白ヤギさんたらお返事かいた(『オイディプスのいる町』3)

γαρなんてただの飾りです。偉い人にはそれがわからんのです。

358行前後をめぐる解釈について、たまたま手を伸ばして届く範囲にあった注釈書を利用したら、次のように言われてしまったのには驚いた。

 北野氏がKamerbeekの注釈をきちんと読み、それにコロリとまいってしまったことがよく分かる。(中略)

 ここで北野氏はKamerbeek神が後ろに控えているので、隠された真理を告げるテイレシアスのように堂々としている。

いや、Kamerbeekってそんな奉るほどの人ではないし。さすがに今となってはやや古めかしい。ソフォクレスの全作品の注釈を書いているので便利ではあるのだが。Kamerbeek神ねぇ。ねらーなの?

先行研究をきちんと読んで、それを批判するなら批判した上でオリジナルの解釈を提示するってことは学問のお約束だと思っていたが、イエスが青森で死んだとか、まったく新しい、誰も思いついたことのない解釈を提示したいときにはそれは邪魔なことなのだろう。

さて、当該箇所(例によって内山訳)。

【オイディプス】 無論のこと、腹が立つから、思うこと存分にいうてやる。そなたはあの悪業の共犯者だ。手を下さぬというばかり、そなたがしたと、わしには思われるぞ。盲目(めくら)でさえなくば、これはそなた一人の所業というところだ。
【テイレシアース】 それはまことか? わしは御身に申す。御身はみずから宣(の)りせられし言葉を守り、今よりはこの者らにも、このわしにも、物言われぬがよい。御身こそはこの国土(くに)の汚穢じゃによって。
【オ】 恥知らずにもそのようなこというか? してまた、いかにしてその罪から遁れ得ると思うか?
【テ】 わしはすでに遁れとる。真実がわしの力じゃ。
【オ】 誰に教わって来た? 少なくもそなたの術ではない。
【テ】 御身にじゃ。御身が気の進まぬわしに無理に言わせたのじゃ。
【オ】 何を? もっと合点のゆくよう、もう一度いうてみよ。
【テ】 先きの話がおわかりなかったか? それとも、まだなにかいうてわしをおびき出す気か。
【オ】 いや、わかったというほどには聞かなんだ。今一度申してみよ。

オイディプスはクレオンの助言に従いテイレシアスを呼びだす。テイレシアスはやってくるが、なかなか話そうとしない。オイディプスはテイレシアスがライオス殺害の仲間だったから言わないのだと推論を述べる。これが本当にそう考えたのか、テイレシアスに語らせるためのはったりだったのかはテキストからはいまいち判らない。で、テイレシアスは「おまえこそこの国の汚れだ。自分で宣言したとおり誰とも口をきくな」と語る。

これは激しい非難だが、「ライオス殺し」の非難そのものではない(勿論、観客にはそうだと分かっているが、オイディプスには分からない。急に間接的に言われたのでこの「わからなさ」は理解可能だ。)。ともあれ、激しい非難なので、オイディプスは「恥知らずにもそんな非難をして罪から逃れられると思うのか」とやり返す。「私は逃れている。真実に力があると考えているのだからgar」とテイレシアスは答える。そこでオイディプスの台詞「誰に教わった。おまえのわざ(テクネー)からではないのだからなgar」があり、テイレシアス「あなたにだ。あなたが厭がる私に無理に言わせたのだから(gar)」と返す。ところが、オイディプスにはテイレシアスの非難の内容が良く分かっていないことが次に判明する「どんな言葉を?もう一度言ってくれ、よりよく分かるように。」あきれるテイレシアス。「さっきのを理解しなかったの?それともなんか罠?」「分かったと言うほどには理解しなかったの。も一度お願い。」

緊張したやり取りの後でコミックリリーフのような緩和があるこの箇所は、古来注釈は多い。それでも注釈を読む前に、当該三行の「緊張したやり取り」の文章を見よう(上記赤色部分)。ここでテイレシアスはまず自分の主張を短く述べ(pepheuga(逃れている)、pros sou(あなたにだ))、ついでその理由を述べる(真実には力があると私は見なしているのだから。あなたが厭がる私を強制したのだから)。オイディプスも自分の疑問を簡単に述べ(誰に教わった(pros tou didakhtheis)、ついで疑問の理由を述べている(おまえのわざからではないのだからな)。この三つの文章それぞれは、後半が前半の主張ないし疑問の根拠を述べる構文で出来ている。それが独特のリズムと緊迫感を生み出す。そんなことも分からずにこう書く人もいるけれど。

「なぜならば」という意味もあるgarという言葉は、この358行目に先行する356行目のテイレシアス、357行目のオイディプスの台詞でも使われている。

 それどころかテイレシアスが登場する場面から(316行目以降)、主にテイレシアスの台詞の中で繰り返し出てくる。回数は358行目までの43行のうちに十数回を数え、いわばgarの文例のオンパレードだ。その中には問題となっている358行目のテイレシアスの台詞同様、先行文が省略されている例もある。もちろん意味が分かるから省略されるのである。

言葉はデジタルな関係しか結べないわけではない。「なぜならば」は直前の文とだけ接続するとは限らない。

そう、確かに317行目で、 「ああ、知るということはなんと恐ろしいことじゃ、知っていてもそれがなんの用もなさぬ時。わしはこの事をよう知っとりながら、つい忘れた。さもなくば、ここへ来るではなかった。」よく知っていながらつい忘れたにgarが添えられている。これが理由になっている行為は直接言明されていない。そう、確かに「なぜなら」は直前の文とだけ接続するとは限らない。その点で彼は正しい。誰もそんなこと言ってないという一点を除けば。LSJ神も、Kamerbeek神もそうだ。garが常に直前のものの理由をあらわすなんて誰も言っていない。理由は先に言われるかも知れず、317のように何の理由なのか補わねばならないかも知れない。ここでは、文脈から、このgarが直前の断言の理由なのはほとんど自明だと言ったに過ぎない。

さて、私のように理解すると358行(「あなたにだ。あなたが厭がる私に無理に言わせたのだから(gar)」)はトートロジーになるという山本氏の議論は次章まで放っておこう。パラフレーズによってトートロジーを作り出すことは簡単だから。相手の言葉が、ここではニュアンスを変えられて、相手への攻撃のために用いられているので、演劇的な面白いやり取りだ。とりあえず、パラフレーズする前の私の(というより普通の)解釈を再掲。

オ「だれがお前にそんなことを言うように教えたのか」
テ「あなただ。なぜならあなたがいやがる私に言うよう強制したからだ。」

本当に「一つの言葉にひっかかって無理矢理こじつけるがゆえに起こる同義反復」(下参照)かしら?有意義な当てこすりだと思うけれどね。

garに気づいた山本氏の新しい解釈を取り上げよう。

わたしはもっと気楽に理解している。省略されていることを少し補足しながら、同じテイレシアスの台詞を言い換えてみよう。
 「あなたの素性はあなたから教わったのだ。言うつもりはなかったが、あなたが強制したから言ったのだ。」
 気楽に理解しているといっても、この解釈はご都合主義から生まれたわけではない。「なぜならば」という意味もあるgarという言葉は、この358行目に先行する356行目のテイレシアス、357行目のオイディプスの台詞でも使われている。

文脈を考えてみよう。デルフォイの神託は「前王ライオスの殺害者が逃れていることが国の穢れだ。追放か死刑によって浄めよ」だ。それを受けたオイディプスの誓い「穢れである殺人者は誰とも口をきくことを許さず、追放する。」テイレシアスの言葉「お前は自分の誓いをまもって誰とも口をきくな。お前こそがお前の言う穢れだ。」

問題、テイレシアスはどういう主張をしているのでしょう(制限時間3秒。オイディプス君は答えられませんでした)。

(1) オイディプスはライオスとイオカステの子だ(オイディプスの素性)。
(2) オイディプスはライオスの殺人者だ。

山本氏は(1)だと考える。この文脈でそう考えられることが既にすごいが、続けてオイディプスが次のように言う。「どんな言葉を(俺が無理に言わせたのよ)?」テイレシアス「え、まさか分かんなかったの?」オイディプス「良く分かんなかったんだ。スマソ。」で、テイレシアス「御身こそ、その人の下手人をみずから探し求めらるる、その下手人じゃと申すのじゃ。(ここだけ内山訳)」

あかんやん。

一つの言葉を小突きまわしてワーワー言うことが必要な場合もなくはないだろう。しかしそれより以前に、人間をどう見るかという点での基本的な学習が、人間の登場する物語の理解にはどうしても必要なのだ。
 北野氏は単一的人間理解しかで きないゆえに、テイレシアスの「あなたから教えられたのだ」という言葉の意味を奇妙な方向に解釈せざるを得なくなった。教えられたのは言葉の内容ではな く、言葉を言うことだという奇妙な主張。さらには一つの言葉にひっかかって無理矢理こじつけるがゆえに起こる同義反復。
 北野氏の書評は万事がこれと似たりよったりなのである。

神は細部に宿る塵も積もれば山となる」ということわざもある。それに、私のテキストから、私のオイディプス理解の人間理解の浅薄さなんて出てこないよ。そんな話していないもの。「教えられたのは言葉の内容ではな く、言葉を言うことだという奇妙な主張」には辞書読めと返しておこう。「『教える』が不定法を目的語としてとるのは奇妙だという奇妙な主張」と。

でも、ここ356-358は面白いところだ。だから、garなんかただの飾りです、という主張とつきあうのはそろそろ終わりにして、356-8で何が問題になっているのかを見たい。「先行研究なんか以下略」という立場をとるつもりはないので、次章ではBollackの議論を追ってゆこう。(ここはまだ続く、でも少し時間をおく。ちと忙しい。結論を先に。)

結論

(吉牛コピペのもじりの引用の後)なーんだ、今のヤクザ映画みたいな物だったんだ。緊張感に富んだヤクザ映画なら遠い将来、世界的な古典として評価される時が来るかもしれない。

あ、ここはごめんなさい。ちょっとしたギャグというか悪ふざけなんですけれど、出典を書いておくべきでしたよね。ローマの名将Gugrecusの言葉でも引用しようかと思いましたが、それも止めにして素直にお詫びします。このページにも、出典を出さないもじりが少し隠れていますが、それを踏まれたときにはまたお詫びすることにします。

 ひょっとしたら北野氏の書いている個々の細かい点には、古典語に暗いわたしの間違いへの正当な指摘が含まれているかもしれない。

あら。

ちょっと言葉が出ないなぁ。謙遜だよね。本当はソフォクレスを読んで書いてるんだよね。だって山本氏は、「私の考えでは現在もっとも信頼できると思われる岩波書店刊『ギリシア悲劇全集』の岡道男訳(御著書あとがき)」とか書いてるよ。古典語に暗い人がどの翻訳が「もっとも信頼できる」のかどうやって分かるんだろう。一番日本語が素直だ、とか、一番分かり易いとか、一番独訳に近いとかは言えてもさ。

だから読んで書いていることにしよう。そうでなければ、「謝れ!ソフォクレスに謝れ!」コピペを貼り付けないと。

邪推:いろんな人に相談した結果がこの一行に凝縮されているのかな。テイレシアスは予言なんかしてないもん問題とか、政治的陰謀の疑惑問題とか、山本氏が反論していない部分のうちどれくらいがそうなのだろう。一箇所推測がつくところがある。テイレシアスが赤ん坊のオイディプスを殺すようにアドヴァイスしたのかも知れない、というご意見に対し、こう書いた(緑)「原文は「フォイボス(アポロン)ご自身ではなく、仕える者たちから。」そもそも複数形。テイレシアス単品ではありえない。 山本氏の次の言葉は、このことを気にしていた証拠だ。「何となく、北野氏が殺人者の人数ばかりを気にしているオイディプスに見えてきてしまった。

私はこんなの(自分の上のパラグラフのような推測)は愚劣だと思う。そうかも知れないし、そうでないかも知れない。どちらにしても大したことではない。なぜわざわざやって見せたのかは内緒。

 しかし北野氏には自分の方法への批判的視点と人間を重層的にとらえる視点とが決定的に欠けている。それらはフロイトとは無関係の、学問の現実性と生産性を保証する初歩的な視点である。
 解釈の原則という根本のところで、合理実証主義的方法に盲目的排他的に追随し安住している人にとって、そこでの定説を真っ向から覆そうとする説が他の方法を採る分野から提出されることは愉快なことではないかもしれない。

なんでそんなことが分かるんだろう。合理実証主義的方法に盲目的排他的に追随し安住している人ねぇ。ヴィラモーヴィツのような人のお仲間にして下さるのは光栄だけれど、あの文章からそんなことを読み込むのは不可能だと思う。根拠はKamerbeekを引用したことだけでしょうに。本稿とは無関係だが、解釈がどうあるべきかについての私の考えは、「作者・作品・読者」ってタイトルで10年以上前に論文化したことがある。基本的にお勉強論文でいろいろ恥ずかしいのだが、考えはあまり変わっていない。その頃よりもさらに現在の方がバフチン化したという感じかな。こちらで二年ほど前に誉めてくださっている。最近気づいたのだが、気恥ずかしいけれどとても有り難い。結論箇所の長めの引用があるので、ご参考までに。

 思想の本として読むという北野氏の想像外の読み方に抵抗を感じるかもしれない。

「思想の本として読む」ことと「文献学的手続きを踏まえた上で読む」ことは何の矛盾もないということを理解しましょう。たとえば、

さて、オイディプスという登場人物はまさに一枚岩的心の持ち主ではない。ひょっとしたらこのこと自体、北野氏は同意しないだろう。Kamerbeekが同意しないのだから。一元的単層的な人間理解の方法を身につけ、そのオイディプス的安楽さから抜け出せない人にとっては、人間は一元的単層的にしか表れようがないのだ。(中略)
 オイディプスは自分は犯罪に与したことはないと確信しているが、殺人を犯したことがある。オイディプスは予言された運命から逃れられていると思っているが、予言が恐ろしい等々。

Kamerbeekと北野への悪口は置いておくと、「オイディプスは一枚岩的な心の持ち主ではない」という主張は有意味な主張だ(つまらないけれど間違っているわけではない)。で、その根拠として、「オイディプスは自分は犯罪に与したことはないと確信しているが、殺人を犯したことがある」を挙げるのなら、研究者なら、三叉路での殺人を「殺人じゃん」で済ませるのではなく、当時のアテナイ人にとってどのような意味を持っていたのかを問うだろう。ここの位置設定は面白く、どの国の法に訴えることもできない地域ではないか。そこで諍いになって暴力で攻撃されたとき、アテナイ人にとってどのような行動をとるのが「正義」なのか?そのことを語るオイディプスの言葉をアテナイ人はどのように受け取ったのか等々。そうした研究論文は数件以上あったはずだ。「オイディプスは予言された運命から逃れられていると思っている」もそうだ。ここはもう少し複雑で、当時のアテナイ人が予言をどう見ていたのかだけではなく(あまりアテにならナイと見ていたと思う)、悲劇的世界(ないし伝説的世界)での予言をかれらがどのように見ていたのかを検討しなければならない。予言は曖昧で、「父を殺す」と言っても、「不在の寂しさのために父が死ぬ」や、あるいは、「自分が護ってやれなかったので父が死ぬ羽目になった」も含みうると見ていたのかもしれない。その上で、オイディプスが予言とどうつきあおうとしていたのか、本当に逃げられると思っていたのか、運命が避けられないものだとしても自分は最悪の行為を犯すことのないように全力で努力べきだと考えていたのか、予言の別のフェーズが現れることを常に期待していたのかを問うことが出来る。山本氏の人間理解は、「一元的単層的」そのものだ。文献学の研究者たちの方がよほど複雑な理解をしている。彼らは、われわれのとは全く異なる古代ギリシアの世界に手探りで入り込み、その中での言葉や行動の意味を、現代のために見いだしてこなければならない(自分の言葉で言うのは面倒なので神に頼ると、ここで意図しているのはガダマー神の「地平融合」だ)。「わーいフロイトだ」とか、「今頃になってフロイトでオイディプス解釈やってんじゃねえよ」とかは、そんな基本的な手続きも出来ていない結果生まれた陳腐さへ向けられたのだと思って頂けると有り難い。

以上、356-358の解釈についてはそのうち書くつもりだが、山本氏への応答はこれで終わり。(8月23日修正。一応完成稿)

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