デヴィッド・エドガー『ペンテコスト』
文学座アトリエ公演

スタッフ:翻訳=吉田美枝 演出=松本祐子
キャスト:ガブリエラ・ペックス=香月弥生 オリヴァー・ダヴェンポート=大滝寛 レオ・カッツ=早坂直家
文学座アトリエ 2001年6月

東ヨーロッパの小国、古くはロシア、そしてトルコ、ハンガリーに支配され続けていた旧社会主義国家が舞台。国名は明示されていないが、使われているのはブルガリア語のようだ。

その国の若い学芸員が一つのフレスコ画をイギリスの近代美術研究者で、ラスキン研究所の研究員オリヴァー・ダヴェンポートに紹介するところから物語は始まる。このフレスコ画はアレナ礼拝堂にあるジオットの「悲しみの聖母」に似ているが、その国の伝承とある裁判記録から、ジオットより100年早い可能性がある。その場合、フレスコ画はヨーロッパにおける遠近法とルネサンスの根源に位置づけられることになる。ダヴェンポートはフレスコを切り取って国立美術館に収めようとするが、そのフレスコ画が発見された教会の所有権をめぐって争っているカトリックと正教会が、なぜかよく分からない理由でそれに反対し、それにコーネル大学の美術史教授であるレオ・カッツがよく分からない理由(絵にも寿命があり、死ぬべき絵を無理に移して本来の文脈から外すことで生きながらえさせるのは間違っているという理屈)で協力することで、その計画は一旦挫折する。カッツはヨーロッパでは13世紀半ば以前に遡ることのない絵の具が用いられていることを理由に、絵の価値を否定する(それが何故教会の意図に敵うのだろう?)。果たしてこの絵は本当に価値のないものなのか? 物語のこの線は、突然の侵入者によって遮られる。

侵入者たちはアジア・中東各地の難民であり(なぜ一つにまとまったのだろう?)、教会に立てこもり、ダヴェンポートたちを人質に取ることで西側への移住を要求する。リーダーはパレスティナ人の女ヤスミン(山本邦子)である。絵と人質をめぐる交渉が進む中、絵の真実も明らかになって行く。

作品の出来ははっきり言って良くない。周辺を犠牲にしながら、自らを合理性とヒューマニズムの権威として押しつけるヨーロッパの自己中心主義が告発されるが、ヨーロッパも周辺もたくましさを持たない。独善的な帝国主義と泣き言しか言わない被害者たちそれぞれの主張は、まるでハリウッド映画のようだ。東欧革命の結果と中央ヨーロッパの現状が悲惨であることは確かであり、その体制に連なる人々を否定的に描くのは別に構わないにしても、その描き方はあまりに皮相だ。

だが、作品にある程度の重さを与えているのは、ここで抑圧された難民たちの声がそのままの言語で響いているという点だ。アゼルバイジャン・ロシア・クルド・ジプシー(ロマ)・ボスニア・スリランカなど、様々な出自の難民たちが何故か(何故だ?)一つのグループになり、パレスティナ人とともに保護を求めている。そして、彼らはそれぞれの母語をしゃべり、彼ら同士での共通語として、またイギリス人やアメリカ人との会話のために英語を話す。

これは結局オリエンタリズムのドラマだ。難民たちは面白い物語のための「素材」になっている。確かに、ヨーロッパのルネサンスと近代を生み出すのにオリエントが力を与えたという、作品の最後に与えられるテーゼは真なのだが、それが「我々にとって」どんな意味があるのだ。オリエントの意味をルネサンスの先取りに求めるのが有意義なのはヨーロッパにとってのみだろう。さらに、このテーゼは劇のなかでは絵の価値をめぐる議論と重ね合わされるが、そのことがらの正しさは、「この絵の」真贋とは全く無関係なのだ。暗黒の中世とルネサンスによる人間解放という、今では高校教科書でも採用していない(よね?)シナリオを、優れた美術史家という設定の主人公たちが滔々と述べるのは噴飯物ですらある。また、遠近法を「ありのままにものを見ること」と言い切るのも滑稽だ。この芝居の図式では、中世の伝統的な書法に縛られないアラブ人が、当該のフレスコ画において「ありのままに」ものを見て遠近法を「発明」したのだが、そうすると何ですか、遠近法を持たない大抵の民俗芸術は「歪んで」いるのですか? ヨーロッパの独善を糾弾するまさにそのところでヨーロッパの独善が出てきているのに作品は無自覚だ。

作品自体「植民地主義的搾取」ではないのかという問いかけを、この作品自体、予想しつつも何とか否定的答えを出そうとあがいているが、これは日本語版ではごまかしようのない問いになる。日本のコンテクストで見たとき、この芝居は結局ヨーロッパとその周辺をネタにしたお話に過ぎない。イギリスでは、役者は外国語を話すわけではない。当該言語のネイティブが役者として雇われることになる。そこでは、彼らの「生の」声が少なくとも舞台に響く。観客は他者性に直面する。ところが日本では、日本人の役者が一所懸命彼らの母語の台詞を覚え、それはその限りで立派な努力と言うべきだが、「頑張って勉強したね」という程度のものでしかない。「日本人」がそれらの言葉をしゃべっているようにしか聞こえない。それ自体はやむをえないことだが、作品の価値は大きく殺がれることになった。英語を日本語に置き換えるのなら、第二言語・第三言語も日本にネイティブの大勢いる外国語で置き換え、それらネイティブの俳優が演じて初めて、この作品の持つ意味はある程度「我々」のものになるだろう。

しかし日本人が「外国語」で、それもつたないながらも、英語以外の、難民たちの言語で演技をするという行為は、日本の演劇にとって大きな意味を持ちうるだろう。それは今だ「内なる他者」でしかないにせよ、他者との出会いの訓練は、日本人にとって最も必要な事柄の一つだ。やがては、ヨーロッパの作品によって観光旅行的に出会うのではなく、日本にある他者の問題と取り組むのが、演劇の最重要課題の一つになるだろうが、そうした芝居を見いだす糸口になりうるのだ。そうした芝居が一般的になったとき、日本人と朝鮮・韓国以外の外国人、南米やイラク人も演劇の中で堂々たる「主体」になり、「文学座」の俳優になるだろう。