ミステリア・ブッフ

ウラジミール・マヤコフスキー作 TPT第66回公演 木内宏昌演出

2008/03

共産党の新聞『赤旗』に掲載された劇評はこちら。

なんかとてもがっかりしてしまって悲しかった。

赤旗にも書いたけれど、マヤコフスキーの『ミステリヤ・ブッフ』は、聖史劇のパロディになっていて、方舟に乗った労働者たちが、地獄と天国を経めぐり、地下のカオスを掘り出して、コミュニズムの天国に到達するという話で、素朴なアジテーションと美しい詩とメイエルホリドが演出した構成主義的で奇妙な楽しい舞台とが融合して素晴らしい効果を挙げた、何よりも楽しいお芝居だ。

ここでマヤコフスキーが考えている社会主義なり共産主義なりは、私が昔メンバーだった左翼系の青年団体がそのころ理解していた社会主義と共産主義の観念と基本的には同じで、階級闘争のなかで資本家が敗北すると社会主義体制になり、そこでは搾取がなくなるため、人は能力に応じて働き、働きに応じて受け取ることが出来るようになる。その結果生産力が増大し、人が能力に応じて働き、必要に応じて受け取ることが出来るような共産主義社会が現れる、といったお話だった。

生産力の増大には天然資源の効果的な利用がとても大事で、だからこそレーニンは、「共産主義とはソビエト+電化だ」という演説をおこなったので、資源の開拓とその利用は全面的な「善」だと信じられていた。LOHAS(笑)という発想はその頃はまだ生まれていない。たとえばジガ・ヴェルトフの『これがロシアだ』(最近、マイケル・ナイマンの音楽を加えて、原題の直訳『カメラを持った男』で公開)で、石炭発電所からモクモクと黒煙が上がっている光景は、教会の十字架が引き摺りおろされる場面と同様、完全に肯定的な含意を持っている。マヤコフスキーの脚本でも同じで、自然の資源を効果的に使い、生産物に溢れ、すべてが電化される労働者の天国はまさに理想社会として描かれている。

でも今となってはそういう理想は悪夢でしかないと演出家が考えるのはとても良く分かる。マヤコフスキー自身、上演に際しては時代に合わせててきとーにテキストを変えてね、って言っているわけだし、ここは現代的に意義を持つオチにしなければと。

で、そのとき一番安易なのが、環境破壊を悲観的な人間の運命のようにみなして、最後の肯定を単純に否定で置き換えることだろう。社会主義も多くの人にとっては悪夢か、あるいはそう思わないならばかつての共産主義やイエスの復活のようにまだまだ先の話ということになってしまい(以前は、「現存する社会主義国」という表現がなされていた『赤旗』でも、94年頃から「社会主義を目指す国」という表現に変わってしまった)、貧困が進み格差が増大してもなかなかふつうの人には出口は見えない。マヤコフスキー自身、彼が賞賛した体制に絶望して自殺してしまい、メイエルホリドは銃殺されたのだから、この芝居を悲観的に逆転して上演するのはまあすぐ考えつく選択肢だろう。

でも、それだと、マヤコフスキーのこの芝居をやる意味がどこにあるのかな、と思う。前半の単純なプロパガンダも、マヤコフスキーは別に間違ったことを言っているようには思えないのだが、単純なプロパガンダとしてのみ描かれる。使われるプロパガンダ系音楽も「インター」だけだ。演技は基本が新劇で、一人一人の登場人物がどんな人間かなんてことにこの芝居では関心はないのだから、なんか違う気がした。