獣珍 『テーバイを攻める七人の将軍』

まあ、珍しく、やりにくい悲劇を上演したものだ。その意気に乾杯。私も、この芝居を観るのは二度目で、前回は2002年、エピダウロスでヴァレリー・フォーキンがデュッセルドルフの劇団を演出したものだった。

これはアイスキュロスの悲劇でも最も上演が難しいものではないだろうか。やりにくさの理由は二つあって、(1) 劇的行動の不在。(2) 中心場面の滑稽さである。

(1) 劇的行動の不在。実際、この芝居では、舞台上で何も起きはしない。主人公のエテオクレスは怯えるコロスをなだめ、伝令の報告に対し立ち向かう将軍を選定し、最後はみずからが弟ポリュネイケスと対決する決断を下す。出来事そのものは常に舞台の外で生じる。次の場面では七つの門での勝利、ポリュネイケスとエテオクレス二人の死、クレオンによるポリュネイケスの埋葬の禁止が伝えられ、アンティゴネはその布告に抗い、イスメネは従う意志を示す。しかしアンティゴネの決心の行き着く先は暗示されるだけである。

(2) 中心場面の滑稽さ。それでもこの芝居の中心になるのは、伝令がアルゴスの七人の将軍の恐ろしさを伝え、エテオクレスがそれを一蹴し、それぞれに立ち向かうべき将軍を配置する場面である。しかし、アルゴスの将軍の恐ろしさはいずれもその楯の絵柄によって示されるのだ。現代に生きる観客にとって、というか五世紀アテナイの観客にとっても、楯の絵柄と敵の恐ろしさが対応しないことは明らかである。この将軍はこんなに恐ろしい人で、その証拠に…、の後に「こんな楯を使っています」と言われても「ハァ?」としか言いようがないだろう、特に芝居では。

ある情景や絵画を言語によって描写することを「エクフラーシス」と呼び、たとえばホメロスによるアキレウスの楯の描写がその代表的なものだが、それは叙事詩のような「語り」文学ではとても効果的だ。講談でもそうだろう。リアルに描き出された恐ろしい図案は、観客にも恐怖を抱かせることだろう。しかし劇の中で「登場人物」がそれをやるとその効果は消え去る。我々は「楯の恐ろしさ」を聞くのではなく、楯の恐ろしさに怯える登場人物を観るからである。それは一種奇妙で滑稽な情景だ。

おそらくこの場面は、伝令の報告がギリシア悲劇が「演劇」として成立する以前の要素であることを示している。それは悲劇の成立そのものに関わりながらもそこから抜け出すことで悲劇が演劇として自立することになった「原悲劇」的な要素なのである。この要素は徐々に縮小してゆくが、「七人」ではまだ殆ど全篇が「報告」とそれに答えるコロスの「嘆き」である。

桜美林大学の学生劇団「獣珍」はこの芝居を、動きにも台詞回しにも徹底的に異化効果を働かせることで、面白く上演できたと思う。上に述べたようにこの芝居はもともと一種の「叙事演劇」なので、徹底的に「示す演技」にするのは納得できるし、それで劇的行動の不在も気にならなくなる。楯の記述の場面は、その楯や将軍たちの様子をコロスに真似させて、エクフラーシスの視覚化を行い、その奇妙さを隠すのではなく強調する一方、それぞれの楯の図案に観客の注意を向けることに成功した。コロスのおびえとかなり滑稽な喧しさの両方が提示されていたのも良かった。コロスをしかりつけるエテオクレスの様子には本当にうんざりしたような感じがあり、またそれを納得させるようなコロスの描き方はちょっと虚をつかれた。スタイリスティックな動きも、学生劇団としては良くできていると思う。欲を言えば音楽がもう少し洗練されていたらなぁ。格好良いのにリズムが何となく和風(トントコ)に聞こえた。