ク・ナウカ『奥州安達ヶ原』

赤旗に書いた劇評はこちら(PDF)。以下は補足

この上演は、特に、やっとの事で意味を追うことができる人工言語の使用によって、観客に極度の緊張を強いる上演だ。どこまで彼らのテンションにつきあっていけるか、油断すると置いてきぼりをくらい、退屈になる。

そこの対応で、評価が正反対に分かれるだろう。

最後の場面は、歌舞伎でも同じように祝祭的になるのだと思うが、地球儀の宝剣をめぐって全員がごっこ遊びのような戦いを行うところに、より高い視点からの描写がある。

まあ、言わずもがななのだけれど、宝剣はここでは地球儀の形の風船だ。つまり、この場面全体がチャップリンの『独裁者』のもじりになっている。彼らの動きも、歌舞伎とチャップリンの両方を意識している。

なるほど、そこで気がついた。前半の人工言語も、チャップリンの『独裁者』と『モダンタイムス』へのレスペクトなんだと。記憶では、『独裁者』の演説は、まったく何を言っているのか分からないが、『モダンタイムス』の歌の方は、非常におおまかなところは身振りから分かる。『安達ヶ原』では、まったく分からないと話にならない(彼らの言葉は、独裁者の演説のような空疎な響きだけのものではない)が、被抑圧先住民族の言葉なのだから、他者がそれを簡単に「分かった」と言えるようなものであってもならない。言語への不信と依存の共存。それまでは、抑圧された異民族の異言としてしか捉えていなかった。

風船が割れてしまうのが「落ち」になるのかと思っていたら、風船は割れないままだった。割れるととても大きな音がするとのこと。でも、割らないところが宮城さんのドラマトゥルギーなのだろうな。

チケットについてきたDVDでは、若い人たちの素直さが微笑ましかった。