サラ・ケイン『フェイドラの恋』 シアターΧ

久しぶりにシアターΧで芝居を観た。

『赤旗』に劇評を書いたのでアップロードします(PDF)。

サラ・ケインがイギリスでスキャンダルを引き起こしたデビュー作『爆風』は、主人公によるレイプあり、兵士がその主人公の目玉を生きたまま抉り出して食べてしまうカンニバル場面あり、舞台上での排便ありの、大変な代物だったそうだ。日本では2004年に今回と同じシアターΧで初演されている。このときの記録は
http://www.anneesfolles.org/j/archive/blasted.html
にあるが、そこにリンクされているドラマターグシェアブック(鑑賞手引き書)で彼女の作品についての幾つかの解説がなされていて興味深い。

いろいろネットで調べてみると、『渇望』は、2004年度に初演がなされ、最後の作品『4.48サイコシス』も、去年、にしすがも創造舎による舞台上演があったようだ。どれも観ていないなぁ。『フェイドラの恋』は今回が日本初演。

さて、前記のドラマターグシェアブックには、『フェイドラの恋』をかつて演出したピーター・キャンベルによる「癒すことのできないものとの直面 サラ・ケインの作品を演出するにあたって」というエッセイが収録されている。そこで彼はこの作品の演出について次のように語っている。「サラ・ケインについての議論をするときにいつも持ち上がる点の一つが、彼女の戯曲が要求する暴力とセックスを舞台上で演出することの難しさである。私が『PHAEDRA’S LOVE(パエドラの愛)』の制作を思い描き始めたときにまず最初に頭に浮かんだことは、そのような動き(暴力とセックス)を観客に対して説得力のある効果的なものにする方法だった。ケインの意図であったろうと私が信じる、ある種のショックと不快感を生み出し、観客を驚かせ考えさせるようなイメージになることを確信したかったのだ。(p.10)」

実際に彼が採った方法についてはリンク先を観ていただくことにして、サラ・ケインの作品上演において、不快な場面を不快な場面として提示し、観客にショックを与えることがきわめて重要だと彼は考えていた。このこと自体は、芸術としてはそれほど斬新なものでない、というより現代ではわりと普通の方法であることはArthur Danto : The Abuse of Beautyに詳しい。芸術が自己の正当性を主張するためにその領域を少しずつ拡張し、その結果disgustが開拓すべき領域になったのはここ数十年の傾向である。ただ、演劇においてはやはりまだまだ未開拓に思われる。特にシアターΧみたいに、観客席と舞台がきっちり分かれている空間では、観客は「ああ作り物か」と思って斜めに見ることがすぐに出来るからである。舞台で本当にセックスすることは出来ても、性器切断や内臓抽出は作り物を使うしかないし、本当にセックスしてもほとんど意味がない。でもこのショックをショックとして成立させないとケインの作品を上演する意味はほとんど失われてしまうように思われる。

今回はそこは約束事の持つ記号性(フェラティオ)と、ダンス的な動きの様式性(リンチ)によっていわば「美化aestheticization」を試みていたが、そうして上演されるとケインのテキストの物語上の弱さが前景に出てきてしまう。

「赤旗」評に補足をつけると、厳密にはケインの作品はローマのセネカの「ファエドラ」にインスパイアされたものだが、この作品自体エウリピデスの今は残されていない「ヒッポリュトス」を原作としており、エウリピデスの現存の「ヒッポリュトス」はその改作なので、「ギリシア悲劇に基づく」と書いた。