ソフォクレス 『オイディプス王』 蜷川演出2004

(本稿は、休刊してしまった演劇雑誌『レプリーク』の八月号に掲載されました)

二年ぶりに蜷川演出の『オイディプス王』を観た。アテネでの上演に向けて、前回よりスピーディで分かりやすいものに作り込んでいる。セットはアテネ公演の舞台であるヘロデス・アッティコス音楽堂遺跡をコクーンに再現し、古代劇場での上演の面影を伝える。

明快な演出だ。『オイディプス王』のように、主要な事件が過去のもので、舞台ではその真実が徐々に明らかになる「分析型」の悲劇では、人物たちの認識の変化が新しい状況を生み出す。その認識の変化は、分かりやすい翻訳とめりはりのきいた演技によって明確に伝えられている。すっきりした衣装も好ましい。

主要キャストは狂言や宝塚など新劇以外の出身の人たちで、「なる」よりも「示す」演技だが、それもこうした作品には有効だ。萬斎は前回よりも自然で、麻美れいも情感豊かである。コロスは笙や紙垂など日本の小道具も使い、やや様式性を意識させる場所もあるが、全体として力がこもり、動きに満ちている。イオカステの死とオイディプスの自傷を語る伝令は「語り」の面白さを十分に引き出す。

演出は観客に努力を求めない。曖昧さのない言葉と演技で、観客は登場人物がどのように感じ何を考えているのか手に取るように分かる。それは観客にとって違和感のない感情や思考だ。私たちは登場人物に「なぜ?」を問う必要はない。

それを批判しているのではない。ギリシア国立劇場の上演は大体そうした路線で作られている。彼らは夏になると古代劇を上演しなければならず、分かりやすく楽しめるギリシア悲劇を目指す。他方、その対極に鈴木忠志やク・ナウカ、太陽劇団などの悲劇上演があるのも確かだ。彼らの上演は観客に緊張を強いる。容易には飲み込めないものがそのまま出てくるのである。

エピダウロスでの鈴木演出の『オイディプス王』にギリシア人はかなり厳しかった。蜷川の上演は喝采を浴びるだろう。日頃観ているものと基本は変わらず、そこに日本趣味が加わるのだから。