「イスメネ・控室・地下鉄」 ― 黒テント

『赤旗』に劇評を書きました。ほとんど「イスメネ」だけですけれど。字数の関係で劇評に書けなかったことを幾つか。

「イスメネ…」は「ギリシア悲劇翻案三部作」と銘打った黒テントの創設者佐藤信のデビュー作で、1966年、黒テントが始まる前、自由劇場の旗揚げ公演として上演された。ただしこのときは「控室」は省かれている。

当時のポスターの図版が今回のパンフレットにあったので見てみたが、まるでコカコーラの宣伝のように、コーラ瓶が大きく印刷されている。舞台上にはコーラの自動販売機が置かれ、作品全体を通じて、登場人物たちは頻繁にコーラを飲む。コーラの自動販売機は、コーラ瓶が横になっている僕の知る限り一番古いタイプのもので、栓抜きとコップを用意すればお金を払わずにコーラが飲めてしまう。そんなことをする子供がどれくらいいたのかは分からないが、70年くらいからは、コーラが縦に並べられて上から取り出すタイプのものも出てきたように思う。

原作について。多くのサイトで「イスメネ」の原作がソフォクレスの『アンティゴネ』であるかのように書かれている(たとえばこのページ)んだけれど、直接の原作はそうではない。エウリピデスのとても変わった作品、『フェニキアの女たち』だ。この作品では、オイディプスは自らの運命を知って目を潰し、屋敷の奥に閉じこもっている。イオカステはオイディプスを支え、王権をめぐって争っている兄弟を和解させようと苦心している。ポリュネイケスはアルゴスに頼りテバイを攻め、テイレシアスはクレオンが自分の子メガレウスを生贄に差し出さない限りテバイは滅びると予言する。クレオンは息子にテバイを捨てて逃げるように求め、メガレウスはそれを受け入れるかに見せかけてクレオンを欺き犠牲になる。他方兄弟は相打ち、兄弟を止めることが出来なかったイオカステも自殺する。アンティゴネとクレオンが遺骸とともに登場し、クレオンはエテオクレスの命令に従ってポリュネイケスの埋葬を禁じ、オイディプスを追放する。アンティゴネは父につき従い、ハイモンとの婚礼を拒絶する。

とても変わった作品だというのは、第一に、一貫した筋立てがなく、普通の悲劇少なくとも三本分が詰め合わせになっているからだ。その分、各エピソードはいわばダイジェスト版になっていて、アンティゴネはポリュネイケスを埋葬すると言った直後に父とともに追放されると決断し、埋葬の話は宙ぶらりんのまま終わってしまう。第二に、ハイモンとイスメネが登場しない。話はオイディプスとアンティゴネへの追放が決定されるところで終わっているので、許嫁の話が出てくるのにハイモンは登場しない。この点は佐藤信ではさらに強調されて「ハイモンは寝ている」ことになっている。クレオンを破滅させる最大の要素が消えてしまうのである。また、もともとアンティゴネの引き立て役みたいなイスメネは、アンティゴネが埋葬を行わず死刑にならない以上登場する理由がない。

どの登場人物も中途半端なんだけれど、佐藤信はその中途半端さに60年代、安保と大学紛争のあいだの時代を見ていたのだろう(もちろん、68年のあの状況をこの芝居の時点で予測できたとは思えないので、より正確にはポスト安保の中途半端さを見ていたのだろう。)そして、すぐ後に熱狂するネタを見つけた彼らよりも、この作品は現代の観客にとっての方が上演意義が大きいような気がする。佐藤信では悲劇的葛藤のいわば黒幕はオイディプスなんだけれど、オイディプスの盲目の悪意は良く出ている。予期しない形で権力を手に入れた素朴なクレオンとの対比も素晴らしい。クレオンは、オイディプスを追放することで、権力を受け入れる決断を下すのである。このオイディプスの悪意は、「地下鉄」で、駅に停まらずにどこまでも走り続ける盲目の運転手の悪意としてもう一度現れ、三部作にまとまりをつけている。

ただ、「コカコーラ」が何を象徴していたのかは分からない。勿論当時だとアメリカ帝国主義の象徴でもあるのだろうけれど、若者の自由な文化の象徴にも思われてしまう。どちらにしても対立項として示されるのは伝統的な民族文化であり、悲劇はそちらの側に属する。コーラはいまではこの両価性を完全に失っているように見える。多分今のiPodあたりが同じような立ち位置にいるのかなあ。コーラを飲み続けることによって、我々が正義と不正とがきちんと分けられない世界にいることを示したかったのだろうか。そうすると、部分的核実験停止条約をめぐるドタバタなどの政治的状況とも絡み合う話になるのかな。それとも北爆の開始とベトナム戦争の泥沼化が反映しているのかしら。この辺は同時代を生きたご近所の先生が何か書いてくれないだろうか。→パイパーのネタバレなんかじゃなくってさ。

残り二作の原作は良く分からなかったのだけれど、男が死を賭けた一騎打ちに臨むという「控室」は多分「テバイを攻める七人の将軍」で、夫の留守中に(佐藤では夫が地下鉄を止めてもらうように運転手に交渉しているあいだに車掌室で)男を誘惑し夫を殺させるという話は、「アガメムノン」じゃないかなぁ。オチガ違うので特に後者は当て推量だけれど。

演出家なしの集団創作というのは、60年代には結構あったように思う。いまでは本当に珍しくなったけれど、やり方や作品によってはいまでも面白くなることを実感した。特に「控室」の男と「地下鉄」の女の、それぞれ違った意味で身体をはった演技に脱帽。一人芝居というのはとても役者に負担をかけるって話をむかし、加藤健一がやったコリンズの「審判」の上演に関して聞いたことがあるが(その時は見ている方もはらはらした)、その時と比べて、随分と余裕があるように思えた。(確かに長さが違うんだけれど)。