幹の会 :楽劇 『オイディプス王』

平幹二朗 (オイディプス) 鳳蘭(イオカステ) 原康義(クレオン) 藤木孝(テイレシアス) 渕野俊太 (コリントスの使者) 坂本長利(テバイの羊飼い)

演出:平幹二朗  翻訳:福田恆存  音楽:永田平八  美術:島次郎
企画・製作:幹の会+リリックプロデュース

イオカステはいつオイディプスが自分の子であると知るのだろう。普通はコリントスからの使者が登場する第三エペイソディオンで、彼がオイディプスをテバイの羊飼いから譲り受けたと語った時だと解釈され、舞台でもそのように演じられる。だが、そのように理解すると、第二エペイソディオンで、ライオスの殺害犯がオイディプスであることがほぼ確定する時、苦悩するオイディプスの前でイオカステが、夫は予言通りに子供に殺されたりはしなかったという、その場のオイディプスの状況には無関係に思われる事柄にあまりにこだわること、また、第三エペイソディオンで、メロぺとの姦通を恐れるオイディプスに、母との姦通など恐れるに足りないと言ってのける姿を理解できないと考えた解釈があった。イオカステはオイディプスの身の上話の時点で真相を悟り(本能的に、と川島重成は言う)、爾後の彼女の行動はオイディプスに真相を悟らせないための母の必死の行動だと考えるのである。

この解釈を読んだ(ただし、川島本ではない)のは20年位前だったと思う。少し魅力的に感じたが、結局成り立たないと思った。彼女が知っているのは、夫が子供に殺されるという神託があったために、子供を殺してしまったという記憶と、オイディプスがコリントスの領主の子で、実子ではないという中傷を流され、そしておそらくライオスを殺してしまったというオイディプスの言葉だけだし(テイレシアスの言葉をイオカステは聞いていない)、これらはすべて、コロスも知っていることである。イオカステがオイディプスの真の出生をこの情報から知るなら、コロスも知っていると言わねばならないだろう。(もちろんデビルマンのシナリオなら、「イオカステはどうして真相を知ったのだ?」「ああ、母だからな」ですむのだろうが)

この解釈の擁護者たちが根拠にする、予言は当たらないという当初の立場の確認はその場でのイオカステの言葉として妥当性を持っている。ライオス殺し自体は、テーバイからの追放をもたらすだけであり、オイディプスにとっては王位と家族を失い放浪の生活に戻るのだから、それは確かに酷いことだけれど、オイディプスや自分に下った予言の恐ろしさとは比較にならない。新しい夫もまた恐ろしい予言のもとに生きていると知った彼女の恐怖が、彼女のこだわりの中に現われているだけだ。また、メロペとの姦通を恐れてコリントスに戻らないという決断は、イオカステにとってはなんら信じるべきでない予言に基づいて自らの救済を犠牲にするばかげた決断であり、オイディプスを救いたいと思うなら、いかなる説得を用いても翻意を求めるのは当然だ。

コリントスの使者の昔話を聞くまで、彼女は予言など全く信じていなかったのだと考えるほうがよっぽど理に適っている。どの程度まで確信を口に出すのかはともあれ、彼女とライオスに下された予言は、たとえオイディプスがライオスの殺害犯であろうとも、実現しなかった(とイオカステは考えている)のだから。

このことは、(コロスにとってはどうであれ)、神の存在そのものの全面的否定ではない。予言の否定であるとしても、それは人間である予言者の言葉の否定でしかない。だから、苦しむオイディプスを見かねて、イオカステがアポロンの祭壇に捧げ物をしようとするのは(倫理的にはともかく)論理的にはまったく正当な行為だ。イオカステのせりふにアポロン軽視がまったく含まれていないとは考えられないが。

今回の上演はイオカステの真相認知を第二エペイソディオンに移す解釈を文字通りにやってしまった。ここでオイディプスの身の上話を聞くイオカステは、オイディプスのくるぶしをめくり古傷を確認するのである。まるでオイディプスと彼女は初対面であるかのようだ。その後彼女は口調が変わり、第三エペイソディオンではオイディプスのことを「あの子」とすら呼ぶ。コロスの面前でだ。(こんな余計なことをしなければ観客のだれ一人として理解しない)無理筋の解釈をグロテスクに提示して見せたのは興ざめ。

この一点を除くと、テキストの解釈はほぼ妥当で、舞台の上でも説得力を持っているように思う。オイディプスを善良な人間として、クレオンを卑小な人間として描いたのは正解、というかこの点をクリアしないと『オイディプス王』は不快な男の悲劇になってしまう。それにしてもここまで善意にあふれるオイディプスは初めてだ。平は若作りに無理はあるものの好演。第二エペイソディオンでのクレオンの弁明は彼の卑小さの故にかえって説得力を持ってしまった。クレオンの弁明そのもののうそ臭さが、彼の卑小さとマッチして消えてしまうのだ。で、最後にクレオンは王位を示すメダル(そういえば今年はオリンピックだ)を身に着ける。イオカステは真相認知までは自信に溢れ、認知後は必死。結構良い。テイレシアスも自信家であるが、オイディプスに同情しすぎ。もう少し恐怖と「異人」感を出して欲しい。テバイの羊飼いはよくない。

では、イオカステの真相認知を再考すればこのオイディプスは名舞台になったのか、と言うと残念ながらNOだ。この上演にはどこにも「大きさ」がない。等身大のオイディプスだ、ということもあるけれど、ともあれチープな印象だ。その最大の原因は、ミュージカル仕立てのコロスである。確かにオリジナルも音楽劇だけれど、Amazing Graceに始まるスタンダード替え歌大会にしてしまうと、せりふの部分との感情の深さの落差が大きすぎてとても受け入れられない。この替え歌大会の違和感を埋めるための、ニューヨークのハーレムの旅芸人という「何それ」的な枠芝居なのだろうけれど、意図が露骨すぎる。と思えば時々まざる儀式の言葉はラテン語で「怒りの日」だったりする。こっちは意図がよく分からない。

翻訳は昔昴で見たときには上演のスピードとも相まって名訳に思えたのだが、ゆっくり聞くと説明的すぎるが、強さはないものの自然な日本語で、感情移入的演技によく合っている。だがそれだけでは不十分なのだ。せりふの部分に関しても、登場人物たちの感情と思考の「自然な」解釈だけでは物足りなくさせるものがギリシア悲劇には確かにある。それをいかに舞台に示すか、替え歌大会はその解ではない。