Peter Brook The Man Who

劇評コーナーへ
99/10/16 世田谷パブリックシアター
原作 オリヴァー・サックス 『妻を帽子と間違えた男』

期待通り。

『妻と帽子を間違えた男』に代表される臨床精神科医師オリヴァー・サックスの著作から、ブルックがいくつかのエピソードを取り出し、再構成したもの。

円形に張り出した舞台に正方形の床面を区切り、そこが診療室になる。四人の俳優はある時は医師として、ある時は患者としてさまざまなエピソードを展開する。

音や匂いなど、視覚以外の要素が伴わないと個体識別が出来ず、波の映像を見ても青と白の色点にしか見えず、妻を帽子と間違えることすらある男、幼児の頃に聞かされたが、その後すっかり忘れてしまった日本の子守歌が耳について離れない老人、チックの男、意味あることを語ろうとするといつの間にか無意味な音の羅列になってしまう男、身体の固有感覚を失ったために、動かそうとする場所を見ないと体を動かすことが出来なくなった男、記憶が数分間以上持続せず、23歳より後の記憶を持つことが出来ない男など、主として器質性、事故などに由来する精神障害の患者の、悲惨だが滑稽なエピソードが淡々と続いて行く。

小品で、印象も、サックスの原作を読んだときの感慨から大きく外れるものではない。「我々」は、「彼ら」のおかしな様子に笑い、「彼ら」の苦悩に同情しつつ、「彼ら」が「我々」と同じ「人間」であることを確認して行くように導かれる。ここに我々にとって胡散臭くなってしまった「ヒューマニズム」を見いだして批判するのはたやすい。

だが、この「批判」の方を胡散臭くするのは、この批判も彼我を固定する一般化に基づいていることであり、芝居では患者は「おかしな人」という記号としてではなく、実際に生きた身体を持つ個として舞台上に存在感を持って提示されていることだ。患者が一人の他者として我々に向き合ってくれること、これがブルックとそのグループに観客が期待することだし、演劇という枠組みの中でしか「普通の」人間には体験できない。本屋には時々、本を読んでいるつもりなのだが実際には訳の分からないことを大声で語っている人がいるが、我々は彼らを見ても、遠ざかって関わり合いになることを避ける。

多くの物語の中では、「おかしな連中」は奇妙な対象一般であり、その個別性が提示されたりはしない。同じブルックが監督した、『マラー・サド』ですらそうだった(但し、『マラー・サド』の文脈の中では、それは別に悪いことではない)。

様々な精神障害を「演じうる」ということ、それだけではなく、四人の俳優が自在に医者(「我々」)から患者(「彼ら」)へと役を変えること、最後に映し出される脳のCTスキャン映像は、彼我の違いがいかにちっぽけなきっかけによるものなのかを実感させる。サックスが「認識」を通じて実現しようとしたことを、ブルックは「演技」によって試みている。だから最大の喝采は俳優に向けられねばならない。

確かに、『ザ・マン・フー』もまた『レイン・マン』なのだが、で、それのどこが悪いのだろうか? 小賢しい一般化によって個別の様々な肌触りを見逃してはなるまい。

でなければ、何のための演劇なのか?