ソフォクレス『アンティゴネ』 ク・ナウカ(プレビュー版)

アンティゴネは殻に覆われている。神の法、正義と、そして友愛の信念すらが、彼女を世界から隔絶させている。神々さえ、アンティゴネが最初に兄の「埋葬」を試みるとき、彼女の姿を他人から「隠す」。アンティゴネは対話を行うことができない。「聞く」ことがないからだ。彼女の言葉は指示と自己主張であり、揺るぎを知らない。その世界は他者に対して完全に閉ざされている。他者は自分の主張に従うか、従わないかであり、彼女は変化しない。

他方、自負とは裏腹に、そのような強い「自己」を持たず、対話相手に絶えず「開かれて」おり、影響を受け続けるのがクレオンだ。彼は常に相手に譲る。アンティゴネとの対話はイスメネの処刑を断念させ、テイレシアスとの対話はいましがた決断したばかりのアンティゴネの処罰を撤回させる。このクレオンの弱さが皮肉な転回を見せ、アンティゴネの悲劇を呼び起こすのがハイモンとの対話だ。

「アンティゴネの悲劇」についてはすでに言及したことがあるが、それは彼女が処刑されることにあるのではない。処刑されないことにある。ハイモンに「敬神の道」を踏みにじり、「冥界の神々」を軽んじていると非難されたクレオンは、激昂のあまりその場でアンティゴネを殺してしまおうとするが、ハイモンが去った後に、心を変え、「国全体が穢れる」のを避けるため、彼女を殺さず、「たたりを防ぐ」だけの食い物を与えつつ、生きながら洞穴に閉じこめるように処罰の方法を変える。「あとは娘の勝手だ、死のうが、墓の中のその邸で、ながらえて住まおうが」。生者と死者のどちらにも属させないこと、愛しい兄弟に会わせないこと、これは彼女が予想しなかった運命であり、彼女の頑なさに対する最大の処罰だ。

今回のク・ナウカの『アンティゴネ』は、横浜、馬車道の銀行跡を利用したホール、BANKART1929で上演された。ホールの中はまるでギリシア神殿の内陣のように列柱が天井を支え、天井もギリシア神殿風だ。列柱はかなり太く、一部の席を除き観客の視界は大きく遮られるが、ありがたいことに視界に問題のない場所で見ることが出来た。

この上演では、アンティゴネの「殻」、その閉鎖性は大きな象牙が取り囲む「檻」として表されているかのようだ。冒頭、檻には薄い布がかけられ、そこに開いた窓からアンティゴネがイスメネに語りかける。殆ど聞き取れないほどの声が徐々に大きくなるが、プロジェクターによる(日本語)字幕のおかげで言葉は苦労なくたどることが出来る(残響が長いホールの特徴に配慮したのと、デルフィでの字幕(これは多分英語)上演の試験の意味もあるのではないか)。デルフィのスタジアムでの上演を意識したためとのことで、今回、二人一役制はとられない。ただし、イスメネとクレオンは、複数のコロスとして描かれる。イスメネに計画を話すアンティゴネに感情の揺れは全くなく、言葉は硬く厳しい。次の場面、「檻」の布が外されると、アンティゴネは既に捕らえられている。二度にわたる番人の場面は省略され、その後、コンモスで檻が開くまで、アンティゴネはいわば神殿の奥陣に位置する檻にとらわれたままだ。

他方、クレオンの「弱さ」、その「開かれ」は、数人のコロスによるポリフォニックな響きとして実現される。軽薄さと不安、ヒステリックなあざけりが、中心となるクレオン役者の言葉に融合し、あるいは不協和音を奏でる。

しかし、クレオンのコロス、檻のなかのアンティゴネ、市民たち(とイスメネ)のコロス(血まみれの衣装は死者のようだ)楽器が並ぶと狭いBUNKARTホールはもういっぱいで、動きはかなり制約されたものになる。動きのないドラマは随分つらい(ハイモンの場面あたりからは緊張感が出てきてそれほど気にならなくなるが)。美加理は動いてなんぼ、ではないのか。

さて、『アンティゴネ』のクライマックスはハイモンの場面の後に位置するアンティゴネのコンモスだ。これまで死を覚悟し、むしろ死を「選んだ」アンティゴネがここで急に嘆き出す。この場面は主人公が急に弱さを示す場面として、エウリピデスの『アウリスのイフィゲネイア』におけるそれと正反対の場面(それまで嘆願を行っていたイフィゲネイアが急に死を覚悟する)と対比をなす難しい場面だ。確かに、テキスト上は、アンティゴネのこの変心は、クレオンの狡猾さを前にした絶望として理解可能である。「この世でもない、あの世でもない、生きている人とも死んだ人とも、お仲間でないとは。」ただしソフォクレスは現代の観客が納得するほど、変心の理由を強調していない。

ここで彼女は初めて「揺らぎ」を示す。「神様を思ってやったことが、不敬のしるしとされてしまった」「神様がこれでよしとお思いなら、さんざ苦しんだ果てに、私の過ちを思い知りましょう」と。そしてだからこそ、彼女は自分の行為を正当化する必要性にかられるのである。夫や子供と違い兄弟はかけがえがない、というアンティゴネの自己弁護が一般的に、あるいは彼女にとって正しいかどうかという問いは実は偽りの問いだ。ここで彼女が弁論によって自己の行為を正当化しなければならないという事実が重要なのである。

ク・ナウカの上演ではコンモスでアンティゴネを取り囲む「檻」が開く。アンティゴネの頑なさはクレオンの狡猾の前に崩れ、彼女は他者に開かれる。彼女に残された「首括り」は恥ずべき死であり、同時に、クレオンから不敬の穢れを拭い去るもののようにも見える(アンティゴネが「神の掟」を錦の御旗にしていたことに注意)。彼女は自殺するのであり、自分が望んだようにクレオンに殺されるのではない。しかし最後には、嘆きのうちにも、アンティゴネは「亡くなられた身内」のもとに向かう決心を固める。一瞬示されたアンティゴネの「揺れ」は、道行きの場面にはもはや残っていない。この上演では、動きの欠如もあって、「檻」が開かれることを除いては、彼女の揺れは殆ど示されない。彼女は従容として死に赴くようだ。彼女には死者たちのコロスが付き従い、彼らとともに階段を上る彼女の姿が示される。

ク・ナウカの上演はこの後のクレオンの悲劇を完全に省略している。我々が眼にするのは受難劇だ。アンティゴネは死を覚悟し、一瞬動揺し、最後に運命を受け入れる。キリストのように。彼女は肉親を愛するすべての人間の身代わりとして死を受け入れる。そこには崇高と感動が確かにある。しかしそれは悲劇のものではない。自らの人間的な弱さに打ちのめされたりはしない。彼女の犠牲はクレオンの破滅と対になって初めて悲劇性をおびるのである。

実際、この上演では果たしてアンティゴネが死んだのかすら明らかではない。テイレシアスの忠告を受け入れたクレオンの台詞で舞台は終わるが、その後アンティゴネが階段を駆け戻る姿が見え、「あれ、アンティゴネ助かったの?」と誤解しそうになった(エウリピデスの『アンティゴネ』では助かるんですけれどね)。ここで切るのならばテイレシアスの呪いで切った方が良い。神々はクレオンの「世知」が通じるほど甘くはないことを暗示することが出来るだろう。

だがこれはプレビュー版だ。デルフィの本番、あるいは帰国後の日本の本番では、全体像が示され、随分と違ったイメージが得られるのではないか。近代的改作でない「アンティゴネ」の上演が日本人によって成されるのは久しぶりであり、全体をみるのを楽しみにしたい。