蜷川の『オレステス』

蜷川のギリシア悲劇は『グリークス』を除くと何度にもわたる二種類の『オイディプス』と『メデイア』、『エレクトラ』に次いで四作目の取り組みだったかしら。『グリークス』のなかにも、結構見事な『オレステス』があったから、それを考慮に入れると『オレステス』としても二度目になるのか。

今回も、中嶋のエレクトラの語りがなんとなく『グリークス』の寺島のエレクトラを想起させた。

さて、例によって『赤旗』の劇評(PDF)で取りあげたため、ここではその補足の部分だけを論じるが、どうやら演出家にはこの芝居が「神様が最後に和解をもたらし人間に平和が訪れる」という、脳天気なギリシア悲劇に写ったようだ。

だから「現実の人間社会はそうじゃないんだよ」というメッセージを込めて、アメリカ、パレスティナ、イスラエル、レバノンの国歌と国旗を結末で盛大にばらまく。まあ、これがフランスとドイツとイタリアとEU憲法(まだ出来てなかったかしら)だったら、演出の意図は台無しになるわな。

いや、そういうあら探しがしたいのではなく、現実の人間の争いは神が止めろと言っても止むものではないなんてこと、エウリピデスも全く承知で、だからこそ、とってつけたようなエンディングが有効なんだってことは指摘しておきたい。『オレステス』のアポロンは、『三文オペラ』の国王の使者と同じ役割を持っている。

こんな風に誤解したのは、オレステスの漸次的な変化をテキストから捉え切れていないためだと思う。去勢奴隷をいたぶるオレステスの姿には、自らの悪を楽しみ、それを観客にも楽しませようとする薄ら寒い笑いがつき従うべきだ。特に、「うまいことを言う、その口のせいで助かったぞ」「では殺さないのですね」「許してやる」「ありがたや」「気が変わるかもな」「ありがたくないです」のやり取りは、まさに猫がネズミをいたぶるシーンだ。

そもそも、カットされていたが、「私は賢さくはないが、親しいものには真の友です」と言っていたオレステスが、ヘルミオネを人質に取り目的が果たされねば殺してしまおうとするプロットに、彼らの変化は明らかなのに、である。ちなみに、「親しいもの」と訳されるフィロスは、この芝居では一貫して親族を表すために用いられる。ヘルミオネはオレステスの従姉妹で、フィロスであり、エレクトラにとっては、トロイア戦争の間中ずっと一緒に育てられてきた姉妹同様の家族である。

『赤旗』の劇評ではそういう点を取りあげた。あちこちで、蜷川のラストシーンをエウリピデスへの異議申し立てとして扱っているが、それはエウリピデスの作品の評価において的はずれだ。