新国立劇場 異人の唄

赤旗に掲載された劇評はこちら。

今年は赤旗劇評も二年目に入り、その分芝居を見に行く回数も増えたのだが、その中で頭に来たベストスリー(普通に言えばワーストスリー)が、Blind、演じる女たち、異人の唄だった。どれもギリシア悲劇翻案ないし本歌取りだ。

小さな劇団の人が一所懸命考えて作った『Blind』は、それでも、それなりに劇団の努力や特色は面白く見ることも出来た。しかし、新国立劇場のギリシア悲劇三部作と、国際交流基金が金を出し、ウズベキスタン、イラン、パキスタンからスタッフ・キャストを招いて作った『演じる女たち』は企画のいい加減さが突き抜けていた。「演じる女たち」と言いながらウズベキスタンのものは男優だ。企画意図すら相手に伝わっていない。メデイア、イオカステ、ヘレネで適当に40分お茶を濁してよ、って感じ。だからウズベキスタンはギリシアのメデイアを向こうの伝統芸能でやりました、それだけ、だし(これはでも結構面白かった)、イオカステはイランではやれない近親相姦ネタをとりあえずコラージュしてみました、パキスタンはヘレネだし、トロイア戦争で、アメリカを重ねて、ちょっと体制批判、戦争のネタをやってみました。テーマを借りるのか、新しい話を作るのか、オリジナルをやるのかも一貫していない。

まあ、それは別のネタだから、今回の『異人の唄』に話を進めるべきだが、話を進める気力がない。すべてが「なんちゃって」で作られているというのが一番適切なのかも知れない。酷い物語に出鱈目な演出に真面目くさった演技の三拍子が揃っている。2400年ほど昔に、アリストテレスは、悲劇を作るには、まず一貫性を持った物語を作って、それからそれを各場面に分配する(昔の話は適当に回想にしたり未来の話は予言にしたり、舞台外の要素は報告にしたり)ように求めたが、今でもこれは大事なアドヴァイスだと分かった。それほど物語は出鱈目だ。

で、17日に観たが、赤旗への掲載が当初の予定よりも遅れて26日づけになってしまったので、その間に嫌な記憶は忘れてしまったことにしてここには書かない。ネタバレにもなるし細部は省略。

ひょっとしたら、作者はギリシャ悲劇とかギリシャの伝説とかをマジに舞台にかけようとする営みそのものをパロディ化しているのかもしれない。確かに、この芝居のメインテーマの近親相姦と親殺しが『オイディプス』のパロディであることは誰でも分かる。とすれば、伝説の出鱈目さを大げさに拡張して、笑わせようと考えていたのだろうか。最後の、わかりきった真相探しも、『オイディプス王』の真相認知の場面と似ていなくもない。その場合、ギリシア劇も、あるいは普通にスクリーニングされて出てくる大抵の物語も、ここまで支離滅裂ではないという非難は批判にはならない。

但し、そうだとしたら演出は芝居の意図を完全にはき違えていて、誰一人どこでも笑ってはいなかった。まあ、この手の不合理さをついたパロディをいまさらギリシャ悲劇に対して行って何か意味があるのかという気がするので、作品にもそう言う意図はないだろう。

最後に、伝説の唄らしきものを姉妹が歌うのだが、妹は実はその唄を受け継いでいないという意味なのかと真剣に悩んでしまった。こういうのは、実際に歌わないからある種の神話性を保ちうるのだと思う。だって、「人は聞き惚れ、魚さえも寄ってきて」大漁が約束されるような、アッシジの聖フランチェスコの説教みたいな唄なんだから。