、モンターロは、この事件の最初の被害者と同じ仕方で殺害されていたと知らされる。かくして枠物語もミステリの様相を帯びはじめ、二つの物語は関連を持ちだす。

読者には殆ど最初から想像がつくようにこれは叙述トリックのミステリだ。この場合トリックの面白さは二つの叙述が二千四百年の年月を隔てているという点にある。解決はやや腑に落ちないが、叙述トリックとしては見事なものになるだろう。これ以上はネタばれになるので避けるが、古代の知識がやや不足しているためにトリックは上手くいっていない。でもよほどのギリシア好きでない限り分からないかも知れない。取りあえず、紀元前四世紀のギリシアに図書館がなかったってことを知っている人はそのことは忘れましょう。また、古代の登場人物の一人である作家の名前がフィロテクストス(テキスト好き)といういかにもな名前なのだが、テキストというのはラテン語源の単語だというのも忘れましょう(これらを意識すると間違った結論に飛びつくことになる。特に、殆ど最初から、古代のテキストの信憑性への疑問が高まるのでなおさらだ。他方、冒頭に述べた欠点は実は物語を破綻させていない。)。それで一応幸せに読めるはずだ。

日本語の翻訳は英語からの重訳で、ギリシア語の名詞の扱いが出鱈目と言って良いほど酷い。一部の名詞はギリシア語読みで、一部は英語読み、あまり意味なく日本語に訳されているのもあり、読み進める上でとても妨げになる。