蜷川幸雄演出 『メデイア』 2005年5月 渋谷・シアターコクーン

メデイア:大竹しのぶ、イアソン:生瀬勝久、クレオン:吉田鋼太郎、アイゲウス: 乳母:伝令1: 伝令2:

舞台は三方を壁で囲まれ、蓮の花が咲く湿原(本水使用)。正面やや上方に扉がありその向こう側がメデイアの部屋。コリントスの湿原? そう言えば映画の『トロイ』には、スパルタの海岸なんてのも出てきた。メデイアが登場してからはスピーディでテンションが高く、登場人物のお互い同士の会話は緊張感にとみ、嫉妬や憎しみの感情も激しく、われわれが理解しやすい日常的表現を離れず、感情の振幅もまたそうだ。特に優れていたのは例によってクレオン。この人のうまさはオイディプスでも際だっていた。最初から大きな決意を持って登場し、何が何でもメデイアを追い出そうとしているのに、結局はメデイアに一日の猶予を与えてしまう。そのときの台詞、「俺は王だが、王に向いた性格ではない」は場内の笑いを誘っていた。

蜷川+大竹のギリシア劇は、そういえば『エレクトラ』の切符がとれず、観ていなかったので今回が初めてだ。去年の『喪服の似合うエレクトラ』も切符がとれなかったので、大竹の舞台を観るのが初めてかもしれない。感情の激しさも演技の鋭さもテレビから想像していた通りだが、色気のないメデイアだ。アイゲウスの籠絡の場面でも、イアソンとの偽りの和解の場面でも、媚びも魔力もない。しかし感情の激しさと強さはストレートに伝わってくる。だから、普通聞かせどころになる台詞(「一度のお産をするくらいなら三度戦場に出る方がまし」「良いことにはからきし知恵がないのに、悪いことになるとこれほど賢いものはいない女という種族」「今日というこの短い一日は、子供たちがおまえの子であることを忘れよ、あとでずっと嘆いてやれ」等々の、レトリカルな台詞)はそれほど目立たず、そうすることで違和感を消している。また、翻訳もその当たりの表現は抑えている。子殺しを逡巡しても、このメデイアでは結論は最初から分かっている。イアソンの無責任男ぶりも、この役者らしくやや酷薄さを伴うもの。

総じて、俳優たちは、普段われわれがメディアで(テレビとかそう言う意味のメディア、この芝居、主人公の名前が『メデイア』ではなく『メディア』になっているのが気になる)目にする姿の延長線上にあるが、それなりに緊迫した舞台を構成しており、感動的でもある。だが、同じことはコロスには当てはまらない。ここが演出の工夫のしどころではないかと思うのに、七五調の台詞のユニゾンは、良くて単調、悪ければグロテスクだ。全員が赤ん坊をおぶっているのも、母性の強調なのだろうが違和感がぬぐえない。若い娘から老婆までいるコロスの全員がなぜ赤ん坊をおんぶし、なおかつ途中であやすこともない。コロスは「歌おう」と言いながら全く歌わずだらだらとユニゾンで台詞を垂れ流すだけ。みんなが同時に同じことをメデイアに語りかける、ってどうして変だと思わないのだろう。ひょっとしてそれがギリシア悲劇だと思っているのだろうか。タガンカの『メデイア』の哀切さに満ちたコロスと今回のコロスは対極にある。

翻訳は山形らしく説明的で分かりやすいものだが、今回、七五調が気になった。おそらくはコロスと台詞の文体の違いを出そうとしたのだろうけれど…。

さて、『メデイア』にはやたらレトリカルな台詞が登場し、現代人には居心地の悪さを覚えさせる。こうした箇所の処理が演出によって様々で面白く、ク・ナウカならぞっとさせる言い回しになるが、ここではそれらがあまり格言風に聞こえないような訳の工夫がなされていたように思われた。エウリピデスの時代にはまだ、レトリックや三段論法などの言葉(ロゴス)が、それ以後のすべての時代には繰り返されることのない本物の力を持っていたことが分からないとこうした台詞は緊迫した状況の中で荒唐無稽に響き、それを避けたかったのかもしれない。